月の桃

月の桃 1


目が覚めたら、

というより気付いたら、知らないところに居た。

真っ白な空間、その外側には夜。

全部白いせいで距離感が掴めないが、果てしなく広い感じがした。


「華寿海(かすみ)、起きて」


僕たちは、テーブルに突っ伏して眠っていたらしい。

白くて丸いテーブル。



「…どこだ、ここ」


「……分からない。空かな」

「これ、月だよな?」

「…そうだと思うけど」


僕たちから向かって右側は、一面大きな窓になっているのだろうか。その外には夜空が広がっていた。


不思議なことが、いくつもあった。


1つ目は、窓の外に見える月。

見たこともないぐらい月が大きい。クジラの骨の何個分だろうか。

この広い空間は、月明かりだけに照らされている。

それだけで、十分明るかった。


2つ目は、テーブルの上に置かれた桃。

テーブルの真ん中に皿が置かれ、その上に桃が置いてある。

丁寧に皮が剥かれた桃が、月にてらてらと光っている。

誰か桃を剥いた人がいるのだ。

テーブルも、皿も、桃も丸い。右側を見れば、月も丸かった。


3つ目は、ここに居るはずのもう一人の存在。

桃の皿の横には、重ねられた3枚の皿と3セットのカトラリー。

僕と華寿海の座る椅子のほかに、ひとつの空席がある。

あと一人、居るのだろうか。

あと一人、足りなかったのだろうか。



「何だ?ここ」

「何だろうね…」


「何か気が抜けた」

「はは、何も出来ないもんね」


「もう少しだけ寝ていいか?」

「うん」


「夢だったら良いよね」



『…出られるかな?』と聞くことは出来なかった。

果ての見えない空間、不自然に輝く桃。

目の前に置かれた空席は、何も言わない。

まったりとした恐怖が、腹の底に溜まっていくのが分かった。

隣で眠っている華寿海が、僕を弱くする。

一人では何もすることが出来ずに、目の前をぼんやりと眺めていた。

目を閉じたら醒めるのに、僕は目を閉じることが出来なかった。





長い時間が経った時、ずっと遠くの方に人影が見えた。


「…華寿海、起きて」

「……、どうした」

「誰か来た」

「……」


「どうしよう。隠れる?」

「……、いや」

華寿海が目を凝らす。


「あれ、蘭滋(らんじ)じゃないか?」

「蘭滋さん?」


よく見ると、癖のある歩き方が確かに彼そっくりだった。

「ニセモノじゃないよね?」

「……」


「あー!!絵都(えつ)君!!華寿海!!起きたんですね!!」

僕たちに気が付いたのか、蘭滋さんらしき人影は大きな声を上げ、こちらに向かって大きく手を振った。


「絵都君ー!華寿海ー!!目が覚めたんですねー!!」


「何か…、一気に力抜けちゃった」

「そうだな」

「何かもうここから出られそうな気がしてきた」

華寿海が静かに微笑んだ。



「二人とも、おはようございます」

「おはよう」


「蘭滋さん、どうしてここに居るの?」

「ははは、どうしてでしょうね」


「ここってどこ?」

「分からないです。僕も初めて来ましたから」


「ですから、二人が寝ている間に探索してきたのですが」

「何かあったのか?」

「何も」

「何も?」

「何もありませんでした」

「何も?」

「何も」



「ここには、俺と同じぐらいの力を持つ神の気配を感じる」

「え、本当!?」

「ああ」

「知っている神ですか?」

「いや、知らないな」


「そんなに強い神様の気配が分かってるのに、二度寝したの?」

「ん?まあ、敵意は感じないしな」

「そうなんだ…」

「ははは」

蘭滋さんが、華寿海と同じぐらい呑気に微笑んだ。

「そうなると、ここは本当によく分からない空間なのですね」



「あ、そうだ。ここはこう…、ちょっと曲がってるみたいだよ」

腕を伸ばして表現しようとしたが、上手くいかなかった。

「そうなんですか?」


「うん。蘭滋さんが帰ってくる時、左側にうっすら壁みたいなの見えたから。こっちから見て左から、いきなり蘭滋さんが出てきたんだよ」

「そうだったんですね、気が付きませんでした。じゃあ、この空間はドーナツのようになってるのかもしれないですね」

「うん」


「『ドーナツ』って何だ?」

「お菓子だよ。甘くてこういう形をしてるやつ」

手で作ったドーナツは、この広い空間に見合わない。

「へぇ、美味いのか?」

「うん、美味しいよ」


「蘭滋さんは一周まわってこれたの?」

「ふふ、無理でしたね。円形になってることにすら気づかなかったぐらいですから」


「僕はまっすぐ歩いていったつもりでしたが、景色が全く変わりませんでした。月も満月のままでずっと着いてきていましたね。流石に戻れなくなるなと思い、引き返してきました」

「あれ、じゃあやっぱりドーナツの形してないのかな?」

「それはどうでしょうかね。こんなに不思議な空間ですから、何が起こってもおかしくないと思います」


「その中で、僕たちが唯一信じられるものはこの床じゃないでしょうか。僕たちも、この机も、浮いていませんから」

「ん?」

「ふふ。そのぐらい不確実な場に居るんですね、僕たち」


「ですから僕は、僕が向こうから歩いてきたことと、絵都さんには僕が曲がりながら歩いてきたように見えた、ということの方を信じます」

「遠かったから、見間違いかもしれないよ」

「いや、蘭滋が歩いてくるところは俺も見た。見間違いじゃないと思うが」


「月が着いてくることぐらい、ここでは不思議でもないでしょう」

「そう言われれば、そうだね」


僕たちの認識が正しければ、月とは反対側の点を中心にしてドーナツ型に空間が広がり、さらにその外側に月と夜空があるということになる。

外側にある月がずっと着いてくるというのは、月が大きいからこそ不気味だろうなと思った。



「遠い西の地では、『月の光が人間の心を狂わせてしまう』と考えられているそうです」

「うーん…、今はちょっとそれが分かるなぁ」

「僕たちが暮らす地でも同じです。月は『ツキ』でありながら『憑き』でもあります」

「確かに音が一緒だね、不思議だな」

「ええ」

「距離が離れてるのに、考え方が似てるんだね」

「そうですね。同じ人間だからでしょうか」

「そうかも、面白いねー」


「面白いついでに、もうひとつ良いですか?」

「うん」


「月は不死と結び付けられています」

「そうなの?」

「ええ。飲めば若返るという薬が月にはあるとされていますが、これも世界のあちこちで古くから考えられていたことなんですよ」

「どこも同じように?」

「はい、同じように」

「へー!そうなんだ、知らなかった!!」

「ふふ、良かったです」


「お前なら、月にしがみついてでもその薬取りに行きそうだな」

「ええ、ですから今はチャンスですよね。もちろんこれが本物だったらですが」

蘭滋さんが大きな月を指さす。

「え?」

「世界の全てを知るには、時間はいくらあっても足りないですからね」

「蘭滋は、こういう奴だ。分かるだろ?」

「うん」

蘭滋さんの瞳が月の光を鋭く反射していた。



「そういえば、月までは行けなくても、蘭滋さんの探検には付いていけばよかった」

「何でだ?」

「そしたらこっちに帰ってくる分、先に進めたでしょ?」

「確かに、ここの反対側までいけたかもしれませんね」

「『まっすぐ歩いてた』やつが良く言う…」

「ええ、きっと中心の方に向かって引力が働いてたんでしょうね。そのおかげでまっすぐ歩きながら綺麗にカーブできました」


「あ。ふふ、それ面白いですね。月じゃない方向に吸い寄せられるんですか」


『いんりょく』とは何だろうか。聞こうとしたが、蘭滋さんは自分の世界に入ってしまった。

「一人で話を進めるな」

「そうそう、じゃないと丸い月が見れないですもんね」

「おい」


「ここはきっと満月を見るための場所です」

「…」

「そうなんだ」

「ええ、全くの想像ですがね」

「面白いね」


ここが、月を見るための場所というのは思いつかなかった。ずっと桃の前に座っていた僕と、月しかない空間をずっと歩いた蘭滋さんとの差だろうか。

西には、地面に砂しかない地があって、そこではたった一人の神様を大切にしていると、冴仁衣(さにい)さんから聞いたことがある。

なんとなく、その話を思い出した。



「ドーナツの反対側でも月を見れるかな」

「どうでしょう。石があるかもしれません」

「石?月の代わりに?」

「いや、桃の代わりに」

「え?」

やっぱり、よく分からなかった。


「絵都、そんな難しい顔するな。多分冗談だろ」

「ははは。その通り、冗談です」

「なーんだ、なぞなぞかなと思って考えちゃったよ」

「はは、そうですね」





「さて、どうしましょう」


「僕たちに残されているのは、この桃だけですね」

「そうだな。食ってみるか」

華寿海がナイフを手に取った。

「三等分は難しいので、まず二等分するのがいいでしょう」

「分かった」

「フォーク使う?」

「ああ、貰う」


「そういえば華寿海、貴方は桃を食べたことがあるのですか?実の季節は夏でしょう?」

「まぁ、春の終わりに実をつける木もあるしな。何度かはある」

「そうなんだ。華寿海は桃好き?」

「そうだな」

曖昧な返事で、きっと桃が好きなのだと分かる。


そうして華寿海が真っ二つに割った桃には、種が入ってなかった。

「種が無いですね」

「これも『不思議』のうち?」

「うーん、そうでしょうね…」

あんなに不自然だったのに、切られた瞬間から桃は生き物に変わる。

皮も、種もない桃。

僕たちは地に足を付け、奇妙な冗談だけが浮かんでいる。

桃の代わりの石。

種の代わりの無。


「向こう側に石があったらさ、蘭滋さんは石を食べる?桃を食べる?」


そう言うと、蘭滋さんは驚いた顔をしていた、と思いきや、すぐににこやかな笑顔に変わる。次の瞬間には大声で笑い出した。

「っははははは、そうですよね、はははっ」

「蘭滋さん?」

「…何だ急に」

蘭滋さんの笑いが収まるまで、僕たちは少し待っていた。

「本当に憑かれたんじゃないよね」

「ああ、いつものことだろ」



「ははは、絵都君、最近南の方へ行きました?それか華寿海以外の神の面白い話を聞いたとか」

「ううん。行ってないよね?面白い話も…」

「ああ、特に聞いてないな」

「そうですよね」


「いやぁ…これは、絵都君を通して与えられたインスピレーションでしょうか」

「え?」

「……やめろ」


「やはり絵都君は、神様に近いのですね」

「『やはり』って…」

「……」


「もちろん、華寿海と一緒に居るからでしょうね」



——絵都さんは半分ほど神様になりかけています

——絵都さんには知られたくなさそうでしたが、私が今教えてしまいました


華寿海が僕には知られたくないと思っていることがあって、でも僕はそれを知っている。

華寿海がどうして黙っているのかは分からない。それを知ったところで、僕はどうすることも出来ないから。


「確かに、距離は近いかも?」

「ふふ、そうですね」

僕も、黙っているしかない。


「ああ、すごい。じゃあ食べましょうか」

「何を?」

「ああ、僕は『石』を。いや?この場では『月』のほうが素敵ですかね…?」


「ああ、そうだ」

一瞬、蘭滋さんが沈黙した。その一瞬で、反響もないこの広い空間の存在を思い出す。蘭滋さんが来てからは、この空間について考える暇はなかった。





「すみません、僕は間違ってたみたいです。反対側に石はきっとありませんね」

「『冗談』じゃなかったの?」

「じゃなかったみたいです」

「頼むから説明してくれ」

「ええ。ですがその前に、」


「ここに強い神の気配があるというのは確かですか?」

「ああ、今もこっちの様子を伺ってるぞ」

「これは、神の御業でしょうか?」

「そうだろうな」

「分かりました」


「では、その神の前で全て言ってしまうのは野暮でしょう。帰ってから説明しますから、ここでは一つだけ言います。声を出さず、聞いてみて下さい」

黙って頷いた。



「僕たちは今から『これ』を食べます。『これ』は神様が用意してくださいました」

蘭滋さんは桃を指さして、僕と華寿海を交互に見た。


「もし、永遠が欲しかったら『月を食べて』ください。永遠が欲しくなかったら『桃を食べて』ください」

「……え?」

思わず声が漏れた。

「僕たちは、月の光を浴びたために狂ってしまいました。今なら月だって食べてしまえるんですよ」

蘭滋さんが、口元で人差し指を立てた。


「僕は永遠の命が欲しいので、『月を食べ』ます。こんな奇妙なところに招かれて、時間が余計欲しくなりました」

そう言いながら、蘭滋さんは華寿海が切り分けた桃をふた切れ、自分の皿に運んだ。

僕たちが固まっていると、蘭滋さんが小声で囁いた。


「この物体をそう呼ぶだけで良いです。美味しいものを食べて、さっさと帰りましょう」


永遠が欲しいか、欲しくないか。

そんなことを考える時が来るなんて思わなかった。

僕は、「永遠」をよく知らない。

華寿海は、僕に永遠を知ってほしいだろうか。

……

僕は人間だ。

永遠は、不自然だ。

「知ることが出来ないことは、知ろうとしなくて良い」

きっと、同じことだ。




「僕は、『桃を食べ』るよ」

「…!それは驚きました。勿体ないですねぇ」

口惜しそうな言葉とは裏腹に、蘭滋さんは心底面白そうに話す。

僕も『桃』を皿に移す。蘭滋さんのように上手にナイフが使えなくて、フォークだけを使って移動させた。



「うん、でも僕は人間だから」


「そうですか」

桃が落ちないようにフォークを奥まで刺す。

まっさらな桃に残った、深い刺し跡。


「…俺も『桃』で良いな」


「もう持ってるものを、与えられる必要はない」





華寿海が切り分けた桃は、欠けた月の形をしていた。

ふた切れ取って、丁度満月の形になった。

ちょうど、


——というのも、きっと丁度良かった……

これは誰の声?



「では、いただきます」

「いただきます」


ナイフの使えない僕は、月を齧って食べた。

僕が付けた深い傷は、僕が月を食べるまでずっと残っていた。

音のない空間で、自分が月を噛む音だけが聞こえた。

月は甘くて、柔らかかった。



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