第9話

 数日後、国に連れ帰られた鬼は当然捕らえられ、打ち首となった。

 本当に、それが出来れば良かったのだがと誉は苦い顔で言い、刑場の前にさらされた、坊主頭の生首を見ながら続けた。

「うまい具合に、極悪な賊が捕まっていて良かった。でなければ、お前の願い通りにする羽目になっていた」

「それでも、一向に構わなかったんだが。向こう百年は、この国に立ち寄れないのは、生き地獄も同然だ」

 早朝の、人がいない時を見計らい出てきた鬼は、法力僧の装束を脱ぎ、一見武家の旅姿となって誉と話していた。

 さらされた首は、さらに数十日たった今日、取り払われて無縁仏に葬られることになっていた。

 本当は、罰を受けさせてしまいたいところだったが、誉の仕える国で罰を受けることにすら、喜びを見出してしまった鬼には、ご褒美にしかならない気がして、誉本人も本気で鳥肌を立てていたので、このまま放逐することにしたのだった。

 勿論、そうする上で、障りがないように色々と言い含めることは、忘れていない。

 向こう百年この国に入らせないのは、二の主の許嫁を含む、村に関わったものに配慮し、二度とこの鬼と会わせないという心づもりがある。

 その百年の間に、鬼が精進して穢れを薄められれば、再び国に住むこともできるように、便宜を図ると約束したが、果たしてそれがうまくいくかは分からない。

 旅路に出た鬼を見送り、誉はすぐにお役目に戻ったが、ウノは久しぶりに近くの山に入った。

 この数日、次から次へと頭を使う事案があり、それを治めることに時ばかりが過ぎ、ゆっくりと寛ぐこともできなかったのだ。

 連れ合いに合わせていた体を、大きく伸びをしながら本来の大きさに戻し、草むらに寝転んだ。

 実は、誉よりも数百年年かさのウノは、思いのほか厳しいお役目の数々を、若くない体に鞭打って取り組んでいた。

 こうやって寝ころんだからには、暫く何があっても起き上がれそうになかった。

 うとうととしながらも、まだ収まりきっていない事を考える。

 混血の狐、雅とその思い人がこの国に身を寄せてきたのは、数日前だ。

 国から出した使いと共にやって来た雅は、未だ傷が癒えていないようでエンが支えながら連れてきた。

 男は戒に雅を託して、国を出ようと思っていたようだが、流石に非情すぎると引き留めた。

 この島国を出た群れを追わなければいけないというエンに、先の村の尼僧の訃報を告げ、件の群れは未だとどまっている旨を伝えると、とりあえず落ち着いてくれ、雅と共に同じ家にとどまっている。

 戒の不安は、大的中だった。

 エンが雅に惚れているのは、はた目からもありありと分かるが、何故か弟分を秤にかけると、女の方が恐ろしく上に傾く。

 それが、戒の言う老人との密な関わりのせいかは分からないが、悩ましい話だ。

 雅は、少しずつ落ち着きを取り戻してはいるが、それは間違いなく好いた男が一緒だから、だ。

 見知った娘とも、戒とも話すようになったが、他人行儀な様子が見受けられるのに、エンが傍にいると、穏やかな様子に変わる。

 このままこの国に住ませるというのも一つの手だが、男が去った後、馴染んでくれるかも心配だった。

 かと言って、件の群れに連れて帰らせるのも、難しい。

 雅の気持ちが、人を守ると思えるまで癒えていないし、これ以上癒えるかも分からない上に、あの群れも無理に雅を引き入れるつもりはないようだ。

 故に、エンも群れに連れ帰るつもりはないのだ。

 鳴海という名のあの狐を遠ざけるのに、あれほどいい場所はないのだが、ままならないものだ。

 ゴロゴロと草むらで体を転がし長く伸びながら、ウノは頭に浮かぶことを、それとなく考えていたが、ふと、何かの気配に気づき、そちらに目だけを向けた。

 何かが、地を震わせながら走ってくる。

 四つ足で駆け寄ってくるそれは、馴染みのある獣のものだ。

 猪か。

 そろそろ日は高く上るが、既に秋真っ盛りで、暑くはない。

 うまそうな食べ物でも見つけて、はしゃいでいるのかと、うとうととしながら考えていたのだが、近づいてくる足音に気付き、目を開けた。

 身を起こして、そちらを見る。

 身軽な人間らしき足音が、猪を追いかけてきていた。

 こんな山奥にまで、人が来るのも珍しい。

 まだ眠っている頭でそう考えたウノの前に、大きな猪が飛び出してきた。

 野生の猪は、身を起こして草むらに座る男に、一直線に走ってくる。

 このまま跳ね飛ばされる方が、飛び上がって避けるより、目が覚めるかと寝ぼけた頭で考えるウノの前で、猪が突然もんどりうって横倒しになった。

 首に入った亀裂から血を吹いて、すぐに絶命する。

「っしゃ、当分飯に困らねえぞっっ」

 迫力ある声が叫びながら、猪の横合いから草を割って近づいてきた。

「……」

 その姿を見つめ、ウノはすっかり目を覚ましてしまった。

 目を見張る男の前で、大木のように大きな男が猪を見下ろす。

 武家の旅装束のその男は、刀を振って獣の血を払いつつ、満足げに頷いた

 ウノは内心驚きながらも、黙ったまま観察した。

 先に国を出した鬼と同じくらいの大きさだが、貧相な人相だった奴とは違い、剣の腕も確かな上に、力も体に相応してあるようだ。

 主級の猪を、走っていた勢いのまま刀の一太刀で仕留めたのに、全く体を揺らがせず息も乱していない。

 それ以外にも珍しさで見守っていたのだが、当の男は草むらに座ったままの男には構わず、狩ったばかりの獲物に気を取られていた。

「寝起きの体もほぐれた。後は血抜きして、あいつらの元に持って帰れば……って、ん?」

 強面のその男は、その面相に似合わぬ笑顔で独り言を言い、ふと気づいて周りを見回した。

 焦って前後左右を見回し、男は呆然と呟く。

「しまった。猪狩りに夢中になりすぎちまった。ここ、何処だ?」

 目を泳がせつつも必死で気を落ち着かせ、今走ってきた道を思い出そうとしているようだが、すぐに頭を抱え込んでしまった。

「ああ……あいつらが山菜取りしているのを、邪魔しねえようにと思って遠ざかっただけだってのに、これじゃあ、逆に気遣われちまうだろうがっっ」

 切羽詰まっているようだが、全く面識のないウノには話が見えず、声をかけるのも憚られて、そのまま胡坐をかきつつ様子をうかがっていた。

 このままだと、今来る若手の獣たちと鉢合わせしてしまうなと思う間に、その若手の獣たちが微かに草を揺らしながら、開けたそこに姿を見せた。

「矢張り、ここにいたんですか、ウノ。誉殿が、そろそろ昼だと……」

 狼の男が気楽に声をかけ、ようやく見知らぬ男に気付いた。

「っ?」

 きょとんとする大きな男を前に、目を剥いて竦んだ獣に、ウノは内心溜息を吐く。

 当主に仕える者と、他の兄弟に仕える者の間には、明確な差がある。

 古株か新参かの違いではなく、妖しの類になった歳月の長さだ。

 勿論、若い者でも力が強く、当主の元につけられる者もいるにはいるが、大体が腕っぷしも頭も弱く、己の力を最大限に使えない方がざらだった。

 二の主と一緒にいることが多いウノが、先の旅の時狼と蛇を選んだのは、まだまだ伸びしろで修行が足りていない二人だったからで、丁度いいから少し鍛えようと思っての事だったのだが、あまりいい目は出なかったようだ。

 ウノの匂いを辿るのに気を張りすぎて、すぐ傍に敵かもしれない者がいるのに気づかず、無防備に歩いて来た。

 しかも、客の一人を伴っているのに。

「こんな場所があったのか。畑でも作ったらどうだ?」

 きょとんとする男と同じくらい大きな戒が、呑気に姿を見せて草原を見回し、血を流して絶命している猪を見つけた。

「ああ……畑は、不味いか。野生の獣が住み着いていては、格好の餌場になる」

 そこは鋭く気づく癖に、同じくらいの男に気付かず猪に近づき、すぐ傍まで寄ってようやくぎょっとした。

 遅いな。

 無言であきれるウノの前で、戒が目を剥いて男に言った。

「お前、あおいっ?」

「っ? 戒じゃねえか。お前、何でここに……まさか、雅さんの山まで来ちまったのかっ」

 更に頭を抱える男に呆れる戒に、ロウがそっと訊く。

「知り合いか?」

「ああ。江戸の城に奉公してるはずの、鬼だ。確か、迷い癖があるとか、そんな話だ」

「……江戸から、ここまで迷い出たってか?」

 信じられないとロウが首を振りながら、胡坐をかいて座っているウノに近づいていく。

 そんな獣に構わず、葵と呼ばれた男は戒に縋るような目を向けた。

「雅さんは、群れに入ったんだよな? お前だけか、この山にいるのは?」

「……入っていないし、ここはあの山じゃない」

 何とも言えない顔つきになった戒は、自分の今の住まいを答えた。

 国の名を言い、そこに雅と一緒に身を寄せていると告げると、男は不思議そうに首を傾げた。

「何だ?」

 見とがめて眉を寄せる男に、葵は戸惑いながら答えた。

「いや、一度山に戻ってから、セイの元に行くようなことを言ってたんだよ、雅さん」

「よく知ってるな……ああ、そのつもりだったらしいが、やめた」

「やめた? 何でだ?」

 さらに戸惑う男に、戒は言葉を濁しながら答えた。

「行けなくなったんだ。ミヤの、調子が優れなくなって」

「病になったのかっ」

「まあ、そんなものだ」

 曖昧に頷く男に、葵は溜息を吐いた。

「そうか……そんなこと、一言も言ってなかったな。それとも、セイやエンは、その事を知らねえのか?」

 もしそうなら、言いようがないと呟く葵の言葉を拾い、戒は不機嫌に首を振った。

「知ってる」

「そうか……」

 険しい目を更に細めた男に、戒は不機嫌なまま続けた。

「それに、エンは山からここまで連れて来てくれた上に、とどまっている」

「……へ?」

 間抜けな声で聞き返した葵に、戒は再び言った。

「だから、あいつらも、ミヤの事を知っているし、病は癒えていないが、エンがいるから、いずれは立ち直ると言ってるんだっ」

 そこまで信じてはいるのかと、狼と兎が秘かに考えている前で、葵と呼ばれていた男が顔をひきつらせた。

「……エンが、来てる? その国元に? ひいっっ、不味いっっ」

 ひきつらせるだけでなく、顔色まで蒼白になった。

 急に逃げ腰になった葵に首を傾げ、戒が近づこうとしたとき、ウノが不意に立ち上がった。

 一歩葵に近づいていた戒の傍で、がちりと固く鋭い音が響く。

 振り返ると、そこにいなかったはずの若者がいた。

 黒く腰まである長い髪を後ろで束ねた、ここにいる男たちよりもはるかに小さい若者だ。

 その手の刀は、完全に戒の首を斬りつける位置で止まっていた。

 止まっているのは、刀の柄を掲げ、鍔でその刃を押しとどめる者がいたせいだ。

 若者よりさらに小さな男が両腕と片足を使って、ロウの腰から鞘ごと奪った刀で押しとどめていた。

「ちっ」

 若者は冷ややかに舌打ちをしながら、その鍔競り合いから抜け出そうと力を緩めない。

 舌打ちしたいのはこちらだと、ウノは内心毒づいた。

 この勢いで斬りつけられていたら、流石に目が覚めるどころか、永遠に目が覚めなくなりそうだった。

「っ、れんっ」

 目を剥いたまま固まった戒の代わりに、葵がそう呼んだ。

 蓮と呼ばれた若者が、先程と同じように唐突に、黙ったまま刀を引いた。

 我に返ったロウが、小さな敵に体当たりを試み、それを避けるために大きく飛びのいたのだ。

 すぐその傍に駆け寄った葵に、呆然として立ち尽くす戒をかばうように、前に立ちはだかった二人の獣を見据えながら、落ち着いた声で言う。

「今、お前の顔が向いている方に、振り返らず走れ」

「って、お前はどうすんだよっ」

 若者を振り返った葵が目を剝き、言い募るのにも若者は落ち着いて答えた。

「すぐ追いつく。早くいけ」

 頷く男とこちらを見据える若者を見ながら、ウノもロウに刀を返しながら短く言った。

「少しでいい、隙を作れ」

 無言でロウが頷くのと、葵と呼ばれた男が動いたのは、同時だった。

 振り返った頭の方角に一目散にかけ出そうとする男に、蓮と呼ばれた若者が目を剝いて叫ぶ。

「馬鹿野郎っ。さっき向いてた方だって、言っただろうがっっ」

「……」

 好都合なことに、それが隙になった。

 こちらから目を逸らした二人を、瞬時に縛る呪いを施す。

「っ」

「げっ」

 一瞬で身動きが取れなくなった二人は、ほっと息を吐く小さな男を見た。

 いつもより、一回り小さくなっているのだが、狼藉者には分かるまい。

 戒が立ち上がったウノを改めて見て、目を丸くしているが構わず、二人を見上げた。

「……我が国の客人に、突然切りかかるとは、何事だ?」

 やんわりとしているが、真顔のまま問うウノに、何故か味方であるロウが後ろで首を竦める。

 当の狼藉者二人は、それぞれ黙り込んでいた。

 大きな男の方は、何故かおろおろと目だけで周りを見回しているが、それよりはるかに小さい若者は、立ち尽くしたままウノを見下ろしていた。

 いつまでも黙っている二人に溜息を吐き、後ろでようやく我に返った戒に声をかける。

「この二人の事、お前は知っているのか?」

「あ、ああ」

 まだ先の衝撃から立ち直れていない男は何とか頷いて、二人を紹介した。

「江戸の城に仕えている奴らだ。セイがいる群れとも、顔馴染みの奴らで……」

「顔馴染みなら、何でお前を斬ろうとしたんだ?」

「き、斬ろうとしてた、のか?」

 問い返したのは何故か目を剝いた葵で、隣にいる蓮に目を向けての事だった。

「お前も、不味いと思っただろうが」

「そ、そりゃあ、思ったけどよ。雅さんの弟分だぜ?」

「ガキじゃねえんだから、エンは気にしねえよ」

 蓮は、ウノを見つめたまま男に答え、不意に笑顔になった。

 体を分からぬ物で縛られているにしては、不遜な笑顔だ。

「布ずれの音で術を組むなんて荒業、初めて見た。あんた、器用だな」

「褒められても、何も感じんな。どうでもいいから、何故この男に襲い掛かったのかだけ、吐け。それ次第で、連れ帰るか考える」

「言う謂れはねえな。どうせ、大方の経緯は分かってんだろう?」

「確証がない。だから、吐かせるしか無かろう」

 しれっと言われても、若者は笑顔を浮かべたままだ。

 その笑顔が、微妙に張り詰めているのに気づき、ウノは眉を寄せて周りに気を巡らせる。

 それは、唐突だった。

 草むらに、ごく小さな音が転がってきた。

 途端に、術が破れる。

「っ?」

 あまりに呆気なく術を破られ、狼狽えてしまったウノの様子を見て、ロウまで狼狽えてしまった。

 その隙をついて、狼藉者二人が同時に動く。

 獣二人が我に返る前に、二人は同じ方向にかけだし、木々の枝に飛び移って、あっという間に姿を消してしまった。

「……猿じゃ、なかったよな、今の奴ら」

「ああ、少なくとも、刀で猪を狩る猿は、見たことないな」

 後に残ったのは、草むらに立ち尽くす三人の男と、足元に長々と横たわった、物言わぬ大きな猪だけだった。


 少し休むつもりで山に入ったのに、妙な疲れを帯びて戻ったウノは、疲れた体に鞭打って、すぐに先の騒動について探り始めた。

 若者が言ったように、一つの考えは浮かんでいたが、確証が全くない。

 だから山狩りをさせている合間に、式の護符を主から拝借し、ある場所に送った。

 昼過ぎに送ったそれは、山狩りを終えて屋敷の一室に戻ったウノに、答えを持って帰ってきた。

 その内容を改めてから護符を主に返し、気楽な姿のまま別な一室の廊下に座った。

「いるか?」

 短く呼びかけると、中からすぐに声がした。

 襖を開けて中に入ると、男が一人居住まいを正してこちらを見ていた。

 一人なのを確かめてから奥に足を進め、男の前に座る。

「雅は、外か?」

「はい。ようやく、散策する気力が戻ったようで」

 穏やかな笑顔で迎えた男を見返し、ウノは慎重に話を切り出した。


 散策帰りに、屋敷から見知った男が出かけていくのが見えた。

 戒が憤りながらも話した、山の中での先程の騒動を受け、石川家の者総出で山狩りをしているのも雅の耳に入っているが、未だ狼藉者の姿をとらえることができていないようだ。

 妖しの者も多少なりとも住まう城下町は、長閑の一言では済まない暮らしのようだ。

 これなら、退屈とまでは思わないかと、雅は小さく笑いながら屋敷のくぐり戸をくぐった。

 行きかう人々にあいさつをしながら、あてがわれた一室に戻ると、同じ部屋に押し込められた男が、振り返った。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 穏やかに笑いながら挨拶され、それに雅も笑顔で返す。

 偽りのない素の笑顔を向けてしまったのだが、エンはその笑顔を見てすぐに顔を背けてしまった。

 振り返る仕草が、いつもより鋭い動きだと感じたのは、間違いではなかったようだとため息を吐き、雅はそのまま襖を閉めて奥の男の元に向かう。

「白湯でも、いただいてきます」

 縁側の方に向かった雅と入れ替わりに立ち上がった男を見送り、小さな中庭に面するそこに座る。

 甲斐甲斐しく、身の回りの世話をしてくれている男のおかげで、雅はここまで心の病が癒えた。

 そろそろ、身の振り方を考えなければならないと、そう思っていた。

 だが、その前に、男を返さなければならないとも。

 そう思い立ったのは、この地に男と共にやって来た時だったが、当時はまだ心の寂しさの方が、申し訳なさを上回っており、切り出せなかった。

 これではいけないとも思いつつも、今日までずるずると、男の優しさに甘えてしまっていたのだが、いいきっかけがやって来た。

 江戸から迷い出た知り人と、それを追ってきた若者。

 エンの名を出した戒を、蓮は本気で斬る気で襲い掛かったらしい。

 先ほど屋敷を出た兎の男が、エンにどう話して、そういう考えに至ったのかは知らないが、話を聞いた男が今考えていることは、手に取るように分かった。

 盆を掲げて戻って来た男が、縁側に座る女の傍に座り、白湯の入った器を差し出す。

 受け取った雅は礼を言ってから、さりげなく切り出した。

「蓮と葵君が、あの山に現れたんだって?」

「……ええ。どうやら、葵さんが城の使いの帰りに迷って、ここまでやって来たようです」

「そうなのか。じゃあ、戒は大げさに言っただけなのかな?」

 白湯を啜りながら、同じく器を手にした男に続けてみた。

「あなたの名を出したら、蓮が自分に斬りかかったって、怒ってたんだけど」

「……」

 狼狽えずに白湯を一啜りし、顔を上げたエンはじっと見つめる女を見返した。

 雅がそこまで知っているのならばと、エンもその話を皮切りにして、こちらの話を治める気になっているようだった。

「その二人の事が、どう障りになるか分からないので、そろそろお暇しようと思ってます」

 余りにさらりと言われ、心の準備をしていた雅も、つい言葉をなくしてしまった。

 変に思われる前に、何とか取り繕う。

「そ……うか。そうだね、そろそろ、あなたもあの子が恋しいだろうし、あの子も、寂しがっているだろうから、戻った方がいい」

 それでも、早口になってしまった口上を、笑ってごまかした。

 目を見開くエンに、雅は口を開く間も与えずに、尋ねた。

「いつ、発つつもりでいるんだ? 見送りは、派手にしない方がいいだろうから、その前に挨拶回りもするんだろう? 荷造りして挨拶回りして……余り遅くなると、あの子たちに追いつけなくなるし……」

「その前に、お話したいことがあるんです」

 途切れないように話し、目をそらしてその場から逃げようと膝を立てた雅を、エンが少し強めの声で遮った。

 ぎくりとした女がこちらを見るのを見返し、穏やかに笑って見せる。

「あなた自身の、身の振り方の事で」

 笑っているのに目は真剣で、それを真っすぐに受けてしまった雅は、つい生唾を飲み込んだ。

 膝を立てて立ち上がろうとしていた体を戻し、きちんと正座して男と向き直る。

「分かった。私は、もう少し落ち着いてから、自分の山に戻るつもりだけど、それはあなたにしてみれば、心配になるかもしれないよね」

 真顔の答えに頷き、エンはゆっくりと切り出した。

「オレが、あなたをここに連れて来たのは、あなたの心身を癒すためではありません」

 そうなのかと目を見開く雅に、エンはやっとここに来ることになった経緯を話した。

「あなたの叔父に当たるあの狐、逃げ切ったそうです。だから、万が一に備えて、あなたを連れ出しました」

 息が止まった。

 未だに許せぬあの叔父が、この島国のどこかで、同じように息をしている。

 そのことに、吐き気がした。

 頭の中が熱くなったが、持ち前の肝っ玉の強さで抑え込み、止めてしまった息をつく。

「そう、か。しぶといんだな、男の狐は」

 母を含む女の狐も、相当だと聞いてはいるが、たった一人に執心して、国を傾けることはしないと聞いている。

「今は、完全に一人となってしまい、障ることはないでしょうが、寿命が長い妖しとなった獣なので、いずれはまた、何処かで悪さをするでしょう」

 それは、石川家の獣たち一同、口をそろえて言い切っている。

 そういうと、雅も険しい顔で頷いた。

「同じように、誰かに執心して、知らぬうちに周りを取り込まれて、とんでもない悪どいことを、しでかすかも知れない」

 そう思うと、半端に怒りを向けて、自分への好意を消してしまったことが悔やまれて、女は唇をかんだ。

 その様子を見て、エンやはり思い違いではないと、小さく頷いた。

 どんなに時を置いても、雅の中の仄暗い思いの色が変わるだけで、一つの事への覚悟は変わらない。

 心が弱まっている時に今の話をしても、後の動きが変わるだけで、叔父を迎え撃って手にかけようとすることは、雅の中で決まっているようだ。

 ならば、矢張り言うべきではない。

 気を取り直したあの狐が、再び姪っ子に執着を見せるだろうと、心配されている事には。

 未だその好意が自分に向いていると知れたら、これ幸いと山に留まり、近づいてくる叔父を待って、共倒れ覚悟で挑んでしまうだろう。

 だが、このままでは、自分が傍を去った後、雅はどのみち山に戻る。

 自分への好意が消えたと思っているから、籠ることはないだろうが、目くじらを立てて叔父の行方を探そうとするはずだ。

 この国にきて数日、エンはそのことで秘かに悩んでいた。

 セイの元に戻るのは決めているが、雅も置いて行きたくない。

 戒がいるからと取り繕ってはいるが、先の騒ぎで役立たずだと分かってしまっているから、かなり不安がある。

 喪に服すと決めた群れの者は、未だに古谷の御坊の寺に留まっているが、長くとどまるわけではなく、気持ちが焦っていた。

 そんな中、今日になって先行きが明るくなる話を聞かされたのだった。

 弟分は雅の事を言い訳に、自分を群れから引き離そうとした。

 ならば自分は、弟分を餌に、雅を誘い込む。

「先程、戒が蓮に襲われた場を見た兎の人が、経緯を話してくれました」

 唐突に話を戻した男に目を瞬く雅に、エンはゆっくりと先程やって来た兎の話を切り出した。

 迷い出た葵が、雅の事を聞いて戸惑うのは分かるが、その戸惑い方が、知らずに安否を聞いてしまったことからくるのではなく、聞かされていない、という事からくるものに感じたと、そう言った。

 そして、エンの名を出した途端、大きな男が年甲斐もなく焦り、それと同時に蓮が飛び出てきた。

「……あれは、確実に首を落とす気だったと。そうする気になったのは、オレの名を出したせいと言うより、オレがこの近くにいると知ったせいなのではと」

 つまり、エンに自分たちがここにまで来ていると知られたくないと、口封じする気だったようだと兎に言われ、なぜそこまでと、男も戸惑ってしまった。

 それまでエンは、江戸での件で上司から何かしら命を受けて、群れの誰かに会いに向かっているのだと、その理由が険悪なものなのではと考え、もう戻ろうと決めたのだが、ウノはその不安を笑って振り払った。

 聞いた雅は、先のエンと同じように、戒にされた仕打ちに憤りながら、半分戸惑っている。

「何で、あなたの名を出しただけで、口封じ?」

「そう思った理由が、これなんです」

 帯の奥から出したのは、何かを包んだ懐紙だった。

 先ほど、ウノから渡されたものだ。

「あの人、石川家の家の人たちの教育係で、術に長けているそうです。隙を見て、逃げようとする二人を術で縛って、屋敷に連れ帰るつもりだったのに、逃げられてしまった」

「え? 葵君はともかく、蓮は逃げられないと思うけど。また手を斬り落としでもしたのかな?」

 見ているだけでも痛い、術の破り方だったと顔をしかめる雅に、エンも少しだけ眉を寄せる。

「それは、斬り落とした手を拾い上げて、逃げることになりますけど。もしそんな逃げられ方だったのなら、あの人たちが手を拾ってこないはずはありません。そうではなく、別な誰かに、これで解かれたらしいんです」

 答えながら開いた懐紙の中身は、小指の先ほどの大きさの、団栗だった。

 あの山にも、たくさん生えている木の一つの、小さな実。

「もう一人、蓮と葵さん以外に、一緒だったんではと、そう睨んだウノさんは、古谷の寺の村に近い集落に繋ぎを取って、寺の様子を伺わせたそうです」

 そうすると、睨んだとおりだった。

「寺にいるはずの一人の鬼が、最近まで留守にしていた。その間もその後も、側近しかその姿を見ていないものが、一人いるようだと、そう知らせがあったそうです」

 姿を見せない者とは、どうしてもその場にいなければならないはずの者だった。

「え……まさか、そうなのかっ?」

「ええ。先程、ウノさんは確かめに来ていたんです。もしやセイは、目線だけで術を破れる類の、奇異な子かと」

 その通りだと真面目に答えると、兎は溜息を吐いた。

「何でも、あの人は昔、息をするかのように術を破れる類の兎と、うちの親父に称されたことがあるらしいんです。そんな人の術をあっさり破るとしたら、その位の者だろうと」

 これはその後、こっそりと訪ねてきた誉の弁だ。

 何故、連れ合い同士なのに、行き会わないようにしているのかは分からないが、誉の方は兎の動きをこっそりと見ているだけで、幸せを感じているらしい。

 大きな体で小さな幸せ、と言えば聞こえはいいが、ずっと見られていると、怖くはないのだろうかと、エンは他人事ながら心配している。

 危うく、全く別なことを深く考えてしまった男が、我に返って話を続けようと気を取り直したとき、雅が考えながら言葉を紡いだ。

「つまり、あの二人の道連れに、セイもいたと? 何故?」

 それは、分からない。

 だが、想像は出来た。

「あの寺の初代は、この島国では有名らしく、その力を継いだ当主も、時々怪異の相談を受けるようです。恐らく、喪に服している当主の代わりに、あの子が動いたんでしょう」

「何故、あの二人と一緒なのかは、それでは分からない」

「ええ。偶々戻るときに道連れになったのか、戻るセイが一人なのを見かねて、送ってきてくれているのか。どちらにしても、今も二人とあの子は、一緒にいるでしょう」

 言いながら、雅の思案顔を見つめた。

「そこで、あなたの身の振り方に、話が戻るんですが……」

「それは、ころころ変わりすぎると、あの子に鬱陶しがられるんじゃ、ないかな」

 すぐに返すところを見ると、それも視野に入れてくれていたのだろう。

 中中に、いい具合に回復してくれている。

 内心嬉しく思いながら、エンは首を振った。

「それはないです。あの子は、人の心が変わりやすいのを知っています。どんな強い約束事でも、時がたてば反故にされることも、よくあるものだと知っているので、あなたがどんな場でその約束をしたのかは知りませんが、覚えていたくらいで、信じていたわけではないはずです」

「それも、傷つくな……」

 あの時の言葉は、本心だったのだ。

 雅は少しだけ悔しい思いで呟き、更に考え込む。

「……あなたが、ここを去ると決めたら、その時が一番の機会だって、女衆に言われていたんだけど」

「? 何のことですか?」

 首をかしげる男の前で、雅は小さく唸った。

 女は親しくなったこの家の主の許嫁と、その家臣たちの親戚の女衆たちに、男たちの前では言えぬ悩みを、気弱なふりをして相談していた。

 それがふりだと気づいていた誉が、一つの手だと切り出したのが、その方法だ。

 わざと涙ぐんで、一晩の慈悲をもらう。

「……知り合いの狐のいう事には、お前たち狐は、自分の意に添わぬ者との間には、子を作らないようにできるそうだな。男が離れるのを我慢できるのなら、好いた証を作るのも手だろう。お前たちならば、何も障りなく子も芽吹くだろうから、羨ましい限りだな」

 大きい図体に似合わぬ、悲しそうな声で言われ、雅は少しだけ不思議に思ったものだった。

 誉の案は、とても名案だと思うのだが、その手を使うと、どうしてもやはり、こちらが襲う事になりそうで、それはどうかと悩んでいた。

 そうこうしている時に、いよいよこの日を迎えてしまったのだ。

「……元々、強引に寺まで押しかけて、島国を一緒に出ようと思ってたんだけど、できそうかな?」

 あの時は、気迫で押し切ろうと考えていたが、今になって思えば、逆に追い返されることもありえたと思う。

 雅がそんな不安を口にすると、エンは穏やかな笑顔で首を振った。

「それはないです。あの時、水に落とした時も、怪我をしないように考えて落としていましたから」

 逆に、エンは岸に近い水辺だったため、とっさに頭をかばう羽目になったと、男は呑気に笑って続けた。

「あなた相手では、押し切られてくれるはずです」

「どうして?」

 目を瞬く雅に笑ってごまかしながら、エンは更に言った。

「もっと穏便にいくよう、あの子に近づいて話を通してくれている人もいますから、きっとロンたちが驚くほどに、すんなりと事は運ぶはずですよ」

 その理由は、女の人には口が裂けても言えない。

 疑いの目を向けられながらも、エンは笑顔を崩さずに言い切ったのだった。

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