あかい十字 中篇(下)


 遠子は泥土の上で気を失っていた。払暁が近かった。いつの間にか倒れていたのだ。誰かが遠子の腕をとり、誰かが遠子の背嚢を取り除く。抱え上げられ、担架ではこばれた。脚を引きずるようにして夜間行軍していた兵士たちが振り返り、大急ぎで遠子をのせた担架を軍医の許に送り出した。道を空けろ、道を空けろ。

「気がつかれましたか。よかったです」

 従卒の衛生兵がほっとした声をあげた。甲種看護婦生として学んでいる途中で徴兵された遠子のような若い看護婦は軍隊行軍に慣れるまでの間よく行き倒れた。

「そのままお休みください。軍医どのは看護婦ごときで俺を起こすのかと云ってお目覚めにはなりませんでしたので、副官から一報患者を認めてもらい、一日分の練兵休をもぎとってきました」

 倒れた時に顎を打っていた。遠子は自分で傷口を消毒した。簡易寝台の上で眼をさました遠子の様子に気が付いた兵士たちが、ああ良かったという顔をして、野営のあちこちから立ち上って朝日のなか遠子に笑顔を向けていた。

 じゃがいも。

 ずらりと並んだ兵士たちの笑顔がそう見えた。全員が自分の子どものように遠子には想えた。



『みずさかずきを交わして出征してくる看護婦は兵士たちからいつも驚嘆をもって迎えられ、敬意をもたれていました。男でも怯む戦場に女が入って来て爆弾が落ちれば身を挺して患者を庇い、救護してくれるのですから。何かあれば患者たちは一斉に看護婦を見るのです。男の医者ではありません。婦長は『あなたたちを置いて逃げはしません。看護婦も一緒に死にます。』そう云って彼らを落ち着かせていました。

 戦時中、民間医療従事者の中でもっとも多くの殉職者を出したのが日赤の看護婦です。不衛生な環境で患者に付き添うために結核や急性伝染病がうつりやすかった。兵士からはあなたがたは神様だと何度も云われました。』


 どんな問いに対しても、曾祖母は淡々と語っている。


『戦時中は色恋なんか表に出せません。でも若い女性のことですから。内地のことになりますが略称で『東一』と呼んでいた臨時東京第一陸軍病院などは都心にあり、看護婦たちも都会的でおしゃれさんが多く、自由恋愛も盛んだったときいております。とくに田舎から来た兵隊さんが彼女たちにお熱になってしまった。

 身持ちの堅い看護婦がいる一方で、ごく一部の看護婦は自由奔放に恋愛を楽しみます。それは当時も今も、看護婦かそうでないかにかかわらずそう変わりません。ええ、戦前からそうでした。

 ひとつには看護婦という職業柄、異性が常に身近で、結婚するまで成人男性のはだかを知らない娘さんたちに比べれば性に対しての抵抗が薄かったのもあるでしょう。

 多少は耳にしないでもないそんな一部の若い看護婦たちの素行に対しては、戦後、婦長をしておりました時も特に咎めませんでした。自身の健康を守り患者の前に出た時と勤務時間内だけは風紀を乱さずきちっとしていればいい。真面目でも物覚えが悪い看護婦もいれば、私生活が奔放でも職務では使える看護婦もいる。その逆ももちろんある。それが実感でした。』


 東一は現在、国立国際医療研究センターと名を変えている。



 愛する人がいて、その人と二度と逢えないと知っている時におこることが遠子にもおこった。その日が別れだった。看護婦になる決意をしたのはあの日のことがあったからだ。

 椎堂冬馬の戦死が広報に載ったあと、椎堂家の長男から遠子あてにかなりの額のお金が送られてきた。自分に何かあったら貯めていた給与をすべて長瀬遠子にやって欲しい、そう頼まれていましたと手紙のなかで冬馬の兄は述べていた。弟とは仲がよかった。戸籍上のことは何もなくとも、冬馬は貴女と結婚したつもりでいたようです。

 椎堂の遺言をきいて遠子は泣いた。わたしはあなたの妻。

 大きな手で触れられているあいだも、遠子はまだ茫然としていた。本当にこれが最期になるのだろうか。もう逢えないのだろうか。

 破竹の勢いは最初だけだった。その後は坂道を転がり落ちるようにして日本軍の大敗が続いていた。陸軍は退却を云いかえた転進を強いられて大陸にさ迷い、世界第三位の偉容を誇っていた帝国海軍の大艦隊も消しゴムで消すようにして海原から消えた。

 予感はあったが実際に云われると足許がよろけた。

「椎堂さん」

「側溝に落ちるよ。あぶない」

 強い力で腕を引っ張られた。勢いあまって反対側に飛び出した。その遠子の腰を椎堂が支えた。椎堂はそのまま遠子を離さず抱いた。

「ああ軽い。そうだった。女の子はこんなにも軽い」

「椎堂さん。わたしは女の子ではありません」

 ぶるぶる震えたくなる身体をはげまして遠子は顔を上げた。時間を巻き戻して料亭で食事をしていた正午に戻りたい。

「『おばさん』と呼ばれる歳です」

「以前はそう呼ばないで欲しいと云ったよ」

「この状況では、その呼び名を挟むのがふさわしいように想います」

 椎堂はそんな遠子の頭を抱えてほおずりをした。

「今はそれを忘れて欲しい」

 霧のような小雨が降りだした。軍人が妻を入港地に呼び出すように遠子も椎堂から呼び出されて、列車に乗って遠い都会にいた。

「あっちに行こう、遠子さん」

 水気を含んだぬるい風が吹いていた。椎堂が手を引いていく先に何があるのか遠子は薄々知っていた。決して近寄るまいと忌避し、疎んじていたような宿が並んでいる。あたりには同じように身を寄せ合っている軍属の男と女がいて、ひと目から隠れるようにして誰もが想いつめた蒼い顔をしていた。彼らは海の底にいるように見えた。誰もが分かっていた。次はもう帰ってこない。

 何を云っているのだろうこの人は。ほんとうにどうかしてしまったのだ。わたしも椎堂さんも。そんなはずはない。生還するに決まってる。

 これは堪えるものなのだろうか。いつまで堪えていたらいいのだろう。少女の薄ぼんやりした夢想の中では、はだかになって抱き合うのだろうという程度の知識しかなかった。雨戸を立てた薄闇のなかで想いもよらぬことになっていく。男の唇が遠子の身体から雨を拭った。

「こうして女の人を抱いているとね、とても気持ちがいいんだ」

 遠子さん大好きだよ。ずっと好きだった。

 知っていた。

 太ももや腰が擦れ合っている。何が起こってるのか分からない。恥ずかしくて死にそう。戻ってきて。死なないで、椎堂さん。

「想い残すことはこれでもうない。潔く死ねます。ありがとう」

 次の出航で死を覚悟していた椎堂はやさしく遠子のからだに触れながら遠くをみるような眼をしていた。

「君を妻にしたかった。ぼくのことは忘れて下さい」

 同じ眼差しを遠子は後にみることになった。他ならぬ自身を映した出征前の写真の中に。       

 


『わたしの結婚はありきたりなものです。夫になった人は学業の途中で戦場に招集された特攻隊の生き残り。』

 曾祖父のことだ。特攻隊だったことはきいていたが、曾祖父母のなれそめは知らなかった。尚道は耳をすました。

『出撃前に終戦になりました。大学には復学せずに鉄工所で働いていたところ怪我をして、夫は病院に担ぎ込まれてきました。わたしの顔を見るなり夫は絶句しました。そして深い溜息をつきました。『日赤の人だ。では、あなたもあれを見たのですね。』

 それで全てが分かりました。瞼をめくると動き回っている蛆虫。野辺に積み上げられた死体。生き残った者の背後には誰の後ろにも白骨があるのです。夫の背中には沢山の死者が連なっていました。夜中に叫び声を上げて跳ね起きる者は精神を保ち、それすら出来ない者は崩れるようにして魂を病む。仲間を逝かせて生き残った卑怯者。夫は内に秘めているものが大きすぎた。

 わたしといる間だけは忘れさせてあげられるのではないか、そう想って結婚しました。夫のほうも同じだったようです。元はしっかりした人でしたから。家族の為に立ち直らなければと懸命に生きてくれました。

 ある日、生まれた赤子のかわいい寝顔に釣り込まれて、二人で顔を見合わせたことがあるのです。お互いに本当に愕きました。それではまだわたしたちは笑うことが出来るのだ。そんな愕きだった。

 散っていった仲間を想い出すからと云って夫は死ぬまで飛行機には乗れませんでした。

 後方にいる医療部隊は何も知らないと? とんでもない。その有様をつぶさに見てきたのは看護婦です。看護婦が見るのはそれだけです。わたしたちがいちばん戦争を知っている。』



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