第7話

 森の中の開けた草むらで、胡坐をかいた若者と二人の男は、同じ目線で向き合っていた。

 兎の男の背後には、未だ目覚めぬ法力僧がおり、兎の隣に座る娘には呑気に話を聞いている心のゆとりはなく、肩をこわばらせているのだが、久しぶりに米が入った握り飯を口にし、後ろを気にしつつも食べることは止まらない様子だ。

 その法力僧が、いつ起きても大丈夫なように気を張りながら、ウノは静かに若者を見据えて言った。

「もう随分昔の話になるが、あれは、あなただろう? 先の村の山に巣くう鬼を、全て退治したのは?」

「全てじゃない。だからこそ、話が漏れているんだろう?」

 無感情に聞き返したセイは、若干嫌そうにしていた。

 経緯を想像できたウノも、苦い顔になる。

「取り逃した者が、周りを安堵させるために、大げさに話を流している、か」

「安堵させた隙を突き、再び近くに住処を構え、少しずつ己好みの思惑を植え付ける。オスの狐の考えそうなことだ」

 狸の僧侶が、再び水筒を傾けながらも、やんわりと続けた。

「あの辺りの話は、気にはなっていたが、鬼の数が多すぎての。僧侶が閉じ込めているのを幸いに、事を後回しにしていたのだ。そのせいで、更にあそこまで手が付けられなくなってしまっていたのだが」

「あれは、我ら獣が束になってかかって、ようやく納められそうなほどに厄介な奴らだった。だから、完全に静かになった時は驚いたものだった」

 獣二人は頷き合い、若者を見た。

「そのことについては、礼を言いたい。感謝の証として、古谷の御坊には、この辺りの獣の事を、逐一知らせておるし、もしもの時の助けは買って出る約束も、取り付けておるが、その後ろにいたお主にする話とは、また別であろう?」

 伺うような目で言われても、若者は嫌そうな顔を浮かべたままだ。

「上澄みを掬い去っただけで、そんな大げさにされても、こちらは後ろめたいだけだ」

「その上澄みだけでも、大助かりだったからこそ、言っているんだがな」

 大きく育ってはいるものの、まだまだ幼い様子の若者に、獣二人はのどかに笑い合った。

 そして、すぐに真顔になる。

「先程は、歯の奥にものが挟まった物言いになってしまったが、話をぼかそうとしただけで、噓を話していたわけではない」

 ウノの真顔な言葉に頷き、源五郎も言った。

「どうやらあの二人、先の村の話も、詳しくは知らぬようだ。それでは、こちらの懸念も、分かっては貰えぬだろう」

 分かって貰えなかった頼みが、先の言葉だった。

「あなた方の話の中で、気になったことはいくつかある。エンとオキが向かった先で、あなたの主の方々が鉢合わせたのは分かったが、戒を連れ去ろうとして雅さんを害したのなら、あなたがそんなに悠長にしているはずがない。間違いなく、その主の方々は今、命の危機に瀕しているはずだから」

 セイの無感情な言葉に頷き、ウノは真顔で言った。

「オキは知っているのだろう。その雅と名乗る狐の混血が、誰と誰の子供なのかを。我が連れ合いもいるのだから、話し合いで事を収めようとするはずだ。あの娘を害するなど、あり得ない」

 なぜなら、その連れ合いも雅の両親を知っていると、兎は言い切った。

「だから、脅すだけで済ませるような、半端なことをするのが、気になった。一体、何をどうしたら、そういうことになったんだ?」

 本気で分からないと首を振られ、ウノは少し考えてからきっぱりと言った。

「あの山に住んでいた混血の狐は、二月前からいなかった」

 正しくは、戻ってすぐまた、いなくなった。

「件の賊に、連れ去られた」

「……」

 若者が倒れたままの法力僧を一瞥し、無言のまま兎を見た。

 それを促しととり、ウノは続けた。

「この法力僧が、件の狐と顔見知りなのは、本当に偶々だが、件の狐がこの辺りに腰を据えたのは、偶々じゃない」

 ただ、舞い戻っただけだ。

 ほとぼりが冷めたと、そう思っての舞い戻りだ。

「……」

「術師を抱き込んだのは、あの山を薄く覆う守りを、完全に破るためだろう。我らにはさほど害はないが、力をなくした狐には、近づく事も苦しいだろうからな」

 同じような獣が縄張りにしている山に、好き好んで入る力を持つ獣は、あまりいない。

 力をつけたい獣や、縄張りを取りたいものならばそうでもないが、あの山はそういう輩に狙われるほど豊かでもないから、人が無暗に入って来れぬ壁だけで、たとえ無人でも無事だったのだ。

「あの壁は、悪意のある人間をはじくものだ。勘の鋭い者ならば、その壁の弱いところを探し出して、入り込むこともあるだろうが、それも時がいる。賊が近くに住み込んでいながら、二月前までその山に入らなかったのは、そのせいだろう」

 それなのに、何故二月前に、山に入り込むことになったのか。

「先程話した、狼の混血の娘を助けたことが発端のようだが、それも仕組まれておったやもしれん」

「……舞い戻った狐に、か」

 ぽつりと呟いた声は、あくまでも無感情だったが、力のある獣二人が底冷えするほどの重みがあった。

「この辺りの地は、元々雅さんの母上が縄張りとしている地だと、そう思ってる。娘であるあの人が、戻る地でもあると」

「儂も、そう聞いておる。故に、所帯を持った時も、山を下りた時もその旨が伝えられた。まあ、娘が山を離れたのは知らなんだが、一時期の事だから知らせるに及ばぬと思ってのことだろう。わしも、気にしてはおらんかったからな」

 僧侶が重々しく頷き、更に重い口で続けた。

「あくまでも、その親子が、あの辺りの主であって、ただの親戚の狐が、頭を突っ込む話ではない」

「でも、あなた方は、舞い戻ったと言った」

 静かに返す若者に、身を固くしながらも僧侶が答える。

「それは、儂等やお主が預かり知らぬところで、その狐がそう宣っているらしいから、分かりやすく言っただけじゃ。近くに、そうと分かる跡が、未だに残っておるから、話す分には分かりやすかろう」

 ある山に、大きく残る跡。

 あれを残さず消すのは、長い歳月がいる。

「狐は元々、好いた者に対する執着心が強すぎることで、知られている。特にオスは、数が少ない分自尊心が強く、手に入らぬ者を執拗に追い求め、追い詰めていく傾向がある」

「そのやり方はそれぞれだが、件の狐はどうしても、からめ手で捕まえたいようだ」

 周りの地を騒がせ、困った娘に頼られる形で、捕まえたいとそう考えている。

「……何故、そう言い切れるんだ? 先の村の事も、あの山の事も、オスの狐一人に頼ったところで、どうにも収まらない話なのに?」

「ああ、そこだ」

 兎が苦笑しながら言い切った。

「他の国がどうかは知らないが、この国のオスの狐は、腕力があると言われているんだ。頭が足りない代わりに」

「え?」

 目を剝いたのは、握り飯に夢中になっていた娘だった。

「狡猾な獣だって、聞いたことがあるけど」

「それは、どちらかというとメスだな。勿論、数が少なく、何処にどれだけのオスがいるのかも、知られていないから、それが正しいのかもわからないが、少なくとも、オレが会ってきた生粋のオスの狐は、自尊心だけが高い怪力男だった」

 力を更に高めるために、別の種の獣を襲うことも多く、元々兎の里にいたウノは、何度か追い払った事があると言った。

「同族の縄張り争いや、同族を守るための他種との争い以外では、獣同士での人間の戦のような争いは、禁忌の行いにあたる」

 だから、襲ってくる天敵以外は、気にも留めておらず、このくらいの事しか分からない。

「この国の獣には知られた話だから、恐ろしい強さを持つ鬼が、近くの山に巣くっている、しかも、自分の兄弟たちを捕まえていると知れば、力のない混血の女は、自分を頼ってくると思ったんだろう」

 実際は山下の村が、妙な儀式を始めてからずっと、雅はそちらに心を砕き、近くの山の異変などに、気を向ける間はなかった。

「それに気づいたからなのか、元々更なるからめ手のつもりだったのかは分からないが、本格的に件の村に住み着いたのが、あの山から命からがら逃げた後だ」

 どちらかというと、命からがら逃げるしかなかったから、既に馴染んでいた村に、身を潜めたというのが本当のようだが、それは良い頃合いとなった。

 混血の娘が、業を煮やして動き始めた頃だったから。

 さらに都合のいいことに、仲間たちの恨みを一身に纏って鬼と化した男が、ふらふらと村の近くを通りかかった。

 村の男衆が、狂い始める前兆が村に巣くった時期と、狐を取り逃がした時期が、偶々重なってしまった。

「……」

「あなた方が、あの鬼を退治してしまったのは、大誤算だったんだろう」

 無感情に黙り込んだ若者を見ながら、ウノはもう一つ予想をしていた。

 鬼を無事、退治した後の話だ。

「ロンの旦那も、あの娘の親に思い当たっていなかったところを見ると、あなた方は鬼を退治した後、すぐに村を出たんだろう? 村やその娘とは、それ以上かかわる気は、なかった」

「うお、そこまでやったのか」

 狸が低くうなるが、兎は小さく首を振った。

「いや、それも、思惑通りにはいかなかったな。でなければ、今まであの狐がこの近くをうろついていないはずがない。いくらなんでも、女衆まで手にかけることも、しないだろう」

「……私たちが去った後の山狩りも、その思惑に則っていた、と?」

「あの戒という男、あの時にはもういたんだろう? 年代的にまだ子供のころだ。村の者が、その子供を手にかけた頃を見計らい、助けに入る気だったんだろう。村の者を、皆殺しにして」

 所謂、口封じだ。

 そんな思惑は、それに気づいた旅人の一人によって、ぶち壊されたが。

「オスの狐のわりに、随分手が込んでおるの。それだけ、その娘に執心しておるのだろうが。だが、ありうる話だ。あり得るからこそ、今度こそ、逃がしてほしくないのだ」

 唸っていた僧侶が、手に握ったままの組ひもを見下ろしながら言った。

「この組紐を、狼の混血が持っていたのは本当だが、その娘から取り上げたものではない。別な者から、借り受けて来たものだ」

 同じものを持っていたのは、狼の混血以外にも、三人いた。

 どうやら一本に編まれた組紐を、四本に切り離して分けたらしいと言われ、目を見開いた若者に薄く笑い返し、源五郎はその三人の名を告げた。

「わが集落に身を寄せた三人でな、望月千里という女武芸者と、我が同胞の娘二人だ。二月前に集落に辿り着き、今では馴染んでおる」

「……二月、前?」

「そうじゃ。恐らくは、獣を的にすると決めたのは、この為だ。狐の混血の娘と、旅の道連れで連れ立っていた女武芸者がいるわが集落に、災いを齎す気なのだ」

 あわよくば、それを狐の混血の手で、行わせる気だと言い切った狸に、セイは眉を寄せて静かに尋ねた。

「何故だ?」

「それは……」

「嫉妬、だろう」

 言い淀んだ狸の代わりに、兎がきっぱりというと、セイは目を瞬いて呟いた。

「しっと?」

「何で、いきなり片言なんだ?」

「それは、雅さんをすいているという、その狐の心の内の話だというのは分かるけど、それが、何故、その人の集落を襲う事になるんだ?」

 聞き返し方のたどたどしさに、思わず兎が声を出したが、セイは構わず尋ねた。

「……好いているという言い方も、片言に近いが。まあ、それは後にしよう。女武芸者とその雅とやらが、随分仲良くなっているのが、気に食わなかったのであろう。好いた女を、独り占めしたいという欲が、そうさせておるのだ」

「成程、しゅうしんとは、それか」

「……」

 無感情に頷く若者を見て、二人の獣は顔を見合わせた。

 無言で目を交わし、その思いが同じと察する。

 どうやらこの若者、人間より長く生きている割に、色事の話は分からないようだ。

 頷く若者は独り占めの意を、手元の漬物の入った小さな壺を見下ろしながら察しているから、それで間違いなさそうだ。

 話す事に障りがないならば、そのまま進めようと咳払いし、源五郎が真顔になった。

「儂らの集落は、ほぼはぐれ者ばかりが寄り添ってできた集まりだ。修羅場から命からがら逃げて来た者も多い。狐の思惑がなされるか否か以前に、そういう面倒ごとは、受け付けたくないのじゃ」

 襲う気配が見える今、早めに大本を退治してほしい。

 それが、老僧侶の頼みだった。

「あなたの連れ二人は、私の連れ合いと共に件の集落に入りました。私としては、混血の狐と生粋の狐を、引き合わせたくない」

 生粋の狐が、身の危険を感じたからと集落から去ることは、期待できない。

「あの手の者は、何処かで画策の紐解きをしたがるものだ。正体を知りたがっている混血の娘が、自分から会いに来るのを、楽しみにしていることだろう」

 雅が生粋の狐の正体に気付き、どう動くかは分からない。

 衝撃のあまり、全ての柵を手放し、生粋の狐のもとに行くか、怒りのあまり血の繋がった狐を手にかけることを選ぶか。

 どちらに転んでも、後味は最悪だ。

 だからこそ、兎は深々と頭を下げた。

「三人が娘を助けている間に、あの狐を打ち取ってほしい」

「……」

 顔を上げると、狸が怪訝な顔つきになっている。

 若者の方も僅かに眉を寄せていたが、やがて頷いた。

「すぐに向かいたいが、その娘さんはどうする?」

「ああ、そろそろ……」

 兎の隣の娘に目を向けると、ウノがそれに答えようと口を開いたが、その前に答えが来た。

 小さなすり音が聞こえ、娘に滑るように近づいた小さな蛇が、そのまま膝に乗ってとぐろを巻く。

 白く細いその首をもたげ、隣に座るウノを見上げた。

「その鬼は?」

「このままでいい。こいつには後で、きっちりと礼をしたいんでな」

「分かった」

 不服そうながらも頷き、小さな蛇が初顔合わせの若者を見上げた。

 蛇と若者が目を合わせたのを見て、先の言葉を続ける。

「このミノに、主のもとへ送り届けて貰う。鬼は、このままでもいい。あの狼の打ち身が効いているし、動きは封じて置いた」

 主や娘を狙わないのならば、今は逃げられても構わないと思っている兎に、セイは首を傾げつつも何も言わず、無感情に言った。

「それでいいのなら、こちらも何も言わない。では、案内を頼む」

 娘が蛇に連れられて立ち去るのを見送り、件の集落に向かう道すがら、当の集落に作った壁の事や雅の様子、鬼を領地に連れ帰らない理由まで、獣二人は代わる代わる話してくれたが、腰を据えて話した方がいい話ばかりだった。

 それを指摘すると、兎は真顔で首を振った。

「鋭いことを、姫がいる場で言われたくなかった」

「特に、壁は……。集落にも、こ奴らと来た獣にも、血の気が多いのがいるのだ。儂も探ってみて気づいて、こ奴を問い詰めたが、まあ、致し方ない所業じゃった」

 匂いで集落の様子を探れぬよう、壁を作ったという兎に呆れつつも、それが正しかったと思っている狸のとりなしだったが、セイは別なことが気になった。

「壁よりも、雅さんが、乱心していないっていうのは、早めに教えてほしかったな。エンが怒ったのも、徐々に乱心していく雅さんを、そのままにしていたと思ったせいだと思うけど。それに、本当に逃がす気か、あの鬼。あんたの私怨で、更にどこかで障るかもしれないのに」

 そんな不服も、丁寧に言い訳が返る。

「姫の前では、その話こそ難しいだろう。女心は、意外に難しいんだぞ。知り合いの女がひどい目に遭っているのを知っているのに、乱心したと言うのも言いにくいが、全然平気だったなどとも、言いにくいだろう」

 鬼の方は、逃がしておいてすぐに後を追い、己の手で退治すると言い切る兎を見て、狸が苦笑いする。

「兎も、自尊心が高いからな。狐と一二を争う醜悪さじゃから、あの鬼も災難じゃの」

「……逃げるとは、限らないと思うけどな」

 盛り上がる獣たちを見ながら、セイがぽつりと言ったが、その意を問う前に件の集落に辿り着いた。

 真っすぐ奥の住処に入り込んだ三人は、すぐに合流したオキと共に、そこにたむろしていた男衆たちと乱闘を繰り広げた。

「すぐに離れるように言っておいたが、奴らが聞くとは到底思えん」

「お前らが、脅し過ぎたからだろうが」

「そうじゃない。誉のいうことを聞かないからではなく、誉が分かってないんだ」

「?」

 血なまぐさい中で兎と猫が交わす言葉を聞きながら、セイは久しぶりに会う男を見据えていた。

 成長しても小さいと悩む若者よりさらに小さな、細いあどけない娘に見える姿の、年かさの生粋の狐。

 その顔に余裕はなく、ひきつった顔で若者を睨んでいた。

「お前、また私の邪魔をするのかっ」

「されたくなければ、場所を考えたらどうだ? 何故、舞い戻ることを選ぶ?」

 喚くように言う狐に、セイは無感情で返したが、うんざりとしたものが声音に見え隠れしている。

「三度目だぞ。あんたにこんな形で会うのは。どの時も、追い詰めるだけ追い詰めてるのに、何で、懲りない?」

 真っすぐすぎる問いに、激高した狐は答えない。

 代わりに、ひきつった笑みを浮かべたところを見ると、まだ悪あがきする気らしい。

 何をするにしても、そんな暇は与える気はないセイは、話し合いはそこまでにして、さっさと済ませることにした。

 だが、遅かった。

 いや、こちらの騒ぎに気付くのが、早かったという方が正しい。

 締め切ったはずの戸板が開け放たれ、そこに立った男が呆然と呟く。

「セイ」

 軽く舌打ちするオキの横で、空を仰ぐウノは、呟く女の言葉を聞いた。

「叔父、上?」

「は?」

 間抜けな声を出したのは、女の横に立つ男だ。

 どういうことだと兎の方を見る誉に答えたのは、若者と相対していた娘だった。

「おう、我が姪よ。よく来たっ。さあ、早く私と共に、こいつらを……」

 勝ち誇った顔で呼びかけた娘を、雅は呆然と見つめ、若者の方に目を移す。

 振り向かないセイに、震えた声で呼びかける。

「これは、どういうことだ? 私は、ここに賊と手を組む醜悪な狐がいると、そう聞いて……」

「醜悪とは、ひどい言い草だな、我が姪よ。こうでもしないと、お前が私に甘えてくれないから、仕方なく甘えやすくしてやったというのに」

「……」

 あっさりと言った狐を、若者は無感情に睨んだ。

 黙ったままのその目にひるみ、声高に姪を呼ぶ。

「我儘はもうここまでだ、我が姪よ。私をヤキモキさせるのは可愛いが、そろそろ我慢も切れそうだ。素直に私の手を取り、こいつらを共に退治しようっ」

 言い切る言葉は、雅にとって意味不明だった。

 ただ呆然と立ち尽くす女をかばうように立ち、エンが穏やかに呼びかける。

「……話が見えないのですが、確かなんですか? 雅さんと、あなたが親戚というのは?」

「何だ、その名は。まだ、名をつけてやっていないのに、何故名乗っている? 我が姪の名は、私が付けるのだ。あんな藪医者のつけた名など、何の意味もないだろうっ」

「……何故、あなたが、私の名付け親を、医者だと知っている? 確かに、卵とはいえ、医者だったけれど」

 優しい笑顔になった雅が、静かに問いかけ、セイを見た。

「あなたが、教えたのか?」

「ふん、何故私が、その者に教わらねばならんっ。私は……」

「あなたには、聞いてない」

 狐の喚くような答えを、雅はきっぱりと遮り、若者を見たまま続けた。

「あなたが、教えたわけではないとしたら、そういうこと、なのか?」

「……」

「この人が、あの村も、あんな風に変えてしまった、のか?」

 ようやく叔父を見た女に、狐は笑いかけて頷いた。

「お前が、私にきちんと思いを伝えられるように、色々と用意してやったんだぞ。ようやく、それに気づいたか。本当に鈍いぞ。そこがお前の可愛いところだが」

 目を見開くエンの背後で、雅が笑った。

 力の抜けた声で、吐き捨てる。

「……最悪だ」

 ふらりと男の影から前を進み出、叔父の元へと歩み寄る女に、思わずエンは手を伸ばした。

「み……」

「よく来た、我が姪よ」

 大きく腕を広げて待ち構える狐の傍に来た雅は、そっと両手を叔父の方に伸ばしたが、その前に邪魔が入った。

 狐の襟首をつかみ、そのまま拳で殴り殺そうとする手首を、セイが寸での所でつかむ。

「放せ」

「あんたは、山に戻れと言われたんだろう。さっさと帰れ」

 同じくらいの目線で、二人が睨み合う中、セイはそのまま狐の襟首をつかむ雅の手を引き離した。

 後ろに大きく後ずさった狐の前に、兎の男が立ちふさがったのをしり目に、女は立ちふさがる若者を睨み続ける。

「何故、邪魔をするっ? こんな奴、生きているだけでも障りがあるだろうっ。……いや、私も、そうだ」

「雅、落ち着け」

 無感情に、初めて呼び捨てした若者にも力なく笑い返し、首を振った。

「駄目だ。そいつを殺して、私も死ぬ。すまない。あなたの元に戻る約束は、もう果たせない」

「雅さん、落ち着いてください。これは、あなたの咎では……」

 後ろから、エンに肩をつかまれても抗いをやめない雅を見据え、セイは無感情にため息を吐く。

「今のまま何を話しても、無駄だな。頭を冷やせ」

 言った途端、目の前の二人が姿を消した。

 オキの影にいた源五郎が顔をのぞかせ、目を剝く。

「その後はそのまま、傷をなめ合って慰め合って、さっさと二人で幸せになってくれ」

 目だけでなく、口まで大きくあけ放つ狸の横で、オキは首を傾げた。

「無事に、頭を冷やせるか?」

「大丈夫だろう。雅さんの山の川に落ちるはずだから。ああ、でも」

 無感情に答えたセイが、ふと考えて天井を仰いだ。

「生きたものを、二つも別の場所に捨てたのは初めてだから、肉片になってなきゃいいけど」

「……後で、確かめに行ってくる」

「頼む」

 やれやれと首を振る猫は、唖然としたままの僧侶を見下ろす。

「おかしな奴だろう? 色事には全く無知の癖に、ああいう言葉はうまく使うんだ。いわゆる耳年増だな」

「……それに、驚いていたわけでもないのだが、確かに、うまく使ったの。あの二人、傷が至る所にありそうだからな」

 もう二人も、そういうところがあるようだがと、振り返った先に、黒い壁があった。

 二人の男女を飛ばしたセイが、そちらに気を取られていた僅かな間に、こちらでも修羅場があったのだ。

「……何があった?」

「ああ、まあ、色々、な」

 いつの間にか、ただでさえぼろかった小屋が、ほぼ崩れて全員が外にいた。

 なのに立ちふさがる、黒い壁。

 それは、艶のある黒い鱗を光らせた生き物だった。


 すべての苦労が水の泡と化したと、ウノはそう感じた。

 混血の狐と引きはがされた狐は、大きく後ろに下がり逃げ場を探し始めていた。

 味方と思っていた姪っ子が、完全に命を取る方に気を向けたのを知り、ようやく撤退することにしたらしい。

 そうは問屋が卸さないと、兎が逃げ場を抑えようと動いた時、狐の後ろの壁が、外から蹴り破られた。

 埃が舞う中に立つ大きな男を見据え、ウノは笑ってしまった。

「ああ、そういう事もありえたか」

 気休めの呪いで動きを封じ、あえて放ったらかしにしていた鬼が、狐を背にかばって立っていた。

「よくやったぞ、鬼」

「ああ。先に逃げてくれ」

 しゃがれ声で狐に呼び掛けた鬼は、兎を鋭く睨んだ。

「こいつだけは、今の内に食い殺す」

「今の内は、こちらの台詞だ」

 笑いながら言葉を拾い、ウノは赤い目で鬼を見据えた。

「お前だけは、どうあっても消さねばならない」

 何かを口走られる前に。

 それが、今の連れ合いに聞かれる前に。

 捕り物があった村での深追いは、国の大事になるからと泣きつかれて、止められた。

 言い訳を作って国を出、二の主の影で行方を捜し、ようやく捕まえて己の手で仇を返せると、兎は少々浮足立っていた。

 当主と共に家を守る連れ合いの代わりに、件の村の捕り物を手伝ったウノは、その数年前に元凶の男を手にかけた。

 証が残らぬように気を付けたのだが、鬼には気づかれていたようで、初めて顔を合わせた捕り物の時にも、狙いを定められていた。

 驕り、というよりも、油断が、あの失態の原因だ。

 鬼に気を取られている僅かな隙にかけられた弱い呪いが、一瞬だけ老練な兎の動きを縛ったのだ。

 その一瞬が命取りとなるほど、やわな体をしていないつもりだったのだが、足腰の骨に響いたらしく、役人や他の式神の面前で、無様に倒れ込んでしまったのだ。

 すぐに起き上がって、深追いと称して姿を隠そうと試みたが、傍にいた役人が泣きながら縋り付いてきた。

「我々は、誉殿に嘘は申せませんっっ。大怪我をしたあなたを、このまま行かせたとあの方に知れれば、国を滅ぼされてしまいますっっ」

 大げさなと思いながら、ふと考えた。

 命の恩人と生き別れになり、完全に消沈していた風変わりな獣に、寂しくなったらいつでも行ってやるからと、気楽に持ち掛けたのは兎の方だった。

 呼ばれたような気がして傍に戻ってきて数十年、草や根、木の実を食べる獣のわりに、武家の家柄の中で重宝されてきて、居心地が悪くなってきていたのだが、この時気づいた。

 もしやあの連れ合い、自分がお役目と称して国を離れている間、何かやらかしていたのか?

 戻って来た時の当主や家の者の態度と、誉のいつになく有頂天な様子が思い出され、お役目を言い訳に気晴らしに国の外を放浪していたウノは、最近、そのお役目も近場になっている理由にも、気づいてしまった。

 主たちや式神仲間にも固く口留めし、その時は屋敷に戻ったのだが、これは、応急の対応だ。

 己の不注意で、普段ないほど体に傷を負ってしまったのは隠しようがなく、いずれは口止めしていた主たちも、不審に思った誉の脅しに屈して経緯を吐いてしまうだろう。

 だから、捕り物の最中、無様に転んでしまってこのざまだと、軽く笑い話にして離れに籠ったのだが、その言い分も不味かったらしい。

「……あなたを連れ歩くのは、もうやめろと、そう言われたんだが。あの言い訳は、藪蛇と言うのでは?」

「自分で墓穴掘って、捕らわれの姫になっちゃあ、笑うしかないよな」

 散歩がてらに繋ぎを取っていた狼の言葉と、続く二の主の揶揄いに、言い返せない。

 国内では、誉の意に沿う人間がいたるところにおり、その目に付きまとわれていたウノは、言い返す力すらなくなっていた。

「……やはり、これしか道はないな」

 二の主が、重々しく告げた。

「オレと、駆け落ちしよう、ウノ」

「……気でも触れたか?」

「仮にも主に、なんてことを言うんだ、あんたは」

 怪我とはかかわりないやつれ方をしている兎に、二の主は真顔で言った。

「確かに命懸けだ。あんたを慕いすぎる誉が、オレなんかと逃げたと知ったら、オレはきっと死ぬ」

「分かってるじゃないか」

「だが、あんたがこんな見張られ方するのも、おかしいだろう? オレとしても、こんな私事を相談できるのは、あんただけなんだ。子供の頃から、頼りにしている」

 だが、身柄を縛ることはしたくないと、二の主は言い切った。

「誉も、少しあんたと離れたからって、様子がおかしくなるのは不味いだろ。あんたがいない時に、下の者が陰口を言ったからって、何も本来の姿に戻って、家壊して食わなくても……」

「いや、危うく食いそうになっただけで、全力で止めたぞ」

 思わず口を滑らせた二の主を遮り、狼が慌ててそう宥めたが、兎は頭を抱え込んだ。

「それは、いつもか?」

「いつもじゃない。今では、あんたは唯一、誉殿の心のよりどころ、と知られてるから、寧ろ重宝されてるだろ? だから、今は落ち着いている」

「なら、駆け落ちという言い訳は、不味いだろう。逃げて行きついた先もそうだが、黙って見送った国も、食いつくされるかもしれない」

 怖い想像だが、ないと言い切れない。

 狼は無言になってしまったが、二の主は少し考えて言った。

「国には、式神たちの駆け落ちと話を流して、あんたには同行してもらうことにしよう」

「?」

「伝達を一緒に連れて行って、誉に文を書いて送ってやれ。オレの許嫁の事を、正直に話してくれてもいい。どうせ、周知の事実だから、今更オレの名に障りは出ないから」

 まずは、国を出る言い訳から必要なのだが、二の主は軽くそう言って笑った。

 お尋ね者の残党の行方と、二の主の許嫁の行方が、この時には分かっていたのは幸いだった。

 それを言い訳に、国を出ることを許された。

 式神同士の駆け落ちが、自分と誰かとされているのが少々解せなかったが、誉には療養も兼ねての探索と言いつくろい、文で頻繁に繋ぎを取っていたため、大事には至らなかった。

 旧知の狸の集落に身を寄せ、永らく我慢を重ね、ようやく仇を返せる。

 命じられたお役目は、この法力僧の孫にあたる男を、国にいったん連れ帰ることであって、お尋ね者の生死は問われていない。

 知らせていないから、当たり前だ。

 だからこいつも、国での刑罰を受けさせず、闇に葬れる。

 つまり、誉と顔を合わせることもない。

 全ての鬱憤を込めて、鬼を睨み返したとき、突然あばら家が粉砕した。

 屋根が崩れ落ち埃が舞う中目を細め、足を踏みしめて立つ兎の頭上に、黒い大きな影がかかる。

 見上げた先に、白く細長い胴体があった。

 細長いそれは、屋根を埃ごと体で振り払い、山林の中に放り投げると、何が起こったのか分からず立ち尽くす鬼と、その大きな体を唖然と見やる兎の間に体を割り込ませた。

 とぐろを巻いて完全に兎の体を隠すと、黒々とした鬣をなびかせる、蜥蜴のものに似た頭をもたげて、鬼に目を向けた。

 白い腹と違い、黒い艶のある鱗を纏うその体は、背丈の低い兎を立ったまま覆い隠していた。

 鬼を見据える黄金色の瞳は鋭く、怒りに満ちている。

「お前か。お前が、ウノを、怪我させたのか」

「な、何で知ってるっ?」

 思わず兎が叫んだが、すぐに気づいた。

 始終、当主の傍にいるはずの誉が、些細なお役目に出てきているのは、当主が許したからだ。

「……一坊、何を考えてるんだっっ」

 元服した立派な当主だが、老練な兎から見ると、まだひよっこと同じだ。

 ついつい、昔の呼び名で毒づいてしまった。

「当主を責めるな。城を壊して殿を襲われるのと、どちらがいいかを選んでいただいた結果だ」

「お前っっ。比べるものが、違いすぎるだろうがっっ」

 力の限り喚くウノに構わず、突如現れた巨大な獣は、少しだけ体を浮かして前足で兎に触れる。

 鋭い爪が、兎を傷つけぬように気を付けながらの、優しい仕草だ。

「あまり怒ると、頭から血が噴き出るぞ」

「なら、怒らせるなっっ」

「叫び過ぎたら、喉を潰してしまう」

「だから……」

 真面目な窘めに、更に怒鳴ろうと息を吸い込んだ兎の顔を覗き込んだ。

 その目が潤んでいるのに気づき、思わず吐き出そうとした言葉が消える。

「頼むから、ここは俺に任せてくれ」

「っ」

 真摯な言葉が、一瞬だけウノを躊躇わせてしまった。

 蜥蜴に似た顔をした巨大な獣は、頭をくねらせて鬼に向けた。

 立ち尽くしたまま目を剝き、動けなくなっていた法力僧を再び見据え、ゆっくりと言う。

「ウノを食い殺すと、そう言ったな?」

「あ、あんた、まさか……」

 呟く鬼は、己の目が信じられないと首を振り続ける。

 そんな相手のうわ言に構わず、獣は己の言い分を吐き捨てた。

「なら、自分が食い殺されても、文句はないだろうっっ」

「って、待てっっ。そんなばっちいもん、口に入れるなっっ」

 鬼に頭を突っ込んでいく獣の声と、我に返った兎の制止の声が、ほぼ重なった。

 そしてもう一つ、ボコッ、という奇妙な音も。

 鬼に食らいつこうとした獣の頭が、突然横倒しになって倒れた。

 それと同時に、体も溶けるように力なく倒れ込む。

「? ?」

 とぐろを巻いた中にいた兎は、その体から抜け出して獣の倒れた頭を探し出す。

 薄く埃が舞う中、大きな獣は白目をむいて、失神していた。

「? おい?」

 何が起こったのか分からず、呼びかけるその頭上から、無感情な声が落ちてきた。

「追いつくかな」

「ちと、乗り越えると決めるのが、遅かったやも知れんな」

 同じように頭上から落ちてきた声が答え、無感情な声が上に向けて声をかけた。

「無駄だろうけど、追ってみる。後は頼む」

「分かった」

 もう一つの声が、巨大な獣の頭の傍から答えた。

 そちらに目を向けると、呆れた顔の顔見知りがいた。

「こいつの怒りも分かるが、うちの主の邪魔は、せんでほしいんだが」

「……ああ、すまん。あの狐を逃がしてしまったな。流石に逆鱗に触れたか。あの娘に手を出したんだ、当然だな」

 力なく謝る兎を見つめ、オキは首を傾げた。

「いや、逃がしたのは痛いが、怒ってはいない。だが、そうだな。あれは、逆鱗だったか」

「?」

 何やらおかしなことを言った猫が、倒れた獣を見ながら続けた。

「さっき、こいつがもたげた首元に、逆鱗を見つけてな、行く手の邪魔な上に、にょろにょろ動いて飛び越えにくいと言って、うちの主が、足蹴にした。」

 この獣の逆鱗は、喉仏にある。

 それを思い出すのに、一瞬間があった。

「っ! 誉っっ、息をしろっっ」

 悲壮な声で獣の頭にしがみつくウノを、オキは感慨深い思いで見つめた。

「……やっと、連れ合いじゃなく、名前で呼んだな」

 うんうんと頷いてから、獣の体に吹き飛ばされて、柱だけ残った屋内から外に出、探索を始めた。

 物干しに使っていたらしい長い竹を一本、肩に担いで戻った時には、逆鱗の鱗のへこみを何とか元の形に戻し、息をし始めた獣に安どしている兎がいた。

 安心したら、猫の動きに気付く。

 竹の先を、己の剣で削っているオキに首を傾げると、それに気づいた猫は何気ない様子で尋ねた。

「お前、誉を兎と説明したのか?」

「? あの坊やにか? いや。連れ合いとしか言ってない。勘違いはされたが」

「そうか。聞き違いではなく、勘違いか」

「?」

 話が見えない兎に、オキは短く言った。

「誉を見た第一声が、兎と聞いてたけど、鰻の聞き間違いか、だったんで、お前がそんな見え透いた嘘をついたのかと、呆れてしまったんだ」

「鰻でもないが?」

 ますます話が見えないウノに、オキは何度も頷きながらも、手は止めない。

「血は繋がらないが、兄弟同士、考えることは一緒なんだよな、あいつら。特にセイは、江戸の殿が身分隠して通っている料理店に、知り合いに連れられて行ったことがあるんだ」

「……?」

「怒りが続いていなければ、いいな」

 そのもしもの為の下準備が、細長い竿で作った竹串だったが、オキはそこまでは言わず、昔馴染みに笑いかけただけだった。

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