第10話

 その山を越え村々を横目に走り、更に二つ山を越えたところでようやく、葵と蓮は立ち止った。

「くそっ。猪っ」

 悔しそうに吐き捨てながら、葵が小脇に抱えていた若者を、落ち葉が敷き詰められた地面に下ろす。

 葵よりも不服そうに顔をしかめた、色白の小さな若者だ。

「私は走れると言っただろ。そんなに悔しがるなら、猪を抱えてくればよかったのに」

「んなことできるかっ。お前、慣れてねえのに、木の枝を飛び移って逃げようとしてただろっ? 危なっかしすぎんだよ」

 顔をしかめたままの若者と、葵の言い合いを、目を細めながら蓮は見守っていたが、落ち着いた声で、二人の間に入った。

「逃げ切ったとは思うが、油断できねえな。夜まで、足を進めよう」

 冷静な言葉だったが、葵が何故か首を竦める。

「すまねえ」

「何に対しての謝罪だ?」

 冷ややかな声に、大きな侍は首を竦めたまま声を潜め、答えた。

「お前がこいつを抱えて走りたかったんだろう? それも危なっかしいって思っちまって、つい……」

「おい」

 そうじゃねえと、思わず低い声で遮り、蓮は一度息を吸った。

 本気で怒鳴りそうになったのを、何とかこらえるための動きだ。

 ゆっくり吐き出した息に乗せ、言う。

「お前が、戒の言葉に、あんなに慌てなきゃ、逃げることもなかったんだ。雅の事を話さなかったのも、こういう時の事を考えての事、なんだよな?」

 それでも、感情の勢いを殺しきれず、蓮は静かに傍を歩く若者を睨んだ。

 あそこで葵が慌てなければ、自分はそのまま男を放っておいて、セイの元に戻り、送った後に拾って帰るつもりだった。

 そう言われて詰まった葵を見ながら、大人しく二人についてきていた色白の若者は、軽く眉を寄せて答える。

「すまない。そういうことは、考えてなかった」

「おい」

 立ち止って詰め寄る自分より小さな若者に、セイは困ったように続けた。

「……二人で、山に籠るものだと思ってたから。戒があの国元にお世話になるのは知っていたけど、まさか雅さんまで……頭を冷やしたら、何とか落ち着いてくれると思ってたんだ」

 曖昧な答えに、二人の男は顔を見合わせて溜息を吐いた。

「……どういう事だったんだ? 話すだけでも、楽になるだろ?」

「もう終わった話だし、エンがあの人と一緒なら、大丈夫だろ」

 真面目に切り出した葵の言葉を、セイは完全に斬り落とした。

 そのまま歩き続ける若者を見ながら、蓮も歩き出す。

 葵もその後に続きながら、眉を寄せて言った。

「オレが、不味い態度をとっちまったのが悪かったんだが、さっきの人たち、戻ったらエンに話を持って行っちまわねえかな?」

「だから、ここなら安心と力を抜かずに、早く進もうとしてるんじゃないのか?」

「お前を送って来た側の言い分としちゃあ、少し事情を知っておいた方が、奴らへの言い訳も、考えられるんだがな」

 蓮の言い分に立ち止り、セイは振り返った。

 目を丸くし、尋ねる。

「寺まで、ついてくる気か?」

 大小の男は、そろって溜息を吐いた。

「お前な、中途半端な位置で、別れて戻るのも、後味悪いだろうが」

 呆れて答えた蓮に小さく唸ったセイは、少し考えてから言った。

「……あの件は、さっきの国のお尋ね者も関わっていたから、本当に話せる部分は、少しだけど、いいか?」

 言えそうなのは、自分が関わったところだけだという若者に、葵が真顔で頷く。

「知りたいのは、雅さんがどうして病になったのかだけだから、それでいい」

「不味い事を口滑らせても、何処にも漏らさねえから、心配するな」

 不味いのは全部なのだがと思いつつも、セイは歩みを進めながら雅に降りかかった災難を、考えながら話し出した。

 時々、話がそれるのを正しながら、蓮と葵は辛抱強く話を聞き、ようやく聞き終えた時には、日が落ちかかっていた。

 件の国を更に遠ざかり、目的の村の方が近いこの山の中で、今夜は腰を落ち着けることにして、二人の男は話の感想は後回しに、野宿の準備を始めた。

 小さく火をおこし、走り続ける羽目になるまで拾っていた木の実と、川で汲んだ水で腹をなだめながら、葵は溜息を吐いた。

「……」

「猪は、あの人たちが美味しくいただいてくれてるから、勿体ない事にはなっていないはずだ」

「そうかね。一人は、肉食わねえ種の人だっただろ?」

「ああ、あの兎な。驚いたぜ、本当に要るんだな。己以外が出す音を、呪いに使う獣が。あんな奴を使役している術師ってのも、大したもんだよな……」

 先の山で刀を突き合わせた兎を思い出し、蓮が感想を述べたが、前に座る若者の様子に気付き言葉を切った。

 僅かに眉を寄せ、戸惑っているセイを見て、妙な気配に気づく。

 二人を見てセイが口を開く前に、蓮は言い切った。

「無理だ」

 その言葉が合図のように、一気に風が引き締まった。

「破ったら、作った奴に障る類の壁、だ」

 顔をしかめたセイに、宥める様に苦笑しながら、蓮がゆっくりと続けた。

 遅ればせながらそれに気づいた葵は、目を見張って辺りを見回し、近づいてくる小さな人影を見つけた。

 小さな若者の蓮よりさらに小さな、幼い顔立ちの男は、重そうな籠を背負ったまま傘を少し上げて、三人に笑いかけた。

「あんたに土地勘がなくて、幸いだったな。途中で解かれていたら、どう近づこうかと思っていた」

 にこやかに言われ、セイが溜息をつく。

 代わりに、蓮が呆れたように答えた。

「土地勘ある奴でも、かける術者が見えないところから壁を作ってちゃあ、解こうにも解けねえよ。あんた、この山に入ってここに来るまでの間で、オレたちの周りに壁を張ったな?」

 風の音を聞き取って、それに別な音を混じらせることで、ほんの少しおかしいなと思うくらいしか感じないほど自然に、気づかれてからは一気に壁を作り上げた。

「……こんなことしなくても、あなたか他の人がやってくるんじゃないかとは、思っていました。何故、この二人まで、閉じ込めるような事を?」

 追手が来るだろうとは思っていたが、壁を作られる心配をしていなかったセイは、壁の基礎が出来上がった時まで気づかなかった。

 不覚だった。

 そんな顔になった若者を見やり、兎の男はやんわりと答えた。

「この間は、我らの方が三人だった。敵対していたわけではないが、数で威圧させてしまったような負い目もあったもので、今日は逆に威圧されながら話を聞いてもらおうと、そう思ってな」

 焚火の前まで来ると、背負っていた籠を下ろす。

「手土産付き、というよりはついでに、忘れ物も届けに来た」

 籠を斜めにして中を見せると、葵が歓声を上げた。

「肉っ。あの猪かっ?」

「裏付けをしている間に、うちの連れ合いに頼んで、下ごしらえしてもらった。肉以外はこちらでも使えるんで、対価でいただいたぞ」

 答えながらも籠ごと渡した兎は、嬉々として受け取った男が、早速それを食う準備に取り掛かるのを見ながらかぶっていた傘を取り、落ち葉の上に腰を落とした。

 その正面に座るセイは、戸惑ったままウノを見る。

 火を見ながらその様子を見ていた蓮が、咳払いして切り出した。

「あー、あんたは食わない物なのに、苦労を掛けちまって、すまなかった」

「気にすることはない。食わないだけで、殺生は茶飯事だ。うちにいる獣たちは、肉食う奴と草や木の実を食う奴の、半々だからな。幸いだったのは、猪の獣がまだいなかったことだ」

 共食いは、流石にさせたくないと言われ、蓮は意外そうに首を傾げた。

「猪は、意外に多いはずだが。あんたんとこにはいないのか?」

「野生と違って、いくつもの家族で群れているんだ。そこから外れることを良しとしない。群れの掟を大幅に乱す行いをしたものならよくいるんだが、そういう奴は大概、誰かに従わない」

 この国にはいない寅と未と亥以外の獣と、戌の代わりに狼が入り、今の所は収まっている。

「狼の奴は、野犬の中で育ったせいで、自分が狼と信じていないきらいがあるから、まあ、戌でいいだろうと」

「意外に、拘りが軽いな」

 ただのこじつけだからこそ、こだわらずに集められるのが、あの一族のいいところである。

 呆れる若者の後ろから、葵が戻って来た。

 受け取った籠はその場において、何処かに向かっていたが、無事戻ってきたところを見ると、この男もしっかりと、術にかかっているようだ。

「……戻って、来た?」

 正直に驚くセイの目の前で、葵は胸を張って告げた。

「手ごろな岩を切り取って来たぜ。これに火を通して、猪を焼こうぜ」

 岩を切り取って、平らに削った物を片手で掲げていう男を見て、兎は目を丸くした。

「刀で、岩を輪切りにしたのか。丈夫な刃だな」

「そんなことないですよ。刃毀れしちまいました」

「……木の枝に括り付けて、火あぶりでもよかっただろうに」

 持ち歩いているらしい五徳に、鍋の代わりに輪切りの岩を乗せ、焚火で温めている様を、呆れて見守る兎に、セイは慎重に話を切り出した。

「雅さんが心を病んで、エンと共にあなた方の国にいるというのは、本当ですか?」

「ああ」

「何故?」

 生返事を返したウノは、真剣に尋ねる声に目を見開き、振り返った。

 その目を見返し、若者は慎重に言う。

「私があの人を山の川に落としたのは、頭を冷やしてもらうためです。頭が冷えても怒りは残るでしょうが、自死に走ることはないだろうと、そう思ったからです。あの人は、自我を失うほど、弱い人じゃない」

 冷えた頭で考えるとしたら、まずは逃げた狐の行方をどう探して捕まえるか、だ。

 悲観も自分への責めも、その後だと割り切る事ができる女だと、短い付き合いで分かっていた。

 だからそう言い切ったセイに、ウノは深く頷いてから答えた。

「まず、逃げ切ったことを雅が知ったのは、ついさっきだ。それまでは、やり場がない怒りが自分に向いているようで、それを抑えるのが、大変だったようだ」

 使いと共に国元にやって来た二人は、道中も幾度かもみ合ってようだった。

 到着したころには、女と男の力の差で、エンの方が半ば支えながら雅を抱えていた。

 山にいた時と比べれば、大人しくなったという男の弁は、どこまで本当かは分からない。

 だが、あの国に落ち着いてからは、少なくとも一度も暴れていなかった。

「人の目が多くなったから、その分少しずつ落ち着いてきたんだろう。もう終わったことと、割り切らせてやれれば良かったんだが。まあ、また奴が近づいてきたら、すぐに嘘はばれてしまうからな」

「私としては、雅さんにはあの山から離れて欲しくなかったんですが」

 あの辺りは、初代の古谷の御坊が、周りに呼び掛けて作った壁と、二代目が施した呪いが残っている。

 直に守られている場の周りにも、その余りの波が漂っているため、好き好んで近づく妖しの者はいない。

 あの源五郎は、その余波をあえて己の守るべきものに使おうとする、狡猾な狸だった。

 セイも、雅に対してそうするつもりだった。

「あの狐が逃げ切ったことは、あなたの連れ合いさんが、気楽に吐いてくれると思ったんで、山で待ち構えることを選ぶと、そう軽く思っていたんですが」

「いつの間に、うちの連れ合いは口が軽いやつと、そう思われているんだ? まあ、あのなりの割に、よく喋る奴だが、秘密は守るぞ」

 連れ合いを知らない二人は、無言で話を聞きながら、夕餉の支度を続けている。

「……そうですか。それは、悪い目が出てしまいましたね」

 目的が出来たら、エンも楽が出来たろうにと呟く若者は、その兄貴分が戻ってこようと考えていることに、思い当たらないらしい。

 ならば、どうして、あの国から誰かが追ってくることを、この若者は心にとめていたのだろうかと、ウノは首を傾げた。

 そんな様子を見て、セイも首をかしげる。

 若者は、この兎がいる国に兄貴分がいると聞いた時、こちらの事情を話すことに決めた。

 だから、遠ざかりつつも追手を迎えられる場を探していたのだが、まさかこの人が一人で現れるとは、思っていなかった。

 こちらが訊きたい話を聞き、こちらの事情を伝えて丁重にお帰り願うつもりで迎えたのに、重鎮に据えられていそうな人の登場で、困惑している。

 二人して相手の出方を見て黙り込んでいるのを、それとなく見ながら肉を焼いていた蓮が、近くで肉を小刀で薄切りにしている葵と目を交わし、二人を交互に見ながら言った。

「こいつが一緒だと、良く気づきましたね。それとも、エンが言ってましたか?」

 恐ろしく丁寧な言葉で言われ、ウノは少しだけ眉を寄せた。

 先程とは違う態度で、含みはないようだが居心地が悪い。

「……取り繕わなくても、構わないぞ。年は上だが、力のほどはそう変わらない」

「年で態度に差を作らねえと、いざという時に困るんで。我慢してください」

 傍で葵もうんうんと頷いている。

 セイもその点は同じ考えらしく、何も言わずに蓮の問いへの答えを待っている。

「いい落とし物をしていってくれたからな、それを元に調べて、エンにも確かめた。その上で、あんたには受け入れて貰いたいことがあって、追ってきた」

「そうですか。でも先に、こちらがエンに言伝てほしいことを、言ってもいいですか?」

 無感情に言われ目を上げたウノに、セイは寺から出てきた訳を話した。

「……待て。無断で出て来て、無断で戻るつもりだったんじゃないのか?」

「そのつもりだったんですが、あそこで騒ぎを起こしてしまったら、近くにいるエンが気づかないはずはないですから。もう、帰路についているという事だけは、言伝ていただきたいと思ってました」

 雅の様子は先に聞いたので、こちらの用事は済んだ。

 エンにすんだことと安心してもらえれば、それでいい。

 この兎の人を含む術師の面々が、あの狐の悪巧みをどのくらい止められるのかが不安だが、このまま、あの国に住み着いてくれても一向に構わない。

 そう思っているセイは、そのままウノの話を聞く姿勢になった。

 その様子を見ながら小さく唸り、ウノは慎重に切り出す。

「確かに、先の古谷の御坊達が張った壁は、件の狐を含む邪心を持つ者を防ぐだろう。だが、長い歳月の中で壁の中で、もしくは近くで生まれる邪心を持つ者は、頭に入れていないな?」

「……人や獣から生まれるそれは、長くは続かないでしょう?」

 首を傾げた若者に、ウノは頷いてから言った。

「だが、その人や獣を目ざとく見つけ、入り込もうとする妖しも、中にはいる」

「……」

「勿論、それも気に掛ける気でいるのだろうが、その目が緩むまで待とうとすることも、頭に入れた方がいい」

 寿命のある者の目は、長い歳月で緩んでいく。

 妖しの類は、その目は緩むのを気長に待てる。

 気の短い者は確かにいるが、短くても百年は待てるものだ。

「先にも言ったが、件の狐は雅にだけは気づかれぬように、傍まで近づいて行き、隙を見つけて懐に入れてしまおうとする奴だ。そんな奴がまた近づくと分かっているのに、たった一人でまたあの山に戻す気か?」

「一人じゃないでしょう」

 酷いなと笑う兎に、セイは眉を寄せて返した。

「エンが一緒だ。流石に子までなせば、あの狐も諦めるんじゃないんですか?」

「そう言い切れるか? もしかすると、変わらんかもしれんし、邪魔だと子を害するかもしれん、いや……」

 目を見張る蓮と、肉の出す煙に咳込む葵を一瞥してから、兎は意地悪く続ける。

「雅の代わりに、その子に執着し始めないとも、言えないだろう」

 眉を寄せたまま唸った若者は、籠った声で苦しい言葉を返した。

「そんな曖昧な不安で、あなたはここまで来たんですか?」

「あんたこそ、そんな曖昧な太鼓判で、大丈夫と決めつけているのか? エンは、あんたの元に帰る算段を、始めているのに?」

 意地悪く聞き返したウノに、寄っていた眉を跳ね上げ、セイが目を剝いた。

「はあ?」

 珍しく本気で驚いたようだが、驚いているのはセイ一人だ。

 近くで水筒を開けて喉を潤している蓮も、近くの木から摘んできた青葉に焼けた肉を乗せていく葵も、その言葉を聞いていたが、全く驚いている様子はない。

「まあ、そうだよな。色恋が進んだからって、お前の元を去るなら、もっと前にそうしてるだろう?」

 もっと前……江戸で、二人暮らししていた時に、戻るか否かの分かれ道があったはずだと、蓮は小さく笑いながらセイに諭すように言うと、葵も深く頷く。

「もうあの時で充分、いい仲だったんじゃねえのか? なのに、お前の元に戻った。ならば、今度も戻る気じゃねえのか」

「何でだよ」

 当然と受け止める二人に、裏切られたような気持で呆然と呟いたセイは、今までの話を並べていく。

「雅さんは、江戸から戻る時とは違う。エンだって、それは分かっているはずだ。詳しくは知らないけど、あの集落で雅さんは酷い目に遭って、それを見たエンも見過ごせなくなっていたはず。一緒に頭を冷やした後、色々と昔の話をして傷をなめ合って、仲良くなって元気にもなったから、離れがたくなっているんじゃないのか?」

「おい、誰の話と、一緒にしてるんだ?」

 思わず低い声を出してしまった蓮の後ろで、煙でのむせとは違うむせ方で、葵が咳込む。

 どうやら笑いのツボにはまってしまい、中々それが止まらずに苦しんでいるようだが、そこまで笑う話だったかと、ウノは首をかしげてしまった。

 セイの方も、蓮が怒るというよりも慌てたことで籠らせてしまった声に、きょとんとしている。

「誰って……」

「言わなくてもいいっ。とにかく、そういう流れで、エンは雅と離れねえと、そう思ってたんだな、お前はっ」

 勢いよく遮った蓮は、強引に話を戻してからウノを見た。

 先ほどまで冷静だった若者の慌てぶりに驚いていた兎は、見返した目の強さに押され、話を絞り出す。

「な、るほど。まあ、離れがたくはなっているようだ。放っておけないという思いで、だが。そういう事なら、こちらの願いとも同じなんで、それをあんたに願い出に来たんだ」

 急に姿勢を正した兎に気付き、きょとんとしていたセイはようやく我に返り、同じように姿勢を正した。

 願い事と言うから、改めた態度で聞く心づもりだ。

 だが、その姿勢はすぐに崩れた。

「あんたの元に、雅も引き取ってほしい」

「何故ですか?」

 嫌そうに顔をしかめる若者に、ウノはゆっくりと答えた。

「先程から、あんたの考えの甘さを、充分に並べてみたつもりだったが、それで腑に落ちなかったか?」

「……」

「あんたはまだ、オレの半分も生きていない若造だ。だから、人や他の獣の素直さを、軽く見過ぎている。素直という事は、邪心に囚われやすいという事と裏返しだ」

 言い切ってから、苦い笑みを浮かべる。

「その邪心が芽生えるさまも、愛おしいから放っておくと思うような奴も、中にはいるが。そんな奴は一人で充分だ」

 地口の呟きを吐き出してから、再び話を戻した。

「あの狐の事だけを、言っているわけではないぞ。雅本人の事も言っている」

 今は、怒りが再び叔父に向かっているが、いつまた、自分自身に向かうか分からない。

 そして、もう一人、気になる者がいた。

「あんた自身、いつもは邪心に囚われているだろう? 気がふれているのも、素直な心と裏返しだ」

 実は、三人が足を緩めた時には追い付いていたウノが、すぐにその前に現れなかったのは、驚いたからだ。

 先に会ったセイは、全く感情がうかがえない声と顔で、僅かに籠る感覚が怒りをうかがわせるだけだった。

 なのに追っていた時に気配を探った若者は、表にその気持ちを真っすぐ現している。

 素直さは先の出会いでも分かったが、年相応の感情の起伏が見て取れ、もしやこれが本来の若者かと得心した。

 同時に不思議に思う。

 先の時の様子と今とで、どうしてああも変わるのか。

 何故、気心知れているはずのロンや狼の混血の男の前では、あんなに感情が見えなかったのか。

 話している間に、その理由に思い当たった。

 この若者は、自然のままに狂っている。

 それが、あの群れの頭領となったからそうなったのか、その前からなのかは分からないが、あれが正気と思われるくらいには長く、狂い続けている。

 そう気づいたら、何とも哀れに思った。

 今の若者に戻っている理由はこの二人であり、群れにはセイを癒せる者がいないという事だ。

これは、群れの者からしても若者本人からしても、救いのない話だ。

 そして、エンが雅と一緒に群れに入っても、救いになるわけではない。

 だが、あえてそうするように持っていくことにした。

「雅とエンと、まとまってあんたと共にいてもらった方が、こちらとしては安心できる」

「……」

「雅にも、あんたにも、互いに固い壁として立ちふさがって貰った方が、大いに助かるんだ」

 ぶつかり合うことで互いが大人しくなってくれるのならば、いう事はない。

「この世を大きく揺るがすような、とんでもない化け物を作り出さないよう、いくらでも喧嘩してくれ。もう少し若い時分ならば、オレも何とかできるが、見ての通り、本当に爺さんなんだ。出来れば、安堵の老後に導いてはくれまいか」

 苦笑するウノは、どう考えても自分たちよりも若く見える。

 だが、その笑いが落ち着いた年寄りのものであると、三人とも気づいていた。

「……そう来るか」

 小さく呟いたのは、セイとウノの話を傍で聞いていた蓮だ。

 青葉に山盛りに肉を盛り、他の肉は焼いて竹皮に包んでいる葵は、秘かにセイに同情しながらも黙ってそれを続けていた。

 言いたいことを言い切ったウノは、手ごたえを感じない不安をおくびにも出さず、黙り込んだセイの返事を待った。

 知らず伏せていた顔を上げ、若者が静かに言う。

「もしかして、エンに年寄りであることを盾にすれば言い負かせると、太鼓判を押されましたか?」

 目を見張ったウノは、あっさりと頷いた。

「だが、あんたが謝ることはないぞ。本人を全身で踏みつけて来た。あまり効いていなかったが」

 それでも謝って貰ったので、気を取り直してここまでやって来たという兎に、セイは溜息を吐いた。

 兄貴分に言伝てて釘を打つのは、もう遅いようだ。

「……雅さんの事は、元々覚悟していました。エンが一人で戻ってきたら叩き出すつもりでいましたが、一緒に戻ってきたら、追い出せないとも、諦めていました」

 何故かは、何となくウノにも分かった。

「その理由は、雅には言わない方がいい。女子は年にこだわる」

「はい。承知しています」

 神妙に頷くところを見ると、その手の災難に見舞われたことはあるようだ。

「寺に戻ってからも、あと数日はとどまるつもりです。追いつけたら、他の連中にも話を通します」

 そう言い切ったセイに頷き、話は終わったとウノは立ち上がった。

「もう行くのか? 白湯ぐらいなら、用意できるぞ」

「大丈夫だ。早めに戻らないと、妙に心配されるんだ。帰ってから、酒でも飲みながら芋でも食らう」

「……」

 蓮が妙な顔になったが、それには何も言わずに頷き、立ち上がる。

「山の下まで送る」

 そこまですることはないと言いかけたが思い直して頷き、小さな二人は連れ立って歩き出した。

 見送る二人が見えなくなったのを見計らって、蓮が口を開く。

「……さっき、あいつの方の事情を聞いたんだが、何で、あんたらがそんな遠くの地に出張ったのか、分からなかったんだが?」

「国の大事なんだが、話さないといかんか?」

「終わったことなんだろ? だからこそ、あんたは下世話なお節介をしに、ここまで来た」

「下世話ではないはずだが、まあ、お節介ではあるか。今日お前さんたちに会わなければ、エンは間違いなく雅を国に残して去っていた」

 すぐに追い払われる定めではあったようだが、簡単に追い払われる男でもないから、そこでもひと悶着ありそうだ。

「わが国元も、人目は充分にあるから、時はかかるが雅が完全に頭を冷やすまで、面倒を見ることもできるが、いい仲の二人を引き裂くのは、躊躇いがあったんだ」

 と言うか、自分の連れ合いが、妙な入れ知恵をしているのを聞いてしまい、少しだけ男の方に同情してしまったのも、理由の一つだった。

「……泣き落としは、逃げ切れない」

「?」

 苦々しく呟くように吐き捨てる兎を、何のことだと眉を寄せて見つめる若者に、ウノは全く別なことを切り出した。

「あのお前の連れの男、父母どっちが大陸の鬼だ?」

「母親だ」

 突然話を変えられても、淀みなく答えた蓮は、少し考えて付け加えた。

「父親は、迷い癖の強い牢人者だった」

「そうか。父親に殆ど似てしまったんだな」

「ああ。かなりの剣豪で、あの迷い癖がなきゃ、もう少し出世してたんだろうが」

 腕がたつからと言うより、顔に似合わぬ愛嬌が、蓮の主の目に留まった男だった。

「葵の奴は、遠目が利くんでまだましだが、あいつは、ここと言う場で迷っちまうんで、手柄が中々思うように立てられなかったんだ」

 しかも、倅の出産にも間に合わなかった。

「……本当に、抜けた奴だった」

 しんみりと言う若者を見つめ、ウノは慎重に尋ねる。

「その父親は、もう故人か?」

「ああ。謀反に巻き込まれて、一度首と胴体を離されちまった。埋葬は一緒にしたが」

「……そうか」

 相槌を打った兎の声は、何やら含みがあるような音があった。

「何だ?」

「いや。もしや、その父親、市原何某と名乗っていたか?」

「ああ。それが?」

「いや。人として死んだんだな。だから、姿を見なかったんだな」

 歩みを進めていた足を止め、つい見つめた蓮を見返し、兎は言った。

「その男と、一度会ったことがある。京の都への道筋を尋ねられたが、あの大事の前には、辿り着かなかったんだな」

「?」

「倅がそっくりすぎて、本人かと思った。未だ、あの山を探しているのかと」

 微笑んだウノを見つめ、蓮は何かに気付いた。

「……混血って、そういう混血かよ」

 葵の誕生に立ち会った主が、感慨深げに吐いた言葉を思い出し、呆れた声を出していた。

「大陸の鬼と、この国の古来からの鬼の混血ってことか。道理で頑丈すぎると思ったぜ」

「この国の鬼は、大陸の奴らと違い、人間から生まれる特異な人間だ。だから、混血であることには、変わらない」

 一旗揚げようと呼び出されたものの、迷い癖のせいでたどり着けず、散々迷っている間に、自分が鬼だという事を忘れてしまったのだろう。

 あり得ると頷いた蓮は、呆れたまま続けた。

「腑に落ちた。あいつ、一度我を失ったことがあるんだ。途中であっさり我を取り戻したんで、オレは不思議に思ったんだが、主はさほど驚いていなかった」

 そういう事かと何度も頷く若者に、ウノもしんみりと頷く。

「混血にも、色々な奴が生まれるものだな。雅もそうだが。いくら親が奇異な男だったからと言っても、生粋の狐に勝てるほどではないと思うんだが」

 力では勝ってしまったが、悪巧みでは雅には勝ちが見えない。

 だからこそ、暫くこの島国から離してくれるあの群れは、いい隠れ場だ。

「あんな下手な頼み方で、あっさりと了承をもらえるとは。年を取っておいてみるもんだ」

 こんな理由で得するなど、滅多にない。

 そう話を収めたウノは、再び歩き出しながら切り出した。

「で? お前さんは、こちらの話を聞きに来ただけ、か?」

 話さないのは、分かっていただろうと問うと、蓮は空を仰いだ。

「……その、生粋の狐は、何処に行ったのかは、分かるのか?」

 切り出されて、思わず笑ってしまった。

 おかしくてではなく、微笑ましくて、だ。

 セイが気にしているから、ついついお節介にも件の狐を追おうと、そう考えているようだ。

 だが、この若者がするには危うい相手だ。

「やめておけ。お前さんは、ああいう類に目を付けられやすい見た目だ。下手に近づいて、雅からお前の方にその執心が動くことも、充分にあり得る」

 己よりも強い者に目を付け、執心する者もいるが、あの狐は逆だ。

 雅よりも小さく弱そうな若者が近づいて行ったら、そちらの方が魅力に感じてしまうかもしれない。

 迫力で姪っ子に負けてしまった今ならば尚更、そうなる危うさがあった。

「あんな小さな隙だけで、楽に縛れるくらいだから、お前さん相当呪いに弱いだろう?」

「……」

 図星を刺されて唸る若者に、ウノは言った。

「……鳴海」

「?」

「そう名乗っている。名乗っている名だけで探し出せるなら、こちらもあんなに大事になるまで、気づかないことはなかったが」

 近づくのは了承できないが、探す目は多い方がいい。

 その意を込めてそれだけ言ったウノの本音を、蓮は正しく受け取った。

「……見つけたら、あんたらがどうにかしてくれるか?」

「この地に根を張る獣として、それ相応の事はさせてもらう」

「分かった。それとなく探してみよう」

 頷いた若者に頷き返し、おどけた声で言った。

「見送りはここまででいい。早く戻ってやれ。あの鬼、腹の虫がやかましい」

 先程から、真面目な話の合間に、盛大な轟音が耳に飛び込んできて、気がそれて仕方がない。

 言われて苦笑した蓮は、ウノの背後を指さしながら、同じようにおどけたように答えた。

「あいつの腹の虫より、そっちの人の唸り声の方が気になって、困ってたんだけどな?」

 指をさされた方を振り返らず、兎は大きくため息を吐いた。

「……互いに、苦労するな」

「苦労の種類が、大きく違うが、まあ、そういう事にしとくか?」

 自分がついつい斬りかかってしまったことが、兎の後ろの木の影の獣に、険しい目をさせているのだろうから、精々親し気にふるまいつつ、蓮は二人がつかず離れるの位置を保ったまま立ち去るのを見送った。


 寺に戻ったセイと、石川家の仕える国から戻って来た二人が顔を合わせたのは、それから十日後の事だ。

 エンが太鼓判を押した通り、若者はロンたちが仰天するほどにあっさりと、二人の頼みをすんなりと聞き入れた。

「何でだろ」

 半分身構えていた雅は、拍子抜けしつつも、不自然なその態度に逆に不安になった。

 居心地悪そうなその呟きを拾ったのは、二人の男だった。

 どちらかと言うとセイと年の近い、岩のような男と、今は畳の上で長々と寛いでいる黒猫だ。

「……不味いな。幼少の頃の教えが、ここまで障るとは」

「そうですね。敵にそういう奴がいて、情に訴えられては、不味いですよね」

「? 何のことだ?」

 眉を寄せた雅に、オキは苦笑して黙り込んだが、ゼツは正直に答えてしまった。

「年かさの人には、強く出れないようなんです」

 目を細めた女に気付き、オキが目を剝いたが、ゼツはしんみりと続けた。

「ロンには当たりが強いんですが、死なないようには心掛けているし、ジュリたちにもそうです。そのせいで、色々と気にかかることが増えて、自分に圧し掛かってくるのが、分かっていないんです」

「……」

 雅と向かい合っていたジュリも紅い目を細め、静かに弟分の男を見つめる。

「……それは、私も年嵩だから、優しくされているという事、かしら?」

「え?」

 おっとりとした声に我に返ったゼツは、やんわりと微笑む姉貴分を見返した。

 そこまで見届けたオキは、素早く部屋を飛び出した。

 その後ろから、不穏な叫びと怒鳴り声が聞こえ、寺の離れは騒然としたが、構わず廊下を走る。

「っ、ジュラと同じ間違いを、ゼツが犯すとはっ」

 女は怖い。

 それを身をもって知っているオキは、ジュラの時のように止めに入らず、セイを逃がすことを考えて、全力で走るのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

語り継がれるお話 6 赤川ココ @akagawakoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ