胃の中のクジラ 4
ラー君の食後、僕は一人で外に出て庭を散策していた。
芝生に出ると、透明で大きなクジラが浮かんでいる。
「あら、絵都君」
「ラー君!ずっとここに居たの?」
「そうよ」
「……」
「どうしたの?」
「僕ラー君のこと食べちゃった」
「そう、」
「…ごめん」
「人間は小さいから、しょうがないわよ」
「え?」
「私の記憶が、少しでも見えたりした?」
「うん。蘭滋さんの声がしたから、聞いたら『初めて会った時だ』って」
「ああ、私が生まれた時ね」
「生まれた時?」
「そう」
「蘭滋先生が、私を母から取り出してくれたの」
「お母さんから…?」
「ええ」
「……どうして?」
「蘭滋先生は、私の母を食べたのよ」
「え、」
「私は蘭滋先生の知識になるために生まれてきたの」
———————————————
『あれ、子供がいる。まだ生きてるかも』
そう声がした後、尾が掴まれ、強い力で外に引っ張り出された。
初めて感じる光の中、感じたことのない身体の重さの中でゆっくりと目を開けると、目の前には彼が居た。
『子供か…』
『お母さんは?』
『君は話せるんだね、力が強いんだ』
私の世界の全ては、母親だった。
『お母さんは?』
『お母さんは、残念だけど亡くなってしまったよ』
『あなたが食べるの?』
『そうだね』
私の横には、母親だったものが横たわっている。身を開かれ、内側が露わになっていたが、生まれたての私には寧ろその方が母親らしい姿だった。
『あなたは、お母さんを食べても良い人?』
『ああ、僕は世界の全てを知るために、お母さんのことを食べようと思っている。君のお母さんのことも、ひとつも無駄にせず食べてあげるよ』
『私のことは食べないの?』
『ははは、君は賢いんだね。賢いから、食べないことにするよ』
『どうして?』
『たくさん海を見ておいで。そうして君が死んだら、僕がその記憶ごと君を食べるから。君には、僕の知識となる手伝いをしてほしい』
『わかった』
『君は、何か欲しい?』
『私も、死んだらここに来たい。ずっとここに居たい』
私が、初めて母親に会えた場所。
彼に会った場所。
この人間が私の次の「世界」だと、ひと目見たときから分かっていた。
『分かった』
『この芝生は、君の骨を置くために空けといてあげるよ』
その時から、私の世界は蘭滋先生のものになった。
———————————————
「…僕は、それを聞いても良かった?」
「良いも何も、『食べた』んでしょう?」
「……、そうだね」
蘭滋さんのように、全てを知ろうとしている訳ではない。ラー君に共感することも、そこから世界を理解することも出来ない。
でも、知りたくなってしまった。
「ごめん…」
「どうして謝るの?」
「人間というのは『何でも知りたい生き物』なのよ。自分の何倍もある、こんな大きなクジラを食べてまで、世界の全てを知りたいんですって」
「僕は、…人間とあまり会ったことが無いから」
「そう。まぁ、分からないことは蘭滋先生に聞けば良いわ。先生は絶対に知ってるから」
「ラー君にも、聞いても良い?」
「ええ、何かしら?」
「ラー君は、幽霊なの?」
「ふふふ、どうかしら。ラッキーな存在だとしか言えないわ」
「身体が全部食べられたら、消えてしまうの?」
「恐らくね。このペースだとまだかかるでしょうけど」
「ラー君は、それで納得してる?」
「もちろんよ。そのために生まれて、生かされたのだから」
「……」
「蘭滋先生は天才よ。頭が良くて、何でも知ってる。世界中の海を渡ってみても、彼の話が世界で一番面白いわ。それなのに、無理をしてまでまだ知ろうとしてる」
「無理…」
「クジラって世界一身体が大きいんですって。陸も海も合わせて、いちばん。確かに後から考えたら、私たちより大きい生物を見たことは無かったわね」
「もう世界の大半を知ってるはずなのに、あんなに小さい身体にまだ詰め込むのよ。だから私は先生のことが好きだわ」
「好き?」
「ええ。私の肉が彼に取り込まれて、私の記憶がその中で生きていけるのなら、それが一番良いわ」
「『一番良い』?」
「私たちはね、生まれたところに還っていくのよ」
「……?」
僕には、よく分からなかった。
「それにね、私の骨をここに飾ってくれるって」
「それが、…それで、良いの?」
「もちろん」
「それ以外に欲しいものは無いわ」
分からないから、よく分かった。
今、この話で邪魔者は僕だけだ。
二人が納得して、
ラー君が自分の時間を懸けて、蘭滋さんは無理をして、
成し遂げようとしていることを、僕は無意味に突いている。
自分だけ、安全なところから。
『過剰な好奇心は危険だ』
華寿海がそう言った、その意味がようやく少し分かった。
好奇心は、自分だけを強くする。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます