第8話

 土地勘がないのは、こういう時に裏目に出る。

 土地勘のある者を追う立場として、目の前に壁が現れた時、その壁を飛び越えて追う方が、わざわざ回り道して行くよりも、戸惑いにくいと思っての動きだったのだが、その獲物を完全に見失ったと諦めた時、セイはまず後ろめたい思いを抱いた。

「……大丈夫かな。あの場所、喉仏があったよな」

「大丈夫じゃろ」

 答える狸は、あっさりとしていた。

「あの兎が、懸命に介抱するわい。そのための連れ合いじゃ」

 空を仰いだセイは、確かめるように尋ねた。

「連れ合いとは、番とか伴侶の事か?」

 素直な問いに、狸も素直に答えてやる。

「儂ら獣の中では、少しだけ意味合いが違う。人間の言うところの、夫婦が番や伴侶で、連れ合いはその前の段階じゃ。所謂、許嫁というやつだ」

「夫婦とか伴侶というのは、ちぎりを交わした男女ということで、合ってるか?」

 無感情に素直な若者の問いに、源五郎は素直に答えた。

「獣間では、男女には限らんがな。まあ、大体合っておる」

「そうか」

 分かったように頷いているが、全てを分かったわけではない。

 寧ろ、疑問符がいくつか浮かんだが、ここで話は終わらせた。

 件の集落の、壊れたあばら家の前に戻ってきたのだ。

 そこに、黒い塊がいた。

 大きな体を精いっぱい縮めた黒い獣が、体の割りに短く小さな後ろ脚を曲げ、蹲っている。

 長い胴体を持て余しながらの、正座に似た座り方だ。

 しょぼくれた髭を垂らした頭の真下に、小さな体を精一杯ふんぞり返らせながら、兎がその獣を睨み上げていた。

「? 何やってるんだ?」

 その光景も気になったが、その黒い獣の足元で、竹の槍を掲げながら座るオキに気付き、セイは首を傾げた。

 主の帰還に気付いて立ち上がった猫が、その槍を手にしたまま近づく。

「何だ、八つ当たりはいらないのか?」

「何で?」

「いや、戻る村で待ってる、老い先短い尼僧の手土産に、精のつく食べ物を持って帰る気になっていると、そう思ったんだが」

 首をかしげていた若者が、そこまで言われて思い当たり、黒い獣を見た。

 そして答える。

「多恵さんは、尼僧だぞ。魚は土産にできないだろう。でも、そうだな。今の時期なら、何処かに果肉が多くて美味しい実が、山にあるかもしれないから、戻る前に探してみるか。風邪で寝込んでいるらしいから、そういう手土産はありかもしれない」

「そうか。本当に、老い先短くなっていたか。少し前までは、いきのいい娘だったってのに、本当に早いな」

 内輪の話を進めている間に、黒い獣と兎の内輪もめも佳境に入っていた。

「それから、後先考えずにこんなところで姿を戻すとは、何を考えてるんだっ。国元じゃないんだぞ。着替えがないというのに、どうやって帰る気だっ」

「す、すまない。人間の姿のまま、さっさと張り手ではたき殺せば良かったんだが、こんなばっちい鬼を、あんたの手にかけるなんて、許せなかったんだ」

 そのばっちい鬼は、兎の背後で黒い獣に目がくぎ付けになったまま、座り込んでいた。

「……逃げる気を、なくしておるようだの。どうする、あの鬼は?」

「あの狐の居場所を知っているとも思えないから、あの人たちの任せるよ」

 狸の静かな問いに答えつつ、セイは再び反省する。

 こちらの事情にかまけて、後ろで始まりかかっていた修羅場に気付けなかったのが、惜しまれる。

 気づいていれば、あの大きな獣が現れる前にあの二人を突き放して、狐を追えたかもしれない。

 突き放した二人が後を追ってくるころには、あの大きな獣が現れていて行く手を遮ってくれていただろうから、ちょうど良かったはずだ。

 そう思ってから、ふと別なことも考える。

「……雅さんの怒り次第では、不味いか。邪魔された腹いせに、見つけた逆鱗を叩いてへこませて、力任せに引きはがしてしまうかも。エンもそれに乗って何をしでかすか……」

「不穏な想像は、そこまでにしてくれ」

 思わず、もしもの事態を考えて唸ったセイに、兎が振り返って窘めの言葉を投げた。

 青ざめてはいないが、不機嫌な顔が別な感情でひきつっている。

「邪魔をしてしまって、すまなかった。あの狐は?」

「見失った」

「まあ、暫くは、近づかんじゃろ。姪っ子の怒りと恨みを覚えている間は」

 僅かに申し訳なさそうにしている若者に、狸が気軽に言う。

「身に受けた恨みや怒りを、忘れられるのか?」

 首を傾げるセイに、兎が答えた。

「大概の奴は忘れないが、偶にいるんだ。怒りや恨みを、ただの嫉妬や気を引きたいがためのものと考え、すぐに立ち直るやつが」

「……?」

 無感情に目を瞬きつつも、セイが頷くのを見て、オキは苦笑した。

 何を言われているのか、分からなくなってるが、話を治めるために相槌を打っている。

 だから、主の意を受けて話を変えた。

「誉、そのまま山に帰るのか?」

「駄目だ。野生の生き物もいるだろう山林を、壊すわけにもいかない」

 答えたのは兎で、小さく蹲る黒い獣を睨みながら続けた。

「これから着替えを取りに行ってくる。それまで、お前はここにいろ」

「なっ。嫌だ、一人にしないでくれっ。こんなばっちい鬼といたくないっ」

「心配しなくても、このばっちい鬼は、お前を襲う事などできない。力も弱そうだからな」

「……本当に、偉そうな兎だな」

 悲壮な声の獣を振り払うように言う兎に、しゃがれた声が低く言った。

 先の衝撃が薄まって、ようやく我に返った法力僧だ。

 兎を睨み、口を歪ませる。

「オレは、お前ほど穢れてない。お前に、そこまで蔑まれるのは、心外だ」

 首だけ振り返った兎が、鬼を睨み返す。

「ウノは、穢れてなどいないぞっ」

 何か言いかける兎より早く、黒い獣が叫んだ。

 大地が震えるほどの、咆哮だった。

 耳は人並みのセイですら、その声で一瞬耳を塞いでしまうほどだから、間近にいた兎が頭を抱え込んでしまうのは、無理もない。

「いいか、ウノは見た目が小さいから、無理して声高にふるまっているが、心根はやさしい綺麗な兎なんだぞっ。それを、本当にばっちい鬼が、何も知らずに愚弄するかっっ。許さんぞっっ」

「……」

「……大丈夫か、あれ? 耳が聞こえなくなってないか?」

 無言で頭を抱えて震えている兎を見て、セイが気遣うように呟いたが、獣二人は気の抜けた笑いを返した。

「あいつのことだから、今の誉の傍で説教するために、壁くらい張っているはずだ。ああやって、すぐにむき出しで叫ぶからな、あいつは」

「そうか」

 頷いた若者から狸の方に目を向けると、呆れた顔で見返していた。

「……あのまま、山に放つわけにはいかん。かと言って、兎のもああやって止められてしまって、振りほどくどころでも、なさそうじゃ」

「だな」

 頭を抱え込んだ兎を、両前足でかばう様に捕まえている獣は、悔しそうに顔をゆがめる鬼を、厳しく睨んでいた。

 我に返ったものの、振りほどく力が戻らない兎は、助けを求めてオキを見る。

 それを受けた猫は、神妙に頷いて見せた。

「セイ、エンと雅が肉片になっていないか確かめるついでに、奴の着替えを調達してくる」

 まずは山に向かい、二人の生死を確かめてから、石川家の面々に事情を話して、着替えがあるかを確かめ、なければ目指していた村に向かう。

 そこで、大きな衣服くらいは、用意できるというオキに、若者は頷いた。

「そのついでに、山に実った木の実で、手ごろなのがないか探してみてくれ」

「分かった」

 あっさりと頷いて姿を消したオキに目を見張り、大きな黒い獣はようやく、若者を真っすぐに見た。

 まじまじと見下ろされ、若者はその金色に光る眼を見上げる。

「挨拶は、後で構わないか? その鬼に、聞きたいことがある」

「あ、ああ」

 見上げてくる黒い瞳に何故かひるみながら、誉は何とか頷いた。

 何故ひるんだのかと戸惑う連れ合いに、ウノが言う。

「……シノギの旦那の、血縁者だ」

「っ。あの時の子が、この世に出たのか。つまり、あの旦那……」

 喜ぶか怯えるかどちらか分からず、恐る恐る説明したウノは、連れ合いが目を険しくして舌打ちするのを見て、目を瞬いた。

「何だ、あの子が世に出るのが、そんなに怒ることなのか?」

「ああ、あんたはあの時のことを知らないんだったな。実は……」

 こそこそと話す二人を背に、セイは座り込んだままの法力僧と、向き合っていた。

 先ほど人を襲っていた者とは思えないほど、憔悴している男は、力なく若者を見上げる。

「……念のため、尋ねる。あの狐と、何処で落ち合うことになってた?」

 力なく笑った法力僧は、しゃがれた声で答えた。

「そう前置きするということは、分かっているんだろう? こんなことになるとは、思いもよらなかった。故に、落ち合う場所など、決めておらん」

「ここ以外に、身を寄せるところは、もうないということでいいのか?」

「少なくとも、この地の周りでは、寄せられるところは、ない。奴が、昔何をやっていたのか、知っているんだろう?」

 答えは分かっていると言わんばかりの問いかけに、セイは溜息を吐くだけで答え、静かに言った。

「私は、あんたには欠片も恨みがない。だから、あんたがお尋ね者になっている国に、身柄を任せようと思う」

 伺いを立てたわけではないが、法力僧は力なく頷いた。

「それでいい。この方が仕えている国で、罪を犯してしまったんだ。どんな罰もうけよう」

 鬼が仰ぐように見上げる先には、先程よりも険しい目になっている獣がいる。

 その足元で、兎は何とも言えない表情で、若者を見つめていた。

 振り返ったセイは、その二人の様子に首を傾げつつも、切り出した。

「狐の方は取り逃がしてしまったが、深追いして探し出して滅する方がいいならば、そうする」

「……いや」

 若者を見つめたまま考え込んでいたウノが我に返り、首を振った。

「源五郎が言ったように、暫くはこの地から離れるだろうから、今の所はそれでいい」

「ああいうやつは、また舞い戻るんだろう?」

「だが、追おうにも、痕跡が途絶えているからの。見つけるのも難儀じゃ」

 無感情に不安を口にする若者を、狸は年長者らしい口ぶりで宥めた。

 それに頷きながら、兎も言う。

「頼んでおきながら、邪魔をしてしまったのはこちらだ。あなたが気に病むことはない」

「そこまではないけど、少し悔しい」

 年長者二人の言葉に、若者は少しだけ声を籠らせた。

「三度までも、取り逃がしてしまった。あいつだけは、私が生きている間に、完全に仕留めたいものだ」

 深く言い聞かせるように言い切った若者を、老練な獣たちはそれぞれの顔で見守った。


 突然放り込まれた水場で、なすすべもなく沈んでいくのを、雅は呆然としたまま受け入れていた。

 このまま、死んでしまう方がいい。

 叔父の手の中で踊ろされていたという衝撃な事実に、悔やむよりも憎しみの方が先に立つ。

 叔父にも怒りがわくが、何よりも長年の画策に、微塵も気づかなかった己自身に、目が眩むほどに怒りを覚えた。

 息をするのも苦しく、その苦しさを叔父にぶつけようとして引き離され、水の中にいるのだが、息の仕方を忘れてしまったのか、溺れている時の息苦しさがなかった。

 もう既に、死んでいるのかもしれないと思い始めた時、乱暴に体を抱え込まれ、何処かに転がされた。

 水から上げられ、陸地にうつ伏せに転がされたと気づいた時、息を吸い上げた拍子に何かが詰まって咳込んだ。

 そのまま胸にたまった水を盛大に吐き出し、咳込みながらも息をする雅の目に、投げ出された足が見えた。

 顔を上げると、力なく足を投げ出して座る、優しい顔立ちの男の姿がある。

 流石に顔を強張らせているエンは、顔を上げた雅を見つめ、少しだけほっとしたようだ。

「一緒に落とされたのに、あなたがいっこうに浮いてこなかったので、無理に引き上げてしまいました」

 申し訳なさそうにしているところを見ると、余計なことをと、睨んでしまっているのかもしれない。

 とっさにそうしてしまったのだろうからと、言いつくろいながら責めるほど、力が戻っていない雅は、黙ったまま身を起こした。

 濡れ鼠の二人の間に、珍しく重い空気が流れる。

 秋色に染まり始めた山は、開けた土地よりも冷え込み、体の温もりを奪っていくが、まだ動いて何をする気も起きず、草むらの中に腰を落としたまま、雅は顔を伏せていた。

 その様子を見つめながら、エンも黙っている。

 沈黙を破ったのは、雅だった。

「……私は、あなたを呆れさせてばかりだな」

「……」

「事を収めようとして動いた本人が、その全ての発端だったなんて。それに気づかないなんて。どれだけお気楽なんだろう、私は」

 口に出すとその情けなさが思い出され、ついつい笑いが漏れた。

 昔からある村の儀式に耐え切れなくなって動いたことで、更に血なまぐさいことになってしまった。

 辛抱が足らないと悔やんだが、それ以前の話だった。

 血の繋がった叔父が、自分にどんな感情を持っていたのかすら気づかず、長く姿を見せなくなったことすら、気にしていなかった。

 頭を働かせて、村の事を救おうとしていたはずなのに、身近な者の邪な動きに気付かず、大きな障りにしてしまった。

 愚かすぎて、情けなすぎて、笑いしか出なかった。

 地に伏して笑いだした雅の姿を隠すように、静かに布地がかけられた。

 涙と水で汚れた顔を上げると、その布ごと誰かに抱きすくめられる。

 大きい女なのに、それをものともせずに包み込む男の体は同じように濡れ鼠だったが、湿った衣服の中から伝わる暖かさは、冷え切った雅の体をじんわりと温めてくれる。

 流れる涙はそのままに、目を閉じてその身を任せた女の背を、エンは子供を寝かしつける様に、ゆっくりと叩く。

 宥めているのは、自分自身もだ。

 先ほど見た、生粋のオスの狐と会ったのは、二度目だ。

 初めに会った時も性悪だと思っていたが、ただ一人の女を手に入れるための布石だとは、思いもよらなかった。

 しかも、雅の血の繋がった叔父。

 それを知っても、雅に気の利いた言葉を言って、慰めることができない悔しさと申し訳なさが、黙って抱きしめているだけ、という動きとなっていた。

 そっと顔を上げたエンを、雅の背後に立つ男が睨むように見返す。

 こちらは本当に子どものごとく、拗ねた目つきで睨んでいるが、大木のように大きくなった雅の弟分では、全く可愛げがない。

 心を込めて見返し、何とかいつもの笑顔を浮かべると、何故かぎょっとして身をひるがえし、音もなく立ち去って行った。

「……」

 今は何も言うなという無言の指示だったのだが、その場からいなくなってしまったのならば、何も言わないというのは難しかったのだろうと思うことにして、エンはこの後の事を考えた。

 自分はどのみち、弟分の元に戻るつもりだが、今の雅をここに残すのは、気がかりすぎる。

 戒は石川家の仕える国に向かうが、すぐに戻ってくるだろう。

 いつになるかは知らないが、それまでに雅が立ち直ってくれることを祈って、それまでは面倒を見ようかとも思うが……。

 セイが、それまで自分を待っていてくれるとは、思えなかった。


 国に戻る途中で追いついて来た狸の使いが、その訃報を告げた。

「……そうか」

 知らせを受けたウノが、野宿の支度を進める二の主に、短く告げる。

「件の尼僧が、往生したそうだ」

「尼僧って、多恵の事か? あの婆さん、まだ生きてたのかっ」

 一緒にいた大きな若い男が、思わずと言った様子で口走り、ウノはつい手が出た。

「お前の方が、年食ってるだろうが。黙れ、ガキが」

 小さい割に強い手刀を受け、戒が一瞬息を詰まらせるのを見て、法力僧が何とも言えない顔をした。

 その男を睨み、短く言う。

「もっと、離れろ」

「そういうわけにはいかない。お前についていろという、あの方の命だ」

 誉と二人の主は、真っすぐ国元に戻ったが、自分たちはまずお世話になった集落に、挨拶に寄った。

 法力僧とその孫にあたる戒も、道連れに押し付けようとしたが、法力僧の異様な目つきを不気味がった誉が嫌がったため、仕方なくウノが連れて帰ることにした。

 主の許嫁を狙った経緯もあり、捨てていきたかったが、何処から漏れたのか、上からの書状が届き、お尋ね者のその鬼を連れ戻るようにとの命が下り、かなわなかった。

充分に目を光らせているが、法力僧自身も国に行くことを望んでおり、再び己の曾孫にあたる娘を狙ったり逃げ出したりする様子も、今の所はない。

だが、子供を手にかけた兎への恨みは薄れておらず、終始嫌そうだ。

 嫌そうなのに、誉のウノを守れという命には従うようだ。

 国元の家臣の皆さんが、最近妙に自分を気遣う理由に、はっきりと気づいた兎は、苦い気持ちを隠せない。

 自分の陰口をたたくたびに、あの姿で現れていれば当然崇拝の的となり、国にあの獣をとどめるために、連れ合いとして知られる自分を気遣っているのだ。

 溜息を吐く兎に、二の主は気楽に笑う。

「慕われていて、良かったな」

 揶揄いの言葉に振り返った式神に、浪人者の男は話を戻して切り出した。

「そういう事なら件の群れは、しばらく村にとどまるな」

 エンとオキがいる、奇妙な群れの話は、主たちには話しておいた。

 あの二人の男のような者が、群れでいると知って、主たちは慄いていたが、遠く離れた今は他人事として見れるようになったらしく、時々話に上っていた。

「親しかったようだし、喪が明けるまではいるかもしれない」

 故人は女とはいえ僧侶だったから、仏教の教えに則った儀式で送ることだろう。

「という事は、長くてひと月と二十日ほどか」

 大陸の国のように、数年という事はないだろう。

 浪人者の言葉に溜息を吐いたのは、隣にいる娘だ。

「それまでに、雅さんが立ち直るかな」

 件の集落に白昼堂々と押し入ってから、三日経っていた。

 二の主と許嫁の娘が再会し、それぞれの経緯を話し合っていた時、娘が気にしていた狐の混血の女が、一人の男と共に姿を見せた。

 近くの川に落ちたらしい二人は濡れ鼠で、しかしそれだけが理由ではなく、女は消沈していた。

 無理もないと思う。

「好きな殿方に、あんな場を見られたんだもの、私だったら耐えられない」

「……」

 娘の真剣な言い分に、二の主は悔やみと安堵の混ざった、わけのわからない顔つきで黙り込んでいる。

 悩み過ぎて、許嫁を助けるのが遅れたと悔いているようだったが、主の尻を叩かなかった側近三人も悪いと、獣二匹は内心後ろめたくて空を仰ぐ。

 残りの一匹は首を竦め、全く別なことを考えていたが、それに気づいたのは法力僧だけだ。

 白い目で睨む男を無視し、兎は軽く言った。

「その好いた男が一緒なんだから、多少時がかかっても、いずれは立ち直るだろう」

「……」

 法力僧の隣で、その孫にあたる男が拗ねた顔で空を見上げた。

 それを見ながら、続ける。

「立ち直るのが先か、あの男が群れに戻るのが先か、分からないがな」

「えっ?」

 娘と戒が声をそろえた。

 目を剝いた男が、兎に詰め寄る。

「エンは、ミヤを置いて行く気か、また、一人にするつもりなのかっ」

「一人じゃないだろう。お前はこちらの用が済んだら、雅のもとに戻るんだろう?」

 目を剝いたまま何かを言いかける戒を遮り、兎は更に言った。

「雅ももう、一緒にいたいとは思っていないようだ」

「何でっ?」

 娘が、悲鳴に似た叫びをあげた。

「無事逃げられたら、好いた人のいる群れに入って、好いた人の大事な子を守るって、そう言ってたのにっっ」

 そんなことを言ってたらしいなと、兎も頷いた。

 狸の集落で、同じような話が上がり、女武芸者と共にやってきた小娘二人が、姫と同じように叫んでいたから、雅も本当にそのつもりだったのだろう。

「思わぬ話が、その願いを全て、消し去ってしまったようだな」

 事情を知る兎は、無理もないと思っている。

 そうならぬように、知られぬように動いたのに、それが全て裏目に出てしまった。

「負い目も、恨みの類と一緒で、我らには悪い障りになるからな。守る者の傍に寄れないと、そう考えたんだろう。その女を見て、男の方が一緒にいることを望めば、いずれはその悪さも抜けるだろうが……」

「それは、無理だ。エンは、女より弟分を取る」

 焦燥の色を浮かべながらも、戒がやけにきっぱりと言い切った。

「あの朴念仁がセイと秤にかけて、ミヤの方が傾くことは、ないに等しい」

「……そこまで言い切る? 好いた女の人、なんでしょう?」

「その、好いた男の忘れ形見なんだぞ、エンの弟分はっ」

 とんでもないことを言い出した男を、面々がぎょっとして見直す。

「ミヤがどんなに好いても、あの長旅で手を出そうとしないくらいだ、相当思い入れがあるんだろう。そんな奴の孫と秤にかけられて、ミヤに傾くなど、天地がひっくり返ってもありえんっ」

「そこまで、言い切るほどなのか」

 信じられないと呟いたのは、法力僧だ。

 すっかり毒気が抜けている法力僧は、小さく唸って考え込み、己の考えをゆっくり述べる。

「オレが言って、信じられるかどうか知らんが、一度地に落ちた獣を、一人で放り出すのは危険極まりない」

「信じる信じないは置いておいて、それは獣の道理としては妥当な考えだ。だから、あの生粋の狐を、逃がしたのは痛い」

「それはすまなかったとは思う。だが、取り逃がした後の取り組み次第で、後の障りを小さくすることもできるだろう」

 邪魔をした法力僧が、初めて素直に謝罪し、それを聞いた兎は逆に気持ち悪げに眉を寄せた。

 露骨な顔を睨みつけ、一つの考えを切り出した男に、二の主が首をかしげる。

 その顔を見返して、法力僧は静かに言った。

「あの娘に懸想し、連れ去って子まで儲けた時は、天にも昇る気持ちで、幸せだった」

 長く続けるはずだったその幸せを、粉々にしてしまいたい気持ちが湧いた。

「それに気づいて逃げた女は、賢明だったのだろう。逃げられたときに、諦めていればよかったと、今では思う。あの国に赴いたのは、女漁りをするためではなかったのに、何故、そちらに気が向いてしまったのやら」

 あの国に入ることにしたのは、獣や同族の間でまことしやかに流れる話が、本当なのか確かめるためだった。

 言い伝えの域の、大陸にいるはずの獣が、その国のある武家に仕えているらしいという、信じられない話だ。

「本当の話だったとは思わなかった。あの村にいる間、一度も会ったことがなかったから」

 しんみりと言った法力僧は、その時の思惑を吐いた。

「実は、その話の獣が武家に仕えているのなら、国を揺るがす事態になれば、炙り出せるかもしれないと、そう思ったのが女をかどわかした理由だったんだが……」

 村に泊まり込んでいた間に、気に入った女を手に入れて嫁にしようとは思っていたが、それは村に住み着くのを頭に入れての事だった。

 だが、その村では話は聞けど、直に姿を見たものが一人もいなかった。

 村を転々としてみれば、何処かで相まみえたかもしれないが、惚れた女のいる村を離れがたくなってしまった。

「それならいっそ、大事にしてやろうと女をかどわかしたはいいが、その後も、子を追って村に舞い戻った後も、出てくるのはどうでもいい奴らばかりで、国が作った話だったのかと思い始めていたんだが、まさか、本当にいたとはな」

 大事にして、怒ったその獣に食われてしまうのも、冥利に尽きると考えていたと語った鬼は、前に座る兎を見て小さく笑った。

「オレと、鳴海なるみの違いは、ここだ」

「言うほどの違いが、あったか?」

 見知らぬ名を言われても、兎は眉一つ動かさない。

 愛らしいはずの赤い目から、完全に情が消えている。

 自分よりもはるかに小さい男の、静かな怒りにのまれそうになりながらも、法力僧はひきつった笑いを浮かべた。

「大きな違いだ。あいつは、好いた姪っ子を、あちらから近づくように仕向けようとしているが、それは末永く一緒にいることを望んでのことで、その事が相手の怒りに触れるとは、露とも思っていない。だから、姪っ子の手にかかることは、良しとしなかったんだ」

 オレは、違うと男は言い切った。

「本当にあの獣がいるとしたら、逆鱗に触れるようなことをしては、命取りだと知っていた。知っていたからこそ、鳴海の話を真似たんだ」

 お尋ね者となった、己の子供の親族たちを連れて逃げたのは、あそこまで大事にしても、目当ての獣が出てこなかったため、やはりただの作り話だと踏んだためだ。

「あの村にも、オレを知っている者たちも、用なしになったからな。鳴海にくれてやろうと連れて行ったんだ」

「……姫を連れて行ったのは、何故だ?」

 やんわりと問われ、男はにやりと笑った。

「血筋は、濃く残したかったんでな。我が血を更に人間と混じらせるより、再び我が血を濃く残してやりたかった。鳴海の奴に、大人しい内は手を出すなと、言われてしまって我慢していたが。我慢しすぎて、食いつくしてしまいたくなってしまっていたが」

 だからこそ、娘が逃げるまで待ったのだと言われ、青くなって震えあがる許嫁を抱きしめ、浪人者は目を据わらせて鬼を見据えた。

 そんな若い男を笑い、法力僧は首を振った。

「そう睨むな。もうそんな気はない。お前を相手取ってやり合う気もない」

 今更、己の罪の経緯を話したのは、別な意図があると男は言った。

「ほう、とっかかりの話にしては、濃い話だったが。後で詳しく、聞かせてもらうぞ」

 未だ冷えた目のまま、兎が先を促す。

 籠った声に身を竦める馴染みの獣たちを背に、法力僧は言った。

「お前やあの獣のように、一つの場に囚われていると、仕掛けがしやすくなる。しかも、お前が感じたように、仕掛けられた者が、完全に責を負う形になってしまう。仕掛けて来た者を、すぐに消せる力を持つならば、憂いはすぐになくなるだろう。お前たちも、オレを消せば、あの方の憂いの元は、すぐに絶てると分かったはずだ」

「ああ。連れて戻るようにと、上からのお達しが来てしまったから、ここでは我慢しているが?」

 やんわりと言う兎に、鬼の後ろで蛇が大きく震え上がった。

 恐怖でなのか感激でなのか、定かではない震え方だが、娘の顔色が少しだけ血の気を帯びたから、怖がってはいない。

 群れると、何処かしらおかしくならないと、やっていけないのかと、戒は秘かに悩み始めていたが、次の鬼の言葉で我に返った。

「これをあの狐の混血に置き換えると、あの女はこの先、山に留まるべきではない」

 振り返る戒に、鬼が続ける。

「あの山だけではない、他の所でも、長く身を置くのは、障りがある」

「……」

「鳴海は、半ば狂っているようなものだ。姪っ子が山を下りても探し出して様子を伺い、落ち着いた先で徐々に馴染んで障りを起こす。ただ一人の女を手に入れるために。放っておけば今までのように、姪っ子にだけは、そのからめ手の段階に見つからぬように施しながら、同じような障りを齎すだろう」

 身につまされる……そんな顔をした兎を見ながら、鬼は続けた。

「だが、この島国全体だけの話だ。広い海を越えた国々には、いくら何でも行き来できない。土地勘がないところで、うまく馴染むかも分からないのに、故郷を飛び出すほど、鳴海は無謀でもない」

「つまり、矢張り件の群れに収まった方が、憂いも絶てるという事か」

「もしくは……」

 それが難しいから、弟分が嘆いているのだがと思う兎に、鬼はにやりとして更に言った。

「あいつが近づきがたいほど、強いやつの傍においておけば、流石に諦めるかもしれんな。そう、言い伝えとはいえ、恐ろしい獣を背後に仕えさせると言われている武家のいる、奇特な国に身を寄せていれば、生粋の狐も手は出せまい」

 意地悪く言われて目を見開く兎に、まずは戒が身を乗り出した。

「それがいいっっ」

 すっかり元気になった娘も、手を叩いて頷く。

「そうよ。そうしてもらいましょう。折角仲良くなったのに、あんな別れ方、心残りだったの」

「どうせなら、あのエンという人と、移り住んでもらったらどうだ? 旅をしているよりも、住み込んだ方が、色々と進めやすいだろう?」

「いずれ、私たちの子供ができた時に、あの人たちの子供がいたら心強いわ」

「こっ……そ、そうか。国に戻ったら、祝言の準備があったっっ」

 盛り上がり始める主たちの前で、兎が空を仰いで考え込んでいる。

 それこそ、奥歯に物が挟まったような治め方だが、未だどう心を落ち着かせるか分からない狐の混血を思うと、他の余計な不安は更なる障りになりかねない。

 それを阻むために、一旦国に身を寄せてもらうことを考えて、当主に相談してみるか。

 許嫁同士の二人が、愛らしく戯れるさまを見ながら、兎はその考えに傾いていたのだが……話は、意外な方向から収まることになった。

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