孤独な時間とぬいぐるみ
青時雨
孤独な時間とぬいぐるみ
また、誰かの思い出に取り残されてしまったか。
目の前に落ちたぬいぐるみを男はそっと拾い上げる。
今でも過去でも未来でもない。思い出という長い廊下を行ったりきたりするのが、作業の合間に休息をとる男の癖だった。
感情という糸が複雑に織り込まれた思い出という絨毯の上を、自室へ向かって戻る。
男は作業台にぬいぐるみを座らせ、〝意思〟とラベリングされた道具箱から針と糸を取り出し
こんなにも美しく器用な手つきで作業を進める男に見惚れる者はいない。
この屋敷にいるのは男ひとりだけ。
男は立ち上がると、引き出しや棚を開けては閉じてある物を探す。道具箱に入っていなかった足りない〝意思の綿〟を探していた。
綿を詰め終えそのぬいぐるみを、それには大きすぎる子ども用の椅子に座らせた。
「そこがお前の新しい居場所だ。あんなところにいられては誤って蹴り飛ばしてしまう」
つっけんどんな言い方で、男はすぐに元の作業に戻ってしまった。けれどぬいぐるみはどこか嬉しそうに沈黙していた。
☆☆☆
嗚呼、過去に戻れたらいいのに。
嫌なことがあった一日の最後、そんな風に思いながら目を閉じた。
目を覚ますと絵画の沢山飾られた広い空間に出た。どうやら自分もこの絵画のひとつから出てきたらしい。その絵の中では私が眠っていた。
きっと夢から覚めたければここを通って目を覚ませばいいと直感的に理解する。
けれどもう少し夢を見ていたい気分だった。
扉を開けると長い長い廊下に繋がっていた。
床にはでたらめな模様の絨毯があって、なんだか懐かしい感じがする。
どんどん歩みを進めていくと、不意に誰かが後ろからついてきていることに気がついて振り返る。
くまのぬいぐるみの格好をした小さな女の子がにこにこしながらついてくる。
短い毛がくるりとカールしたもふもふの体、目は夢見る紫色。
その姿に少しだけ既視感を覚えた。
「君は誰?」
「わたしはルル。あなたがつけてくれた名前だよ、忘れちゃった?」
寂しそうに問いかけられるけど、この子が一体誰なのか私にはわからなかった。けど、もう少しで思い出せそうな…
「話があるんだって」
私を通り越して先へ進むルルが指さした先には、両開きの扉が佇んでいた。
少しだけ開いていた隙間に、半ば挟まるようにしてルルはすぽんっと通り抜けてしまった。
重たい扉を開けると、中は工房のようだった。タペストリーやパッチワーク、刺繍から編み物まで沢山の作品が並べられている。
中央奥の作業台に座る男の元へルルは駆け寄って抱きついた。
するとやっと顔を上げた男と目が合った。
咄嗟に男の瞳から目を逸らす。過去や現在、未来さえ見えているといった危うい色をしていたから。
けれど男の瞳を見たあの一瞬で、ある大切な過去の記憶が鮮明に蘇った。
「夢の部屋から来たか」
よくわからないことを呟くと、ルルを抱き抱えてこちらへと歩いてきた。
「その顔は思い出したようだね」
「…はい。ルルは私が昔母親に取り上げられたぬいぐるみ、です」
母親に捨てたと言われて悲しくて、ルルのこと思い出さないようにしてたんだった。
ルルが家に来た時のことも、遊んだことも、一緒に眠ったことも、もう会えないのに思い出したら泣いてしまいそうだったから。
思い出さないようにしてたら、本当に今まで忘れてしまっていたようだ。
「あの廊下は思い出だ。不本意に失った思い出は取り残される。所々直して今日まで預かっていた」
男と私の様子を、ぴったりの大きさの椅子に座ったルルは楽しそうに見ている。
「私のルルはもっと小さいくまのぬいぐるみでした。どうして」
「どうして人の姿をし、動いているか…と?」
「はい」
「ルルに意思を与えたのは私だ。あの子自身が望んであの姿になった」
私たちの会話が終わるのを待ちきれずに、足に抱きついてきたルルを抱きしめた。昔よりも少し大きいけれど、匂いもふわふわも昔と変わらない。
「ルルを連れて帰りたいかね」
「はい」
「聞いたか、ルル。よかったじゃないか」
「…うん?」
ルルは昔そうしていたように私と手を繋ぐ。
男に導かれるままに元きた道を戻り、眠る私とその自室が描かれた絵画の前に立たされる。
指先を絵画に向かって伸ばせば、吸い込まれるような感触があった。
「額縁をまたげ。それで戻れる」
男の言葉に従い額縁に片足を踏み入れる。
「おいで、ルル」
けれど足を止めたままのルルは額縁と私を交互に見る。
「怖いのか?」
男が尋ねると、ルルは首を振った。
☆☆☆
彼女が帰っても尚男と同じ額縁のこちら側に佇むルルは、振っていた手で目の前の絵画に触れた。
満足したのか、その手をぽてりと下げると今度は男を見上げた。
『すまないね』
『いえ、大丈夫です。またルルに会うことが出来たので』
彼女の元へ帰ることをずっと楽しみにしていたはずのルルが、幼い声でここに残りたいとはっきり告げた。
大切にしていたぬいぐるみの気持ちを尊重し、残念そうにしていた彼女もひとりで元の世界へ戻ると男に
『…せめて、目が覚めた時にこれが夢でなかったとわかるように』
どこかルルの面影のある、くまの刺繍の入ったハンカチを男は彼女に手渡した。
『ありがとうございます。ばいばい、ルル』
『ばいばい』
男が額縁からルルに視線をやると、目が合った。
「どうして彼女と行かなかったのかね」
「行きたかった。だけどもっと行きたくなかった」
要領を得られず首を傾げると、ルルがしゃがんでとせがんでくるので望みのままにする。
すると首に抱きつかれて、仕方なく抱き抱えると自室へ向かうように言われた。
自室につくと飛び降りたルルは、私が昔用意してやった椅子に腰掛けた。今ではルルにぴったりのその椅子に。
「──はルルみたいな子を持ち主に返してあげてる。けど、持ち主のところに帰ったら──が悲しいから」
怖いのかなどと尋ねておきながら、ルルがいなくなってしまうことを恐れていたのは私の方だった。
ルルは一番長く私の傍にいた子だ。愛着が湧いてしまわぬよう気をつけていたはずなのに。
「ルル」
「なあに?」
ルルは手についた絵の具を嬉しそうに眺めながら、当たり前のように返事をしてくれた。
「私の元にとどまってくれて、ありがとう」
意思を持ったぬいぐるみは、たまらず男へかけよった。
「ひとりぼっちになったルルに居場所をくれた──は。ルルにとってあの子と同じくらい特別なんだ。──はルルとずっと一緒にいてくれる?」
「ああ、何があっても」
孤独な時間とぬいぐるみ 青時雨 @greentea1
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