第8話 祓い
湿った空気、カビ臭いとまでは行かないが、家の中はすがすがしさとは程遠い。空き家か、めったに入らないビルの倉庫のような……。おそらくずっと閉め切って、人の出入りがあまりないせいだろう。
当事者だったときはそれもこれも怪異のせいだと、どうしてもその考えに行きついてしまったけれど、今思えば俺の実家も換気をしていたかどうか。
そもそも家が怖いのに、家に籠るのも変だ。俺の家族も暫くは家に帰りたくないとぼやいていたのに、ある時急に籠り始めた。俺ももう少ししたらそうなっていたかもしれない。
家の空気が重い、照明が、家の中が薄暗い、そう言いながら窓どころかカーテンも開けない。何故か開けるともっと怖い目に遭う、と、どこかで恐れていた気がする。
男の様子とこの家の何とも言えない空気に、平気なはずの自分の心も少し重くなる。雰囲気にのまれるつもりはないのだが。
喋りまくっていた田中さんが口をつぐんだせいもある。陽気にしているのも場違いではあるけれど、さっきまでと急に変えられると調子が狂う。
樒さんだけが普通だ。特に周囲を気にした様子もなく、男に案内されて歩く。黒いスラックス、白いワイシャツ、黒い革手袋。この季節に革手袋? と思ったのだが、単に雰囲気作りだそうだ。
短い廊下を通り、足取りの重い男がドアを開く。ごく一般的なリビングダイニングの中には三人の家族。一様にやつれ、草臥れた顔を入って来た俺たちにゆっくりと向ける。
正直怖い。怪異幽霊うんぬんではなく、追い詰められた人間から向けられる眼差しが。すがられて自由に動けず、一緒に溺れてしまいそうだ。
部屋の中はすさんでいる。閉め切った中、色々な臭いが混ざる。目に入るのは、食べたものの包装、プラスチックトレイ、封を切っていないダイレクトメール、椅子の背にかけられた上着。
おそらくシンクの中は洗っていない食器でふさがっている。――身に覚えがありすぎる。片付けどころか、食事そのものさえ面倒だったあのころ。
車の中で聞いた田中さんの話からすると、両親と娘の三人暮らし、直接依頼して来たのは父親の弟だそうだ。案内してくれたのがその弟だろう。男は俺と同じように、この家とは別な場所に住んでいる人間なのだろう。
「お話はうかがいました。――始めましょう」
陽が落ちる寸前、カーテンの閉められた部屋は薄暗く、黒目がちの6つの目が表情の抜け落ちた顔でじっと樒さんを見ている。案内して来た男の顔は見えないが、きっと似たような顔をしているのだろう。
樒さんから目で促され、鞄から上品な紫の風呂敷に包まれた、白木の箱を取り出す。残念ながら俺が作ったものではない。
「ああ、この場所がいいでしょう」
部屋を見まわした樒さんが、キッチンカウンターを指す。
「片付けていただけますか?」
樒さんの言葉に返事の言葉はなく、案内の男がカウンターから雑に物をどかし始める。
破れたラップがかかったままの中身のない容器、生けられた花が萎れて貼りついた花瓶が、すぐそばの食卓に動かされる。その食卓の上もひどい有様だ。
箱は蓋が緩いようでカタカタと揺れて小さな音が鳴る。張り詰めた空気の中、やたら耳に響く。
空けられたカウンターに据えられた、箱の蓋を樒さんが開く。敷かれた紫の風呂敷の上、空の箱の横に丁寧に揃えて置かれる。
「見えざるモノ、悪しきモノ、この家族に仇なすモノ、ここより
箱の蓋に手をかけ、樒さんが唱える。
俺の家でも同じ場所で同じことを唱えていた。食事の場所から流しを隠すようなよくあるカウンター。でも、この部屋の中の
そして湿気った重い空気に色がつく。――ああ、あの時と同じだ。
「汝、我が後方にいる能わず」
平常と変わらない声で樒さんが言葉を紡ぐ。
四方の壁や窓からにじむように這い出て来たソレが、俺たちのいる場所、樒さんの背後を避けるように三方に分かれる。
依頼主の家族から、繰り返し息を短く吸う音と漏れ出した小さな悲鳴が上がる。きっとこの家族には、俺よりはっきり見えている。俺が見るよりも恐ろしいモノが。
自分たちを集めた声の主を目指すようにそろりそろり、もぞもぞと集まってくるソレに、樒さんの目が向けられることはない。
「汝、我が
質量を持ち何かの形をとり始めた始めたソレが、樒さんの左から、前方に押し出されるようにぐにゃりとゆがむ。
「汝、我が
おどろおどろしいものがぐにゃりと引っ張られる。
「汝が姿をこの世に見せるは、我が前の箱の中に限り」
「汝がこの世に在れるのは、我が前の箱の中」
箱の中に周囲の何かが押しつぶされ、引き込まれてゆく。抵抗も無駄、逃れようと伸ばされた体も、渦に巻かれるようにあっという間に箱の中へ。
「汝、箱と共に在り、箱と共に滅ぶべし」
かぽんと蓋が閉められる。
「終わりました」
樒さんが紫の柔らかな風呂敷の端をつまみ、箱を包んでゆく。
ああ、俺の時と同じだ。ぽかんとした依頼人の家族を眺めながら、そう思う。俺の時も祓いはあっけなく終わった。やつれてはいるものの、依頼人の家族にもう暗い影は見えない。
あっけに取られたような、ぽかんとした顔はいっそコミカルだ。
「ありがとうございます……」
男が頭を下げる。
「あ、ありがとうございます!」
「本当に……っ」
「ありが……っ」
無気力だった三人が泣き出しながら頭を下げる。
礼のために頭を下げているのか、感極まって泣いてうずくまりたいのか本人たちもわからないだろう。
「ご家族の平穏を祈っております。では、これで」
さっさと踵を返し、部屋を出、家を出て車に乗り込む樒さんに慌ててついてゆく。
「相変わらずだなあ」
感心半分、ぼやき半分な感じで運転席に乗り込む田中さん。
「相変わらず迷信に囚われている者は、感情の起伏が激しくて付き合いづらい」
そう言って、俺の膝に風呂敷包をぽんと置く。
ちょっ! これ、さっきのアレが入ってるヤツ!!!!!!
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