第6話
石川家の面々と戒を山の住処に残し、エンとオキは誉と共に集落の入り口まで来ていた。
もう日が高く、今の時期は収穫の季節なのに、寂れた土地には人影が見当たらない。
「夜、動いてるのか?」
「いや……恐らく」
不自然なほどに静かな集落を前に、賊ならばそうなのかと呟いたエンの言葉を、誉が言いにくそうに受けた。
「殆ど、いなくなったんだろう」
何故、と訊かれては更に答えにくいが、それでも正直に答える男を振り返り、エンは穏やかに尋ねる。
「……今、どの位住民がいるのかは?」
「力のある男数人と、件の法力僧と狐、だと思う」
「思う? はっきりとしていないのか?」
「さっき、狼が言っただろう、匂いすら術の壁で遮られていた。だから、村抜けした数で何人かの想像はつくが、はっきりとはしていない」
オキの眉を寄せた不満に、誉も顔を顰めて返したが、相手はそれで得心しなかった。
「鼻は利かずとも、耳は健在だったんだろうが。さてはお前、聞きそびれたな」
喧騒の声で、人の数位が分かる兎が、それを知らせないはずがないと言われ、その通りだと知る男は、言葉を詰まらせた。
「余りに疲れた顔だったんで、そちらが気になって、話は半分しか聞いていなかった」
目を泳がせて呟く誉に、オキは空を仰いで首を振った。
「隠居は、まだまだ先だぞ、ウノ」
自分が知る限り、かなり年齢を重ねている兎の今後を、思わず嘆いてしまいつつも、元主の弟の背中を見やる。
いつもと変わらぬ様子のエンだが、黙ったまま一つのあばら家を見つめていた。
戒が向かった時と変わっていないのならば、未だに雅はあそこにいる筈だ。
助けるつもりでここまで来たが、それが雅の本意なのか、今では怪しい。
「……」
それを恐れているのか、エンもあばら家を見据えたまま、動かなかった。
連れて来るべきではなかったかと悔いながら、オキは男にそっと話しかける。
「……先に、オレが入る」
「いや、オレが行く」
意外に、はっきりとした答えがあった。
こちらが躊躇っている内に、エンの方も覚悟が出来たのだ。
振り返った顔は、少しだけ気が張っていた。
「だから、もし、オレがあの人に魅入られて動けなくなったら、ここに火をつけて、そのまま逃げろ」
「出来るか。その時は、力づくで目を覚まさせる」
「お前まで取り込まれたら、誰があの子を守るんだ?」
睨むように見つめられ、オキはいささか険しい目つきになった。
「死ぬ気で行く位なら、その先を見て行け。雅を、正気に戻す気でな。でないなら、ここから動くな。どうしても、死を覚悟していく気なら、ここで寝て待て」
剣の鍔に指を掛けながら言う男に、エンが初めて顔を歪ませた。
仲間割れに似た空気の中、二人を交互に見た誉が、咳払いして切り出した。
「オレが、行こうか?」
「……」
目を見開いたエンと、何とも複雑な顔をしたオキが見る中、大木のような男は取り繕うように続けた。
「斥候の真似事をして来る。それで人数も、分かるだろう?」
「やめとけ。お前、そんな柄じゃないだろう」
張り詰めたものが解け、オキが溜息を吐き、まだ顔が強張っているエンを見た。
「分かった。もし、お前も雅も助からないようだったら、オレが引導を渡す。だが、覚えて置け。セイは、そう言う最期を迎えさせるために、雅に熨斗つけて押し付けたんじゃないからな」
「……」
「無事、雅に引き渡したと、嬉しい知らせを持って帰らせてくれ」
「何で、戻らないと決めつけてるんだ」
笑いながらの頼みに、いつもの笑みが戻ったエンが、ようやく返した。
「分かった。篭絡されない方向で、やってみる」
初めから、そこまで覚悟して、喋って欲しかった。
舌打ちしそうになりながらも頷いたオキは、もう歩き出している男の後に続いた。
誉も、その後に続く。
わざと敵を知らせる鳴子を鳴らして入ったため、敵の方も流石に気づいて出て来た。
わらわらと出て来た賊の数は、元々の数の半分くらいで、意外に減っていない。
鼻が利き知恵がある獣は、人の匂いのついたそれにかかる事はない。
だからこっそりと入り、先に近くのあばら家に身を潜めようとここに入り込んだところを、妖艶な女に魅入られてしまったのだろう。
誉は嫌な気持ちを押し隠して前を見ると、昔馴染みの猫が静かに剣を抜き払っていた。
「ここまで来て、生け捕りは考えてないよな?」
「……国から出たお尋ね者は、野垂れ死んでも疑われない」
オキの念押しに答えながら、誉は先に動いた。
自分達が人ではないと気づいて、印を結んだ一人の賊の頭を、掌で張り飛ばす。
頭だけ飛ばすつもりが、肩から割けて宙を舞った。
「あ。やりすぎた」
同じように印を結ぼうとしていた賊たちが目を剝いて固まり、呟いた大きな男の声で再び動き出した。
それぞれ悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したのだ。
「おい、魚野郎」
残った胴体が血を流しながら倒れるさまを見ながら、オキは苦い顔になった。
「逃げてしまっただろうが。余計な力を使わせるなっっ」
「すまん」
吐き捨てながら追い始める男に、誉は短く謝りつつ、同じように敵を追い始める。
残ったエンは、真っすぐにあばら家に向かって行った。
固く閉じられた戸を開くと、籠った匂いが流れ出て来る。
その匂いに混じって、嗅いだことはあるが嗅ぎ慣れる事はない匂いが、鼻を激しくついた。
後ろ手で戸を閉めた男の足元に、黒い毛並みの獣が転がっていた。
締め切った薄暗い中では、それしか分からないが、既に毛の塊と言ってもいい物だ。
つまり、息をしていない。
息をしていないが、先程までは元気に動いていたであろうと思われるほど、その毛並みには艶があった。
狭い家内を見回すと、それが数個転がっており、家内の片隅で何故か座り込んだまま動かない人影が数個あった。
荒い息を繰り返しているから、只座り込んでいるだけで生きてはいるようだが、ある方向を見たまま顔を背ける事も、動く事すらできないようだった。
「……」
その目の先を見るのは、勇気がいる。
見たくないが、見ない事には始まらない。
エンは、無理やりそちらに顔を向けた。
家内の奥の一角にいる、男女に。
片隅にいる者とは違う意味で荒い呼吸を繰り返しながら、数人の男が女一人に圧し掛かっている様が、一つの大きな影となって浮かび上がっていた。
必死でそこに目を向けたものの、余りの惨状に動けないエンの前で、完全に女に馬乗りになっていた男が突如、身を離した。
痙攣しながら床に倒れ込み、瞬きする間もなく狼へと姿を変える。
傍の男がすかさず女に跨ったが、その僅かな間に少し身を起こした女と目が合った。
その異様に色のある目に、エンは完全に動けなくなって立ち尽くす。
これ以上は見ていられないと後ずさる男の前で、女は跨っている自分より肩幅のある男を、やんわりと押し返した。
力を入れた様子もないのに、男は軽く押しただけで身を離し、その場で腰を落とした。
立ち上がった女は、すがる男たちを振り返りすらせず、真っすぐエンを見つめていた。
微笑むその綺麗な顔と、乱れた衣服から見え隠れする、白い肌が薄暗い中でも映えて見え、いけないと思いつつも目が離せない。
外で動いている二人に、中の惨状を見られたくないと閉じてしまった戸が、裏目に出た。
後ずさったエンは、その戸に追い詰められ、近づいて来た女から目を離す間もなく、捕らわれてしまったのだ。
「……」
見上げて来る女の顔は、数か月一緒に居た馴染みのある顔だ。
うっとりと微笑むその顔は、一度も見た事がないが、確かに知った顔だった。
周りの惨状も目も気にならない程、その顔に見惚れてしまい、エンはつい笑いかけていた。
その笑顔を見た女も嬉しそうに笑い、両手を伸ばして男の顔を引き寄せる。
抱き返したらもう戻れないと両こぶしを握り締め、そのままされるがままになる覚悟で、そっと目を閉じた男の顔に女の息が間近に迫り、唐突に離れた。
力任せに頭を押し上げられたエンは、完全に油断していたのだ。
戸板に打ち付けられた頭から、あり得ない程盛大に火花が打ち上がり、思わず閉じていた目を開く。
「ち、違うっっ」
ぼんやりとした気持ちから目は覚めたが、何が起こったのか分からないままの男の顔を攫んだまま、混乱した声の女が、はっきりと叫んだ。
「この人は、襲いたくないんだってっ。襲われなきゃ、意味ないんだよっっ。ここまで触ってるのに、何であなたは、他の男と違って飛びついてこないんだっ? 酷すぎるっっ」
今度は、頭の中が真っ白になった。
狐は、意外な事だが色事には冷たい。
母親は雅が災難に遭い、その相談をして来た時に、そう言った。
「本当に惚れた相手ならば、そんな事ないわよ。でも、それ以外は餌としか、思えないのよね」
「……それが、私の災難の答えになりますか?」
「なるわよ。だってあなた、うちの弟の力を奪ったでしょう?」
けろりと言われ、雅は目を剝いた。
そんな事はしてないと言ったのだが、母親はしたり顔で首を振る。
「私と同じくらい、狐の力がついているように見えるわよ。この間までは、そんな事なかったじゃない」
母親は、村が勝手に怯えて作り出した儀式に辟易し、山を下りていたが、時々顔を出していた。
弟たちも山を下り、一人になった雅の元に、数日前母親の弟がやって来た。
男の狐で、姿もそれなのは珍しいと言うから、かなりの力を持つ狐だったから、非力な雅が敵うはずがなかった。
そして、母親に聞く限りのオスの狐の性が、叔父が去った後も雅を心配させていた。
だが、母親はそんな娘の心配を、笑って一蹴した。
「大丈夫よ。気がついたら、あの子いなかったんでしょ? もし、あなたを思うままに出来たのなら、あなたが気づいた時に、しっかりと名付けた筈」
よく思い出してと言われ、息苦しい中の出来事を思い返してみるが、確かに名付けられた感覚はない。
「つまり、あの子は、あなたを縛れなかったのよ」
名前を付けられることが、最大の敗北だったと母親に言い切られ、半ば戸惑いながらもそうなのかと思う事にした。
「力を奪われて、男の姿になれなくなったから、逃げちゃったのね。全く、オスってそう言う所があるから、長生きしないのよ」
呆れる母曰く、オスの狐はその希少性からか自尊心が高く、それが崩された後の衝撃が、寿命を縮めてしまうらしい。
生まれながらに力を持つオスの狐は、同じように力を持つメスを求めるが、それは命がけになることが多く、それ故に殆ど若くして命を落とすか、力をなくして細々と生きるかだからだそうだ。
人間を求める者もいるが、強い自尊心が邪魔して、その後が続かない。
「一人の相手に執着するものだから、尚更そうなるみたい。しかも、血を紡ぐ気はないから、質が悪いわ」
己の子供にすら、相手が情を向けるのを嫌がり、生まれた子を手にかけてしまうそうだ。
周りを巻き込んで只一人を追い求め、追い詰めてから己の物にするさまは、狐からしても同族とは思えないほど醜悪な生き物に変わってしまう。
それはいきすぎだが、一人の相手に執着するのは、当たり前ではないかと首を傾げる雅に、母親は微笑んで頷いた。
「好いた人や、気に入った人となら、子を作ってもいいけど、それ以外は餌でいいものね」
例え不味い餌でも、腹に入れば糧になる。
「ほら、苦い薬草を無理やり口にするのと、同じよ。生きて力を保ち続けるために、不味い餌でも、無理やり詰め込まなくちゃ」
そうかなあ、と思いつつも永い年月を過ごして来た雅は、今になって本当にそうなんだなと、感じていた。
賊に捕まり、否応なく男たちの相手をした後、怒りに震えながら思わず涙を流してしまった。
こんな腹立たしい場でも、力がみなぎっているのが、自分でも分かる。
それが、何よりも悔しかった。
気が狂うこともなく、ただ無理やり何かを詰め込んで、胸が焼けているような感じの中、この後どうするかをぼんやりと考えていた時に、若い娘と変わった蛇があばら家を訪ねて来たのだ。
蛇は、戸口の前から動かずここに来た経緯を話して去り、二度とここまでやってくることはなかったが、その時の話で生粋の男の狐が、賊のもとについていることを知った。
あの煩わしい儀式を行っていた村が、恐ろしい儀式に手を染めたのも、一匹の生粋の男の狐だったと聞いている。
希少だが、厄介な気性を持つ男の狐が、再びこの近くに根を下ろし始めている。
その時まで、雅は今夜中にこの集落を去るつもりだった。
戒が取り込まれたのは悔しいが、それならばそれで、致し方ない。
何より、無事を確かめることすら後ろめたいことを、黙ってされるがままにされてしまった。
戒が覚えていなくても、雅自身が覚えている限り、悔いる出来事だった。
声を出したら、嫌がったら負けだと思ってしまっていたから、目を覚まさせるために声をかけなかったのは自分の意思だが、それは戒の方の意思とは全く別だったはずだ。
好いた女子に向くはずのものが、姉貴分に向いてしまった弟分を止めてやれなかったのに、姉貴面して迎えに行くのは、躊躇われた。
どうせ、戒とはいずれ別れることになるのなら、最悪な形であれ、肉親らしき者がいるところにいる今、別れてしまおうと決めていたのだ。
が、ついさっき考えが変わった。
これまで内側にしか考えが向いていなかったから、外の匂いに気を配っていなかったが、戒はここにいないのが分かったのだ。
安心したものの、少々解せないことがある。
いるはずの生粋の狐の匂いが、その気になって辿っている雅の鼻にすら、辿れないのだ。
生まれつき力を強大に有している、男の狐というのは侮れないようだ。
できるだけ気弱に動き、蛇や娘から話を聞きだした雅は、ここにしばらくとどまることに決めた。
娘が逃げられるまで。
そして、その間に、娘の許嫁たちが率いる者が相手取るお尋ね者を一人でも減らし、生粋の狐と会ったうえで、あわよくば懲らしめるつもりで。
賊を減らす試みは、二人しかなせなかった。
代わりに、大勢の獣が襲撃してくるようになった。
襲われるよりは襲ってやろうと、雅は動けない狼の男に笑いかけながら手を差し伸べ、触れる前に飛びつかれる日々を送ったが、妙な力が更にみなぎり始め、それでも我を失わない自分が、逆に恐ろしいと感じるようになった。
何で、気がふれないのか。
そう思いながらも、その恐怖や不安は押し隠し、男どもの前では優しい笑顔を絶やさない。
賊の頭領らしき恰幅のいい、四十がらみの男が、獣たちと戯れる女を見守っていたのだ。
何があっても、こいつらには弱みは見せない。
そう思っていたのに。
数日前も、狼の群れがやってきた。
そして今日も、生き残っていた群れの半ばまでを相手にし、更に一人から全てを搾り取った時、その男の姿に目が止まった。
己の欲におぼれ、本当の獣と化している狼たちや他の男たちと違い、驚きで目を見張りながら戸の前で立ち尽くす男。
数か月一緒にいて、初めて真剣に惚れた、懐かしい男だった。
飛びつく狼を無造作に払いのけ、雅はついつい男に飛んで近寄った。
身近で見た男はまだ目を見張っていたが、そんな顔も愛おしくて、飾りではない笑顔が零れる。
それを見下ろした男も、笑い返したのを見て、雅は我慢ができなくなって手を伸ばしていた。
男の頬に触れ、そのまま唇を男の口に重ねようとして、我に返った。
勢いよく顔を引きはがし、顔を伏せる。
勢いが過ぎて、男の頭が後ろの戸板に打ち付けられたのが分かったが、そんなことに構っていられなかった。
「違うっ」
そう、違うのだ。
雅は腹立たしい思いをしながら、叫んでいた。
「この人は、襲いたくないんだってっ。襲われなきゃ、意味ないんだよっっ」
背後の生き残った獣たちが我に返って、驚きの顔で見ているが、そんなことも気にならないまま、雅は男を睨むように見上げた。
「ここまで触ってるのに、何であなたは、他の男と違って飛びついてこないんだっ? 酷すぎるっっ」
そんなに、色気がないのか。
まだ、あの老人に負けているのか。
やはり、自分が襲わないといけないのか。
そんな思いを込めて、雅は盛大に喚いていた。
涙が出そうになる程取り乱した女に、後ろから賊の男があざ笑いながら呼びかけた。
「何を言っているんだ? 襲われても泣きもせず抗いもせず、ただ固まっていた女が。ようやく我が無くなって、面白くなっていたというのに」
振り返って睨む女を見てまた笑い、足元に座り込む男たちを見やる。
「今では楽しんでいたんだろう? 襲ってくる男の相手をすることを?」
「ただ笑っているだけで、楽しいと勘違いするなんて、随分自尊心が高いんだな」
そんな人間の賊の頭領に、雅は睨んだままあざ笑い返した。
「好きでもない男と戯れて興奮するなんて、あるわけないだろう。早く終わってもらうために、笑ってただけだ。商家の店頭で、客に笑いかけるようなものだ。それで引っかかる男と、私が楽しめるはずがない」
きっぱり言い返され、男は更に笑った。
「一番初めに、お前が好いていた男と戯れさせたというのに、そういうことを言うか? あの時も、面白みがなかったじゃないか」
両手でつかんだままの男の顔が固まった気がしたが、それに構う暇はなかった。
両手を放して体ごと振り返り、嫌な話を持ち出した賊を真っすぐ睨む。
「戒は、弟のようなもので色恋の好意は、ないんだよ。それともあなた方は、親兄弟にすら、色の欲を持てるのか? それは、人としても駄目だろう?」
「何だと」
「恋い慕う相手が、そういう激情で接してくれるのなら、絶対に興奮する。あなた方には分からないだろうね。女とみると、欲をたぎらせるしかないあなた達には」
顔をひきつらせた男は、それでも冷静さは残っていた。
足元に書かれていた呪いの文字が、掻き消えているのに気付いたのだ。
目を剝くその様子に笑いながら、雅が優しく言った。
「今更気づいても、遅い。あなたたちは興奮しすぎて、床のそれが初めから擦れ始めているのに、気づいてなかっただろう? 二月前から、逃げようと思えば逃げられたんだよ、私は」
国がらみのお尋ね者を、少しでも減らしてやろうという思いと、関わっている生粋の狐をあぶり出してやろうという思いで、娘の許嫁が再び言伝てくるのを待っていたのだが、もう無理だと思った。
よりによって、一番知られたくない男に、自分の癖を見られてしまった。
今までの動きを、知られてしまった。
言い訳は無駄だが、そう観念できるほど、雅は出来た女ではなかった。
こちらの襤褸を更に吐きかねない者たちを、先に抹殺することに決めた。
「本当に、人の男も獣の男も、根元は同じなんだね。言いなりにできる女を見ると、好いたものでなくても、力づくでものにしたくなるんだ。男としての矜持というのも、ただの飾り物なんだね」
優しい笑顔で、くすくすと笑って見せる女に、まず賊の頭領が激高した。
顔を歪ませて、手を合わせると、呆然と座り込んでいた目の前の狼たちと、壁際に呆然としていた狼たちが、ゆるゆると身を起こす。
先ほどまで女に魅入られていた狼たちは、抗う暇なく呪いにかかり、人の思うままにこちらをうつろに見た。
「先に後ろの男を殺せっ。助けが来たからと気が大きくなっている女なぞ、すぐに元の木阿弥だっ」
とことん馬鹿にした言い分に、雅は深いため息で一度感情を散らし、再び優しく笑った。
「させるはずがないだろう、全ての駒が無くなるのが、先だっ」
言った途端、女は前に身を躍らせようとしたが、その前に動きを止めた。
怒る両肩に、大きな手が力強く置かれたのだ。
「……面白い趣向の方々、なんですね。驚きました」
穏やかな声が、背中にぶつかった。
「泣き声と悲鳴で興奮して、極楽が見れる人たちには、初めて会います」
急に話に割り込んだ男に驚いた賊だったが、その穏やかな物言いに顔を緩めた。
「そういうことだから、お前は女を諦めて立ち去るんだな。今なら、命は助けてやる」
「おや、その程度なんですか?」
「何っ?」
首をかしげる男は、穏やかに微笑んだまま賊を見つめた。
「女子相手でないと、興奮できない程度の甲斐性なんですか? まだまだ、悪どいものの群れにしては、染まり切っていないんですね。ああ、だから、獣の女子には、手を出せないんですか?」
「そうではないっ。まだ、この女しか、獣は捕まっていないだけだっ」
思わず喚くように答えた頭領に、男は笑顔で相槌を打った。
「成程。ならば、ほかの一線を越える機会を、逃してもいいんですか? 獣の前に、もう一皮むけるには最適の男が、ここにいるでしょう?」
何を言い出すと、雅が目を剝いて後ろの男の顔を見上げるが、全く表情が読み取れない。
「オレなら、泣き声と悲鳴、更には懇願も、あなたの耳に入れることができると思いますよ」
「ち、ちょっ、エンっ?」
慌てた雅の前で、賊の頭領が笑い声をあげた。
「それはいい。女に代わって、お前が相手をしてくれるというのか?」
「ええ。構いませんよ。そう長くはかからないですから」
もがき始めた女を、男は両肩に置いた手だけで抑えながら、更に軽く後ろに引いた。
よろめいた雅を、いつの間にか開いた戸板の外に押しやりながら、エンは声をかけた。
「この人を、頼む」
「分かった」
受け取ったのは、馴染みの男だった。
雅を見つめた男は、更に別な男の方に押しやる。
「お前が、一番だろう」
言われて受け取ったのは、大木のように大きな男だった。
見知らぬ男は文句も言わずに頷き、すぐに締め切られた戸板を見やる。
「お、オキっ。このままあの連中に、エンを……捧げる気かっ?」
「阿保」
そのすんなりとした一連の動きに流されてしまった雅が、ようやく我に返って叫んだが、オキは呆れた声で返した。
「捧げるとはなんだ。疚しさだらけの言葉ではあったが、色事の方にとるとは、お前もまだまだだな」
それを聞いて、雅を支えた男が首を振る。
「それにしても、まさか正気のままとはな。お前、混血なんだろう? そちらの方が驚きだ」
あばら家に残った男を心配していない二人に、焦った雅が叫ぶ前に、別な叫び声が聞こえた。
当のあばら家からで、どう考えても悲鳴だったが、エンの物ではなかった。
さらに血の匂いが漂い始め、女の体から力が抜ける。
「……」
それを支えてやりながら、オキがしんみりと言った。
「この国の言葉は、色事と殺戮の言い回しが、似てるんだよな」
「あの男、大陸の者だろう? この国の言葉を、よく分かっているな」
同じように雅を支える男も、しんみりと感想を述べる。
「あれ? 興奮しないんですか? 手足をもいで、あなたの悲鳴を聞かせてるのに? 特別に、興奮させながら殺して差し上げようと思ってるのに、残念です」
「っっ、た、助けてくれっっ」
「あ、懇願はするんですね。でも、興奮はしてないな……あ、ほかに生き残りがいるからですか? じゃあ、見ててください。この人たちも、しっかりと悲鳴をあげさせますから、ちゃんと聞いててくださいね」
完全に錯乱した悲鳴と共に、穏やかな声が重なって聞こえた。
オキが溜息を吐く。
「これは、いつもより時がかかるな。完全に、怒ってる」
「……だろうな。だが、それで済むか? やはり、あの戒という男も、お前たちに引き渡した方がいいか?」
「え、何で、戒?」
支えてくれていた男から出た名に我に返り、ふらふらする体を何とか立て直した雅が、ようやく二人を見て聞き返すと、二人とも呆れた顔をして、初めて会う男が答えた。
「お前さん、自分が先程、錯乱気味に吐いた言葉を忘れたのか? あれを聞いて、中に残った男が激怒したんだ」
「え? 怒る内容だったかな? 呆れることしか、吐かなかったと思うけど」
白けた空気が流れたが、あばら家からの更なる悲鳴が、それを全て洗い流した。
この話はここまでにして、二人は別なことを持ち出す。
「件の狼の群れが、まだ生き残っていたようだが、この様子だとエンが全滅させてしまうぞ」
「それも、致し方ないだろう。後で里まで使いをやって、賊と相打ちしたとでも、言ってやろう」
中から聞こえる悲鳴や血の匂いが、中の者を選って助けるのは無理だと言っている。
だから、後のことを考えないようにしながら、男二人は女を支えながら自己紹介を終え、簡単に経緯を語ることで時をつぶした。
暫くすると悲鳴や懇願も聞こえなくなり、しんと静まり返ったあばら家から、男が姿を現した。
駆け寄ろうとした雅が立ちすくむほど、真っ赤に染まったエンが普通に歩いてくる。
「一度、帰る」
「ああ。後は、オレが残る」
短く言った言葉にオキが頷き、誉と名乗った男も頷いた。
「休ませてやろう。一応、戒という男とも、会っておいた方がいい」
思わず顔を歪ませてしまった雅だが、振り払うように首を振った。
「その前に、生粋の狐とやらと、会ってみたい」
「やめとけ」
何故か、オキがきっぱりと切り捨てた。
「何故?」
「この辺りに目をつける、生粋の男の狐がいるとしたら、一匹だけだからだ」
その狐が誰なのか、心当たりがある言い方だった。
「その狐の事、何か知っているのか?」
誉も目を細め尋ねるが、オキは溜息を吐いた。
「心当たりがあるだけだが、そうでないことを祈っている」
そうして空を仰ぎながら、続けた。
「これは、やり過ぎだ」
「? よくわからないけど、そんな悪さをする狐なのなら、早めに引導を渡さないと、更に触りが出るだろう?」
「……それは、お前がすることじゃない」
真顔な女の言い分にも首を振り、オキは真面目に言った。
「事のあらましは、後で話してやるから、お前はこいつらと山に戻れ」
そして、返事を聞かずに奥の方に走り去ってしまった。
「……」
それを見守ったエンが、頭をかきながら切り出す。
「この集落には、水場はなかったか?」
ようやく頭が冷えたのか、自分の姿の異様さが気になったらしい男の問いに、誉が静かに答える。
「他の家の土間に、据えられてはいるようだが。それで足りるか?」
「顔だけは綺麗にしておきたい。あなたの主たちが、驚きそうだ」
一応、気遣ってはくれるらしいと、誉は顔を緩め、近くの小屋に導いた。
集落で人が住めるように整えられた小屋は数個で、どうやらそこにぎゅうぎゅう詰めで寝泊まりしていたらしい。
「あの娘さん、よく無事だったねえ」
いくらあがめるために連れてこられたとはいえ、相手は生身の男と女だ。
本当に無事だったのかと思いながらも、そう呟くとその言葉を拾った誉は頷いた。
「護符を、持たせてたからな。法力僧が、その気で近づけば、破れてしまうだろうが、他の奴ならば防げるものだった」
娘の許嫁が持たせていたものだと言われ、やっと安心したが、すぐに首を傾げた。
「……連れ去られないような護符くらい、渡しておいたらよかったのに」
「言うな。そこまでが、精一杯だったんだ。まだ今よりも若い時分だったから、尚更」
それに、そんな都合のいい護符があるならば、都や江戸の方で大人気だ。
万年財政難のお国の中で、大活躍して家柄の株も上がっているはずだ。
そうきっぱりと言われ、確かにそうだなと頷いてしまった。
「……まあ、そういう護符はあったらいいなと、当主も考え始めているようだが」
主持ちの男の話に相槌を打ちながら、エンが小屋の中で顔を洗ってくるのを待っていると、頭から水を滴らせながら戻ってきた。
「……」
「拭くものがないな」
「ああ、大丈夫だ。先程かなり動いたから、暑いくらいだったんだ」
誉に笑顔で答えたエンは、目を見開いて自分を見る雅に気付いた。
「まだ、汚いですか?」
穴が開くほどに見つめられ、そう思い当たった男が、汚れたままの袖で顔をぬぐおうとするのを見て、雅は我に返って慌ててその手を止める。
「だ、大丈夫だよ。顔は、綺麗になったから」
手がふれ合ってしまい、はじける様に身を離し、二人は照れ合った。
「そ、そうですか」
「そうだよっ」
たどたどしく言葉を交わす二人は、誉から見ても初々しいのだが……。
「……周りの光景が、全てを台無しにしてるな」
「え? どうしました? 誉さん?」
思わず出た呟きを拾った雅に慌てて首を振り、咳払いして切り出した。
「では、一度山に戻ろう。後のことは、主を交えて……」
今のうちに、この場から二人を離そうと切り出した言葉は、無情にも遮られた。
突如、集落中に響いた怒号で。
一人のものではなく、数人の声が重なったがために、恐ろしく大きく響いたそれは、集落の奥にある大き目な家から聞こえた。
「……まだ、生き残りがいたか」
穏やかに呟くエンに、誉は苦い気持ちを隠して言い訳した。
「あちらは、放っておけとオキが……」
「オキが?」
集落はすべて制圧されたと思っていたエンが、生き残りをとがめないはずはなく、言い訳するにはオキの名を出すしかない。
だが、もっと別な言い方がなかったかと、誉は長く悔いることになった。
笑顔を消し、奥を見やった男が走り出して、雅もあわてて後を追う。
慌てて二人の後を追い、追いついた時には遅かった。
戸板を開け放って立ち尽くすエンと、その後ろに立つ雅の背中越しに、誉はまず己の連れ合いの姿を見つけた。
名を呼ぶ前に、こちらに気付いた兎の男が、赤い目を向けて天井を仰ぐ。
その奥で剣を片手に立つオキが、三人の襲来を見て呆れた溜息を吐いた。
先のあばら家の中も、おそらくは同じようになっているのではと思わせる、血肉の匂いと真っ赤な床と壁の中、誉も初めて会う人物が二人、その奥で相対していた。
一人は件の生粋の狐だろう。
小さな十四五の愛らしい娘と、細身の色白な若者だ。
「セイ」
エンが戸惑うように言い、その体の脇から雅も顔を出してそちらを見た。
オキが、二人を遠ざけようとしたのは、生粋の狐が雅にもエンにも、悪い障りにしかならないと思ったからだと気づき、誉も何とか引き留めようと思っていたが叶わず、申し訳ないとは思っていたが、その程度だった。
だが、生粋の狐を見て、目を見開いた雅の呼びかけを聞いた時、盛大に悔いた。
「……叔父、上?」
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