胃の中のクジラ 5
次の昼
「入っても良い?」
「どうぞ」
「絵都君、一人で来たということは、僕とラー君の話ですか?」
「ううん、それはラー君が教えてくれた」
「そうでしたか。では、他にも聞かれたくない話が?」
「…聞かれたくないというか、華寿海が思っていることは何となく分かるから」
「ふふふ、華寿海は言葉が足りないでしょう。絵都君も大変ですよね」
「ううん…」
「でも、華寿海は僕に知ってほしくないことが多いみたい」
冴仁衣さんが言ってた、僕が半分神様になりかけているということ。蘭滋さんの不思議な能力のこと。そして、僕が生まれた頃の話。
「そうでしょうね…」
「知ることが出来ないことは、知ろうとしなくてもよい」というのは、華寿海の物事への向き合い方をよく表している。
なぜなら、華寿海は力が強い存在だから。そして華寿海は優しいから。
「放っておく」ということがどれだけの存在を生かしておけるのか、それは華寿海が一番知っている。
きっと、生存とは自由だ。
でも、僕が華寿海から自由であるということに、意味はあるのだろうか。
「僕は、絵都君が今、何に悩んでいるか分かりますよ。どうしてかと聞かれたら、『何でも知ってるから』としか言えませんが」
「そうなの?」
「ええ」
「私の周りの人間は、…まぁラー君はクジラですし、華寿海は神ですが、彼らは私の『世界の全てを知りたい』という欲を、とても残酷なもののように扱いますよね。私はそれが面白いです」
「うん…」
「そしてそれはね、『知られる』ということが『知ろうとする』こと以上に難しいから、という理由によるもののように思えます」
「『知られる』って、どうして難しいのかな」
「ははは、それを僕に聞くのですか?」
「『知らない』なんて言葉を、こんなつまらないところで使いたくはありませんが、残念ながら僕にはそういう感覚がありません。でも、そうでもないと全てを知ることは出来ないですからね、しょうがないです」
「だから、僕は知りませんよ」
「…分かった」
「でも『知る』側のことは教えてあげられます。知りたいですか?」
「うん」
「分かりました」
「絵都君、知るということには覚悟が必要です」
「覚悟?『知られる』方じゃなくて?」
「はい」
「そして、その覚悟を麻痺させるのは、好奇心だけです」
蘭滋さんがその言葉を言い終わった直後、ノックの音がして華寿海が入ってくる。
「なんだ、絵都もここに居たのか」
「どうしましたか?」
「昼飯の時間だから呼んでこいって、あの気味悪い時計が」
「ケイ君ですね」
「…時計の、『ケイ君』?」
「ええ、そうです」
「何の話をしてたんだ?」
「あ、」
「華寿海は、絵都君のこととなると途端に野暮ですね。昨日言ったでしょう、『知りたかったら、こっそり僕のところに来い』って」
「ああ、あのクジラのことか」
「はい。その昔、典姚が持ってきたクジラのお腹に居たのがラー君です。まだ赤ちゃんだったので食べることはせず、一旦海に返して世界中の海を見て来させ、ラー君が死んでしまった今、その記憶を食べているという話をしていました」
「……言わなくて良い」
「ごめんね」
「何でお前が謝るんだ」
また、乱雑に頭を撫でられた。
「…良いの?」
「良いって?」
「僕が『教えたら華寿海に怒られそう』とか言ったから、気にしていたのでしょう」
「ああ」
「俺は蘭滋のやり方が気に食わないだけで、お前がそれを知ることとは関係ないぞ。聞きたかったら聞け」
「分かった」
「気に食わないって、相変わらず冷たいですね」
「…うるさい」
「さて、お昼にしましょう。絵都君の分のラー君は華寿海に出しますから、絵都君はそれ以外を食べてくださいね」
「うん」
「…蘭滋さん、ありがとう」
小声で蘭滋さんにお礼を言った。
「クジラのことですか?」
「そうじゃなくて、いや、そっちもだけど…」
「ははは」
「『知られる方が難しい』って、少しは分かりました?」
「うん」
華寿海はその昼も美味しそうにクジラを食べた。
「骨の組み立て?」
「はい、取り出しておいた骨の処理が終わりました。私一人では無理なので、二人に手伝って貰おうと思って」
「もちろん手伝うよ!」
「ああ、泊めてもらってるしな」
僕たちは芝生でラー君の骨を組み立てていた。
ある昼、
「華寿海!もうちょっと上かも、ラー君のお腹の中もう少し広かったから」
「この辺か?」
「うーん…」
「蘭滋さん!外から見てどんな感じ?」
「いやぁ、飛べるって本当便利ですね」
「そうね」
「真面目にやれ」
「ははは。良い感じですよ、そこで仮止めしてみましょう」
そうやって、やっと仮組み出来たラー君の骨は、十分に広いと思われた芝生の半分以上を埋め尽くしてしまった。
「私、もう少し大きくなれば良かったわ。これじゃ他のものも置けちゃうわね」
「…十分でかいだろ」
「そう?」
「ははは、そうだね。浮いてるラー君より大きく見えるかも」
「ラー君!!こっちへ来てください骨と並んで写真撮りましょう」
「はーい」
ラー君がゆったりとヒレを動かす。
「あいつって写真に写るのか?」
「はは、華寿海は写らないもんね。でも、撮ってみないと分からないんじゃない?」
「そうだな…」
「当たり前だけど、里禹馬(りうま)さんの骨より何倍も大きいね」
「ああ」
「クジラって世界一身体が大きいんだって」
「そうらしいな」
「僕は、あの時池に潜らなきゃ良かったのかな」
そしたら、冴仁衣さんの秘密は秘密のままだった。
華寿海は真実を聞かなくて良かったし、
冴仁衣さんは真実と、そして嘘を吐いていたことを話さなくてよかった。
「…悪いのは、嘘を吐く方だ」
「……そうかな」
「言いたくなかったら、『言いたくねぇ』って断ればいいだけだからな」
「そうだけど」
華寿海は、自分がそれを出来ないと分かっているのだろうか。
華寿海は優しい。
存在が強い分、どこまでも優しくなれる。
だから、そうやって僕のことを拒絶することがきっと出来ない。
「だからお前も、嫌だったらはっきりと断れよ」
「うん…」
せめて僕は、「知ることが出来ないことは、知ろうとしなくてもよい」という華寿海の覚悟を邪魔しないように。
華寿海の、強さを損なわないように。
「そうすれば、俺はクジラが食える」
「クジラ、本当に気に入ったんだね」
「まあな」
青い芝生に置かれた骨が、春の光を受けて光っていた。
知るための覚悟と、それを麻痺させるだけの好奇心。
そのどちらもを、僕はまだ知らない。
終わり
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