あかい十字 前篇(下)

 

 矢代守から紹介された椎堂冬馬少尉は、一年に四回程度、上陸するたびに長瀬の旅館に宿泊した。ある日、椎堂の両親が旅館にいる少尉を訪ねてきた。

 遠路はるばるやって来た椎堂の両親は、立ち働いている遠子を見ると、「お顔が大人びていらっしゃるけれど、まだ女学生なのですね。こちらの旅館はお兄さまが継ぐのでしょうに、よくお手伝いをされている」と眼を細めた。旅館の手伝いをさせるのは父親の方針だった。たとえ跡継でなくとも家業くらいその家の子は知り尽くしておけという考えだったからだ。

「うちは男ばかり六人兄弟でね。若い娘さんをみるとついつい、この方はうちの子のどの子のお嫁さんにいいかしらって考えてしまうのよ。次男の冬馬は手がかかりませんでしたけれど、上にひとりと下に四人も男子がいるのだから母親の苦労を察してちょうだい」

 椎堂少尉の母親は旅館の仕事を手伝っている遠子の動きを眼で追いながら、「落ち着きがあり、よく気が付いて。これならどちらに嫁がれても安心ね」と褒めてくれた。


 軍港の旅館のうちでも遠子の家は料亭が表看板で、古都の老舗からの「のれん分け」ということもあって父親も関西からの入り婿だった。

 軍艦が港に入るのを旅館ではたらく若い女たちは愉しみにしていた。眼に見えて浮足立っていた。若い士官たちがまとめて宿泊する貸し切りの期間は建物全体に若々しい青春がみなぎるかのようだった。

「ええな、顔を出すんやないで」

 旅館の主人である遠子の父親は従業員の若い娘たちに重ねて注意した。

「女に飢えて陸に上がってくる若い男の前にあんたらみたいな別嬪が顔を出してみ。士官さんたちに何かあったらこの旅館も海軍省からお咎めを受けて廃業にされてしまうで。どうせ遊郭に馴染みの妓が出来たらそっちに流れるからな、それまでおとなしくしときや」

 未婚の仲居たちは士官たちのいる棟から遠ざけられていた。しかし海軍士官という今でいうところのアイドルを前にして若い娘たちがおとなしくしているはずもなく、渡り廊下や庭先から何とかして飛び出していこうとする。そのたびに「こら。何してんのや。そないに笑って誤魔化そうとしても駄目なもんは駄目や」「何でそないな化粧をしとるんや。魂胆ばればれや」と父親から怒られていた。



『ボーイミーツガール。なるほど。ふふっ。』

 録音の中で曾祖母は笑った。

『真珠湾の大勝利の直後は、しばらく活気がありました。艦艇から若い兵隊さんがどっと降りてこられると、それだけで街中がうるさいほど。年頃の娘は彼らの視線を集めてしまうので、家から出るなと云われたりしたものです。』

 時勢がどうなろうと、若い男女が集まれば磁石のように惹かれ合うことは止められない。尚道が知る戦時下のボーイミーツガールの変わったものといえば、ユダヤ人収容所での逸話だ。敷地内の宿舎に何かの理由でヒトラー・ユーゲントの若者たちが一時的に泊まっていた。その宿舎の脇をその日の作業に向かうユダヤ人の少女が通りかかる。ヒトラー・ユーゲントといえば金髪碧眼、アーリア人種優生政策の体現だ。であるのに、その彼らの前を栄養不足で痩せこけたユダヤ人の少女が通りかかると、

『女の子が来たぞー!』

 彼らは窓に突進して鈴なりに顔を出し、我先にと菓子を少女に差し出して、顔を赤くしながら関心を惹こうと必死になったのだという。

 その気持ちはよく分かる、尚道はうんうんと頷いた。男子校に女子が現れたようなものだろう。

 しかし時はナチスドイツの体制下、ユダヤ人の女は清純な仮面をかぶりながらその穢れた肉体と悪魔的な技巧で健全なドイツ人青年を堕落させ、国を内部から浸食していく不潔などぶねずみだと盛んに云われていた頃のことなのだ。

 ユダヤ人の女はすべて淫婦で、その肉体には病原菌をうようよ持っていると彼らは教え込まれていた。

 おぞましい性病の写真やポルノまがいの映像を活用して念入りにそんな洗脳教育を受けてきたヒトラー・ユーゲントの若者たちなのだが、窓の外に同じ年ごろの少女が通りかかった途端そんな洗脳は頭からきれいに吹き飛び、

『女の子が来たぞー!』

 窓に駈け寄って押し合いへし合い、笑顔で出迎えた。

 一方のユダヤ人の少女の方も、「死にやがれ」と胸中で毒づきながらも、無邪気に舞い上がってにこにこしている若者たちを前にしては気を悪くするのも通し切れず、こちらも少し赤面しながら二度と口にするかと決意していたはずのドイツ語で「ダンケ」と礼を云い、彼らが滞在している間は差し出されるお菓子を毎日もらっていたそうだ。

 

 軍港を訪れる家族との面会の場を提供するだけでなく、旅館は士官のお見合いの場にも使われた。釣書であらかじめ話を固めておき、帰国しているわずかな間に大急ぎで縁談は整えられた。

 気が付けば、兄の同級生で実家が近所の矢代守少尉が結婚していた。

「帝都の海軍将校会館で式はすませたのだよ。地元だと気恥しいじゃないか」

 遠子の兄に結婚の報告に来た矢代はそう云った。兄は笑った。

「竹馬の友なのに水くさいな。うちで披露宴をやってくれれば、街中に紅白饅頭を配って花火を打ち上げてやったのに」

「だからこっちではやらなかったんだよ。勘弁してくれ」

 矢代少尉は新妻が軍港に来たら挨拶に伺わせることを兄に約束した。

「椎堂少尉もご婚約されているのですか」

 玄関で何の気なしに遠子は椎堂に訊ねた。椎堂は遠子が両手で差し出した軍帽を受け取ると、

「気になる?」

 と微笑んだ。



『海軍士官さんの結婚には海軍大臣の許可が必要でした。あの人たちはいくら好き合っていても遊女や素性の知れない女とは結婚できませんでした。皆さんお世話をする人たちがよく考えて、士官の体面を保つ釣り合いのとれた上流家庭の、教養のある堅気の娘さんと順当にご婚約なさいました。縁談は降るほどきていたと想います。将校は高給とりでしたし、軍人の嫁になるということは国からのさまざまな恩恵にもあずかれました。開戦から三年と経たたぬうちにみんな戦死されてしまうなど、誰が想像したでしょう。』


 結婚式は帝都だったが、矢代守の葬儀は郷里で行われた。階級が特進したことを示す立派な墓が空襲に耐えていまも海を見下ろす港の墓地に建っている。

 録音の中で曾祖母遠子は一呼吸おいた。それから静かに云った。

『高等女学校卒業をしたわたしは赤十字社の看護婦になりました。』



》中篇(上)に

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