第14話 省略

 ああ、恨めしい。


 マンションの扉を開けた途端、耳に飛び込んできた声。


「え?」

声を漏らすと、短い廊下の先、おそらくリビングに続く扉の隙間からもやのようなものが滲み出す。


「聞こえねえふりしとけ。興味を持たれるぞ」

思わず立ち止まると、田中さんに背中をぽんと叩かれ告げられる。


 田中さんに背中を叩かれたと同時に、靄のようなものはゆっくりと扉の向こうに引いていった。


「はい」

素直に従って玄関に入る。


 誰が興味を持つというのか。声の主に違いないのだろうけれど、その声の主は誰なのか。どう考えても興味を持たれていい方向にいくとは思えない。


 そして田中さんも胡散臭いだけでなく、それなりに力はあるのだということに気づく。自分では仲介以外はしないようなことを言っていたけれど。


 声に意識を持っていかれたが、臭い。玄関から見える廊下に重ねられたゴミ袋の山、そこからはみ出して崩れたゴミ。臭いの元はあきらかだが、すえた臭いとはまた違う、もっと嫌な臭いな気がする。


 樒さんは気にせず、いや、気にした結果か? 玄関で止まることなく――靴は脱がず、土足のまま進んでいく。


 ちょっと土足のまま上がることに抵抗があったのだが、田中さんもそのまま上がるのを見て、俺もそのまま足を進める。


 そして躊躇ちゅうちょすることなく、リビングへの扉を開ける樒さん。


 部屋の隅、リビングのカーテンに絡まるようにして男がうずくまっている。ゴミで埋まったリビング、うずくまっている男が這いずりでもしたのか、服の山が積まれたソファと男までは床が見えている。


 男は突然入ってきたこちらを見ることもなく、丸くなったまま、獣がうなるような声を漏らしている。


 そして男が唸るたび、体からさっきの靄が一瞬広がり、また男の中に戻ってゆく。


 家の壁や床に染みたような前回のモノとは違う。どうやら祓うべきものは、男の中に巣食っている。


 男から靄が漏れ出すたび、ぞろりとした気分になる。


 きっとこれにも反応はしないほうがいいのだろう。少なくとも樒さんと田中さんは、見てもなんの反応も示していない。男がうずくまってることには目を向けてるけど、それだけだ。


 平常心、平常心。


「……これは、契約できるのか?」

「鍵を預かった時に一筆もらってる」

眉をひそめる樒さんに、田中さんが鍵をぷらぷらと振ってみせる。


 このマンションの扉の鍵を開けたのは田中さんだ。


「昼間会った時には会話できたんだ。でも、夜に電話が鳴ったと思えば、唸る声しか聞こえなくってな」

両手をあげて肩をすくめる田中さん。


 うずくまった男のそばに、携帯が落ちている。


「ま、本人も今夜がやばいって思ってたのか、俺に任せるって鍵を渡して来た。じゃあ、ってんで契約の委任状ももらっといたんだよ」

会ったのなんか2回だってのに、とぼやく田中さん。


 委任状なんて用意周到だな……と、思ったけれど、樒さん相手だといるね。短い付き合いだけど、確実に必要になるのわかる。


 うずくまった男にはこちらの会話が聞こえていないのか、理解できない状態なのか、特に何も反応はない。


「なるほど。では契約を」

田中さんを見ていた樒さんが、俺に顔を向ける。


 契約書類を一式、田中さんの前に。前回、外で契約書に署名捺印してもらったので、クリップボードを用意してきた。家の中は中で物が散乱してて、平らな場所が少ない状態だったし。


「用意がいいねぇ」

書類ケースにクリップボードを乗せて渡すと、田中さんが口笛でも吹きそうな顔で言い、金額を見ただけでサインをする。


 たぶん樒さんの契約書の様式は見慣れているからだとは思うけど、他に目を通すことはなかった。


「箱を」

「はい」


 書類のやりとりの後、樒さんに声をかけられ箱を渡す。ローテーブルの上、箱を置くために綺麗にしたほうがいいだろうか?


 と、思っている間に樒さんが床に箱を置いた。這いずった後らしい、あの空いた床のスペースに。


 もしかして、箱を置くのもどこでもいいのか?


「汝、箱と共に在り、箱と共に滅ぶべし」


 えっ? ちょっと短くないか!?


 あまりの省略っぷりに驚いていると、男から靄が引き出され――それは思ったより大量で、見ているだけで気分が悪くなるような、ねっとりとしたモノだった。


 恨めしい

 何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故、何故。


 ぐるぐると頭の中に響く言葉が、目眩を起こさせる。そして言葉が臭う。一言ごとに鼻の奥に臭気が溜まるようだ。


 ――それも樒さんが箱の蓋を閉めるまで。


 白い指先でもって、ぱたんと蓋が閉じられると強烈な臭いはおさまり――まあ、ゴミは臭うんだけど――嫌な感じも綺麗になくなった。


「依頼人が見てねぇからって、手抜きすぎじゃね?」

隣でボソリと田中さん。


 弓手ゆんでとか馬手めてとか調べたんですけど! あれただのパフォーマンスだったのか!? 一言で終われるもんだったの!?


「終わったぞ」

樒さんが振り返って言う。


 終わったらしい。

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