第5話

 逃げるなら、日があるうちにしろ。

 そう言われていた。

 だから、邪な目がこちらに向き始め、聞きたかった知らせを聞いた時、娘は辛抱して夜明けを待ち、日が上に登り切るのを待ったのだ。

 それなのに、そいつは追って来ていた。

 逃げるのを待っていたと、そう疑いたくなる程に、嬉々とした顔で。

 落ち着いて動いたと思ったのに、大きな体の男が勢いよく追いすがって来るのを、振り返って見てしまった娘は、恐怖で混乱した。

 故郷だった村が無くなった時、娘は両親たちと共に、許嫁の武家に呼びよせてもらえる事になり、その他の家族と共にその武家が住まう村に向かっていた。

 もうすぐ目指す地に辿り着く、そう気を抜いたのが行けなかった。

 気がついたら両親も親戚の家の者もなく、全く親しくない親戚の男が、床を転がっていた娘を見下ろしていた。

 どうやら、山の中で休んでいた家族の中から、自分だけ連れ去って来たらしいと知ったのは、暫くして繋ぎを取って来た、式神の話からだ。

「御家族も、他の四家族も、一人も欠けずに村に入ったから、そこは安心してもいい」

 そう言って、あなたも無事だから万々歳だと、誰の受け売りなのか明らかな言葉を、蛇は言った。

 娘は、少しだけほっとして頷いた。

 そう、嫁入り前の自分が、この恐ろしい賊の中で無事なのは、奴らのよりどころだからだ。

 父親は年の離れた姉を、母親は母を、同じ男に傷つけられ、それぞれ波瀾の中を生きた。

 特に祖母は、男の子を身ごもった事を恐れ、それを同じ傷を持ち、自死してしまった娘を思う祖父がその秘密ごと引き受け、娘と前後して体を壊して鬼籍に入った前妻の後に、後妻に迎えた。

 周りの四家族もその事情を知り、一緒に秘密を守ってくれていたからこそ、あの村が狂い始めた時に、正しい道を突き進めたのだ。

「恐らく、あなたは、復讐だか何かは知らないが、それを成した後、連中を治める為の傀儡として、連れて来られたんだろう。事を成す前に連れて来たのは、逃げ道はないと、そう知らしめるためだろうが、まあ、その気になれば、何とかなるから、その心配はするな」

「はい。ちゃんと、探してくれた。それだけで、こんなにほっとするとは、思いませんでした」

 とは言え、娘には不安も多くある。

 殺伐とした中で、そうなるのは仕方がないが、それだけではなかった。

「……件の、法力僧だな?」

 頷いた娘は、それまでその法力僧とは会った事がなかった。

 だから、今まで気づかなかった。

「あれは、人ではありません」

 言い切った娘に、蛇も器用に頷く。

「この国には、国が目を付けた類の鬼と、大陸から渡ってきた鬼がいる。この国で生まれて力をつけて来た鬼どもは、大昔、群れで山に住み着いて悪さをしていたが、人の知恵で頭領も退治されて以来、群れることなくひっそりと、人に紛れて暮らしている」

 中には、その正体を隠したまま人と所帯を持ち、代々血を紡いでいる者もいるが、生粋の荒くれ者が多い種の鬼には、その忍耐を持つ者が少ない。

「国の目を掻い潜って、目の届かぬ所で堂々と群れて、大暴れする大陸の鬼とは違い、人の間では奇異な者とみられながら、異常な動きも大目に見られてしまい、それを幸いに、徐々に人々を思惑に引きづり込むから、質が悪いと言われているそうだ」

 しかも、ひっそりと人目につかぬように、人と混じって生きている為、時代を追うごとにその姿かたちも、見分けがつきにくくなっていた。

「生まれつき、角すらない奴も出始めている」

「……」

「人に紛れて生きている者の中には、役人の手下として重宝されている者もいるらしいから、善し悪しがあるのだろうと思う」

 獣の道理でも、人の道理でも同じことだが、件の法力僧は、善人ではない。

「あなたの母方の実の父親の母、つまり曾祖母は、どうやら子を産み落とした後、命が危うかったらしい」

 人に紛れて生きて来て、既に奥底で朽ち果てそうになっていた、鬼の本来の欲が、無理やり手に入れた女が孕み、子を産み落としたことで目覚めたものの、女が逃げてしまい、今はお預け状態なのではと言われ、娘は震えあがってしまった。

 この集落を明け渡させるため、元々住んでいた者たちを全て消してしまった時も、気が狂いそうになったが、今度は旅人や近くの村や集落から出入りしている人々に、追剥紛いの事をし始め、耐えきれなくなっていた所にその話を聞き、限界寸前だった。

 逃げたいならばいつでもいいと、心強い事を言われ、本音はすぐにでもそうしたかったが、そうする前に、新たな波乱があった。

 集落が無人になった頃に落ち合った生粋の狐が、奇妙な事を言い出したのだ。

 人の言葉を解する獣を、狙おう。

 男は術で弱めて手にかけ、獣に戻ったところで毛を剥ぎ、高く売る。

 女は術で弱らせて、乾いた男どもを生き返らせる糧にした後、見世物小屋にでも高く売る。

「女は、弱らせ過ぎるのも、不味いから気を付けろ。いくら何でも、獣を弄るのは人の道を外れているのだろう?」

 獣である狐が、事も無げに言って笑うのを見て、何か恐ろしい企みがあるのではと、そう考えてしまった。

 親族たちはその案を受け入れたが、そう簡単に人の言葉を解する獣が、傍を通るとは限らない。

 何か別な意図があるのではと考え始めていたある日、集落内が騒がしくなった。

 そして、ぐったりとした女が一人、集落の外に出ていた男衆に連れて来られたのだった。

 周りが静まり返った時に、やって来た蛇の男がその女と話し、そっと自分の閨に戻った娘にこっそりと言った。

「……隙を見て、早めに逃げろ」

「そんな。あの人を放っては……」

「酷だが、あなたでは助けられない。もし、我を失くしてしまったら、あの女は生粋の狐と同じものとなる」

 言っている事は分かる。

 先の先住者たちが、突然の襲撃で成す術もなく屈服し命を刈り取られ、また凌辱されて売り払われても、娘は何もできなかった。

 あばら家の一つに閉じ込められ、それを知った時には何もかも終わっていた。

 先に知ったからと言って、止めることができたかも怪しいが、男たちの死体が転がる中で、完全にボロボロにされた女たちが、連れて来られて唖然としている娘を恨みがましく睨むのを見た時、胸が空虚になったかのような、無力さを感じた。

 今は助けがすぐ傍におり、それに縋るつもりでいたのに、あの時見てしまったのだ。

 初めて会って話した、名も知らぬ狐の混血の女の顔にある、涙の跡を。

 男たちが去り、自分達が近づく前までは、あの薄暗い中一人、涙にくれていたのだ。

 それに気づいたら、どうしても助けたくなった。

「……勿論、男たちに言いようにされて悔しかった、それだけかもしれない。でも、狐の血がよみがえっているのなら、その悔しさも糧にするんでしょう? あの人はまだ、助けられる」

「それは、逆だろう。あの女の弟分が、奴らに取り込まれたと思ったから、それが引き金になって、我を失う拍車になっていると、ウノは言ってた」

 蛇が事も無げに言って斬り捨てたが、その言葉は娘に衝撃を与えた。

「弟分?」

「ああ。散々弄る様を見せて、住処に捨てて来たらしいが。弟分の無事を教えてやれば、自我を取り戻せるか?」

「……」

 蛇は首を傾げて伺いを立てたが、娘は別な事に思い当たって体が熱くなった。

 久し振りに、恐怖と諦め以外の感情が、噴き出てくる。

 今迄でも、充分人道を外れていると思っていたが、これはそれ以上だ。

「……許せない」

 怒りが抑えきれず、声を漏らした娘を細い目を見開いて見返した蛇は、そのまま口を開いて何かを吐き出した。

 人の姿と違い、人の親指ほどの太さの小さな蛇の、何処に入っていたのか、それは丁寧に折りたたまれた封書だった。

「あなたが、あいつらに抗う気分になったら、これを見せろとウノが言ってた」

 匂いを少しでも付けないよう、蛇に代筆させての、兎の文だった。

 それを開いて黙読した娘は、すぐに頷いた。

 兎は、幼い頃から石川家の次男坊に付き、その係わりで娘とも馴染みだった。

 だからこそ、只怯えているだけの娘ではないと知っている、文の内容だった。

 国と繋ぎを取り、お尋ね者らしき群れを見つけた旨も、既に知らせてはいるが、動く様子がないから、誉と悪巧みをして国にある話を流し、石川家の他の兄弟たちをこちらに向かわせたと、そう書いてあった。

 そして、やれそうなことだけやって、危ないようならすぐに逃げてもいいと、やんわりと気遣いが付け加えられていた。

 あれから二月。

 殆ど獣と化した女だが、こっそりと訪ねる娘は優しく迎え、それまであった忌まわしい出来事を振り払うかのように、楽しい話を持ち出し続けた。

 娘もその意を受け、女の思い出話や、自分の思い出話を、笑いを交えて語り合った。

 そうすることで、自分も女も、今の境遇を耐えられる。

 耐えていたら、もうすぐ助けが来る。

 そう思っていた。

 法力僧が、件の狐に余計な事を言われなければ。

 どうやら、混血の狐の様子が、落ち着き過ぎていると、気づかれてしまったらしい。

 あの男の、自分を追う目が厳しくなった。

 それ以前から、集落には同じ種族の獣が襲撃を繰り返し、それを相手取る羽目になった女が、少しずつ壊れてしまいつつあったが、娘が会いに行けなくなったことで、それに拍車がかかってしまっていると思われた。

 このままでは、石川家の者たちが来ても、女は同じようなものとみなされ、退治されかねない。

 悔しくて身を焦がしながら、必死に考えて出した答えが、助けを呼びに行く、だった。

 この集落は、山々に囲まれた小さな土地だった。

 真正面に混血の狐である、件の女が住んでいた山があり、その向こう側の土地は、一時期すたれたものの、今は再び小さな村が富を営んでいる。

 そして、その村から山と山を挟んだ道を、国境まで進んだ先の村に、今は尼僧が住む寺があると、蛇から聞いていた。

 術に長け、その昔、鬼が住まっていた山から、長く村人たちを守って来たと言われる僧侶の、只一人の弟子だと言われている尼僧なのだそうだ。

 その人ならば、女を人に戻し、助けられるかもしれない。

 躊躇いはあった。

 蛇が何故、その尼僧を知っているかというと、ここの賊が襲った女たちが、秘かに身を寄せた場所だからだ。

 娘は、その女たちに顔を知られている。

 助けてやれなかったのに、どの面下げて助けを求めるのか。

 再会した女たちが投げるであろう憎しみの目が、躊躇いと恐怖を生んだが、それを持ち前の負けん気で振り払った。

 開き直る気はないが、行かずにあのまま女を死なせる気もない。

 憎まれるのなら、もう致し方ない。

 あの家の嫁になるのなら、憎まれるのも茶飯事だと、じろ様も言っていた。

 憎まれ過ぎて、あの家の嫁になる前に、ともちらりと思ったが、どちらにしても、ここにいては遠からずそうなる。

 そう思って集落から飛び出した娘だが、早くもその遠からずが間近に迫っていた。

 足場の悪い山道をひたすら走る娘の肩を、迫った法力僧の手が乱暴に掴んだ。

 振り払った拍子によろめいた娘の体は、唐突に開けた地に倒れ込んだ。

「っ」

 そのまま馬乗りになった男の迫力ある体が、強気の娘すら身を竦めさせる。

 怒りではなく、楽しむかのような笑顔で、男は呪文を唱えると、動けなくなった仰向けの娘の裾を捲った。

 もう駄目だと、目を固く閉じた娘の耳に、軽い音が響いた。

 何かを啜る、呑気な音が続く。

「……」

 恐る恐る目を開けると、未だ馬乗りになっている男が、その姿勢のまま固まっていた。

「これって、賊、なのか?」

 無感情な声が、頭の向こうから誰かに訊くと、太い声が答えた。

「そうなのでは? 白昼堂々と、というのが、あっぱれですね」

 法力僧の、真後ろで。

 目を見開いた娘の前で、男が目を剝いたまま横に倒れ込んだ。

 未だ仰向けに寝転がっていた娘は、我に返って飛び起き、乱れた裾を直す。

 そして、振り返った。

 そこには、細身の若者がいた。

 傘を被った旅装束の武家らしきその若者は、開けた地の適度な岩に腰掛け、漬物を一枚口に咥え、首を傾げて娘を見ていた。

 透き通るような肌の、見た事がないほど整った顔立ちをしたその若者は、再び軽い音を響かせて、その漬物をかみ砕いて飲み込むと、すぐ傍に控えるように草むらに座る男を見下ろした。

 そちらも、呑気に竹の水筒を傾け、音を立てて啜っていた。

 妙に丸い小さな男は旅装束の僧侶で、どことなくおどけた風貌だ。

 傘を取って寛いでいる僧侶を見下ろした若者は、無感情に尋ねた。

「今、あんたが話した賊とは、これの事か?」

「まあ、そうだな」

 頷いた僧侶は、動かない法力僧を、無造作にこちらに投げやった男を見た。

「この国の狼たちより、断然使える男だの。わが集落で用心棒として住まって欲しい位だ」

「お断りします」

 答えたのは、大きな男だった。

 岩を思わせる体つきなのに色白なその男は目を閉じたまま言い、その見た事もない大きさに目を見開く娘の前で、若者の背後の森の方に顔を向けた。

 草むらが揺れ、木々の間からまた男が顔を出した。

 法力僧や、石川家の古株の誉と同じくらいの大きさのその男は、先の二人とは逆に、ほんのりと日焼けしたような色合いで、同じような旅装束の武家というような出で立ちだった。

「あら、もう片付いちゃった?」

 その男が、意外に柔らかい声でそう尋ね、若者の傍へと近づく。

 その右脇に、栗毛の獣が抱え込まれていた。

 熊の子にしては耳が異様に長い、今は呆れて細まっている、丸々とした赤目が目を引く獣で、娘が思わず叫んだ。

「う、ウノちゃんっ?」

「やっと会えたな、姫。遅れてすまない」

 男に抱え込まれたままの兎が、腕に置いた前足を少し上げて答えた。

「そいつが、バッチい手であなたを触る前に、頭を蹴り潰してやろうと急いだんだが、この旦那にとっ捕まったんだ」

「仕方ないでしょ。あなた、この子の後頭部を、踏み台にするつもりだったでしょう?」

「それこそ仕方ないだろう。良い所に座っているんだから。飛び上がるにはもってこいだ」

 この子と指された若者は振り返り、草むらに座った娘と兎を見比べた。

 そんな様子を見ながら、ウノと呼ばれた兎が言う。

「先程、そこの狸が言っていただろう? 賊の住んでいた国から来た、浪人者。あれが、オレの主だ」

 するりと男の腕から抜けて地面に下りた兎は、言いながら首に結ばれていた藍色の包みを開いた。

 途端に、人の姿が現れ、開いた包みをそのまま羽織った。

「色々と、通したい話もあるのだが、それは後だ。姫、あの尼僧は、もう頼れない」

「え?」

 目を見張る岩のような男と若者の前で、兎は襟を合わせて帯を締めながら言った。

「……あの尼僧、少し前に風邪をこじらせてしまって、それ以来、動くこともままならない」

「何じゃと。それは、困るの。儂は、その者が、あの尼僧と親しいと感じたのでな、まずこちらに話を通して、つなごうと思ったのだが……」

 僧侶が眉を寄せ、若者を見た。

 目を見張っていた若者が、それを見返して頷く。

「あんたが出てくる前に、使いと行き会った。そろそろ戻るという旨は、その使いに言伝たけど」

「むむむ……」

「不思議だな、何で私と、多恵さんが親しいと感じたんだ? 一年程、あの人とは会ってないのに」

 首を傾げ、唸る僧侶に続けた。

「あんた、泊った村を出た頃から、付いてきてただろう?」

 唸るのをやめ、目を細めた狸は、無感情に見返す若者を見直した。

「……もしや、お主自身が、源か? この紐に、術が編みこまれているのではなく?」

 言いながら袖口を探って取り出したものを見て、色黒の男が目を見開いた。

「あら。まだ、沢山残ってるのかしら」

「効く効かないは別として、ご利益はありそうですから。オレも未だに使ってます」

「結構効くわよ。残ってるなら、分けて貰おうかしら」

 男たちが交わす声を聞きながら、若者は首を傾げてその紐を見つめていた。

「……もしかして、離別の時に切って渡した、あれか?」

「ええ、あれです」

「まだ、残ってるのか?」

「そうみたいです。というより……」

 固い顔つきの大きな男が、空を仰いで続けた。

「捨てるのが惜しくて、残しているのではと」

 露骨に眉を寄せた若者に、兎は苦笑した。

 どういう事かと怪訝な顔をする狸に、その手の持つ紐の正体を告げる。

「この子の、髪の毛が丸々、編まれてできた紐だ」

「色も変えてないのよ。綺麗な色でしょ」

「ああ。あの旦那の髪は、少し味気ない色だったが、この子の色は目にも優しいな」

 手放しで自慢する男に返し、己の手の中にある紐を凝視する僧侶を伺うと、古狸となった男が完全に固まっていた。

「髪の毛、だけ、じゃと?」

「ああ」

「そんな事は……」

 唸るように声を絞り出す僧侶を、兎は笑い飛ばした。

「目の前に、お前があり得ないと言っている物が、あるだろうが。人と言う生き物は、時々、我らを驚かせる。そう言う生き物だからこそ、獣たちも、いけないと思いつつ、近づいてしまうんだ」

 獣たちは、人の姿にあこがれるが、近づくのは恐れる。

 憧れが、それ以上の情になるのを恐れている。

 色事の情が混じれば、己の種が分かれるのを、知っているのだ。

 分かれ方も様々で、己の血が濃く出て、更に上回る時と、人の血が濃く出て、そのまま人として生きる時がある。

 どちらを願うにしても、それは賭けと同じで、その情を打ち消せるか否かで、獣の今後が変わってしまう事もあった。

「獣は、我慢が苦手だからな。欲に負けてしまう方が、多いんだが」

「ふん。その辺りが、儂には分からん」

 だろうなと苦笑いをしつつ、兎は身づくろいして片膝をついた。

 うなだれながら、丁寧に挨拶する。

「初めてお目にかかる。詳しく名乗る訳には行かない立場なのですが、こことは違う国に仕える、石川という家名の武士の下で働かせてもらっている、ウノと申します」

 急に丁寧に挨拶され、若者は岩に腰を下ろしたまま上を仰いだ。

 そこには、色黒の男が静かに控えている。

 見上げる黒い瞳を見返し、男は頷いた。

「障りのない兎だから、名乗っても大丈夫よ」

「……」

 それを確かめるために見たのではないがと思いつつも頷き、若者は無感情に口を開いた。

「丁寧な挨拶、痛み入ります。家名も何もない若輩者で、名乗るのも忍びないのですが、私はセイと名乗っています」

 無感情に響く声なのに、その中に幼い疑問が滲んでいる。

 ウノは小さく笑ってから、顔を上げた。

「あなたの御父上には、私の連れ合いが、大変お世話になりました。御母上にも、良くしていただいた恩があります。そのような中で、こちらの話を通すのは、とても心苦しいのですが……」

「ウノちゃん? この子のお母さんを、知ってるのっ?」

 続けようとした言葉は、太い声が遮った。

 目を上げると、険しい顔をした顔見知りが、自分を見下ろしている。

 その顔を、若者も不思議そうに見上げていた。

「……」

 二人を見やって咳払いし、ウノは言い直した。

 恩を引き合いに出すよりは、こちらの方が話が早そうだ。

「私の連れ合いが、先程とても恐ろしい思いをいたしまして。それが、あなたの連れの者たちの仕業なのです」

 色黒の男の方は、まだ険しい顔でいるが、若者の方は相変わらず感情の見えない顔で、首を傾げた。

 そのまま次の言葉を待っているように見え、それを受けた兎はそのまま続ける。

「どうやら、あなたがこの騒動に巻き込まれるのを良しとしていない様子で、私の帰りを待つことなく、動く手はずを整えるつもりのようでして、それは、こちらとしては面白くないのです」

「……それは、つまり」

 セイと名乗った若者は、ゆっくりと兎の言葉の意を解した。

「あなたの連れ合いが、エンとオキに、兎の丸焼きにする云々の話の肴にされて、怯えてしまったのが、気に食わないと?」

「……まあ、色々と、思い違いもあるようですが、そう言う事です」

 兎の連れ合いなのだから、兎だろうと最もな考えに行きついたのだなと頷いた男に、セイは首を傾げて続けた。

「でも、そうしたくなる程、あの二人を怒らせたのは、その人たちなんじゃないのか? ただ、脅しただけなのなら、私が出る事はないと思うけど」

「正しく言いますと、怒らせたのは私の連れ合いたちではなく、我らが追っているお尋ね者です。これも、正しいとは言い難いのですが」

 国が、曖昧にすると決めたお尋ね者だ。

 別な恐れをはらむ話を流しはしたが、それは人知れず件のお尋ね者たちを成敗するための、いわばついでの話だった。

 その辺りの話は、恐ろしく込み入った話になる。

 どう話そうかと黙り込んだ兎の男を、セイは静かに待ち続けている。

 そのまま、いつまでも待ち続けそうな塩梅だ。

「……先に、こちらの話を通すぞ、兎の」

 尼僧の急病を受けても妙に呑気な一同に、風変わりな僧侶がしびれを切らした。

「その方が、お主たちの方の話も、進めやすかろう」

「あ、ああ。そうだな。根元は同じなのだから」

 頷いた兎に頷き返し、僧侶はある獣の集落での出来事と、ここに来るに至るいきさつを語った。

 先の村で貰った握り飯を、意外に大きな口を開けて頬張った若者は、ゆっくりと噛みながらその話を聞いていたが、あるくだりで首を傾げた。

 が、まだ口の中が一杯の為、そのまま話を最後まで聞き入っている。

 狸の僧侶が話し終えても黙ったままで、今度は兎が話し始める。

 狸の話の間にまとめた話も、長いものとなってしまったが、若者も傍に控える男たちも、黙ったまま口を挟まず聞き終えた。

「……雅さんも、災難ですね。妙な風習が消えたと思ったら、別な場所に、賊が住み着いてしまうとは」

「しかも、術師崩れですって? 無事、エンちゃんと会えたかしら?」

 固い顔で言う岩のような男と、困ったように笑う色黒の男を交互に見、兎はやれやれと首を振った。

 そんな許嫁の側近を、娘は地面に正座したまま見上げる。

 視線に気づいて一度安心させるように笑い、兎は言った。

「その術師崩れの者たちを、一揆に導こうとして失敗したお尋ね者が、この姫の母方の曽祖父に当たる男で、ここのでくの坊な訳です」

「そうなの。珍しく肉付きが良くない鬼よね」

 地面に倒れたままの法力僧を見て、色黒の男があっさりとした感想を告げると、娘は大きく目を見開いた。

 これで? と言いたい気持ちが見え隠れする姫に苦笑しつつ、兎も頷いた。

「どうやら、生粋の狐にべた惚れしてしまって、それに色々合わせていくうちに、力が弱くなっているようだ」

 代わりに、鬼ではありえない、妖物に効く術を、独自に作り出したというと、色黒の男はわざとらしく目を見開いた。

「だから、あなた達では、手が出ないの?」

「そんな筈、あるか」

 兎はその揶揄いの言葉に、すぐ答えた。

「そこの狸のように、この辺りには守る群れはいないからな。本当は、遠回りする気はなかった」

 自分の連れ合いが、他の手の空いた主たちも連れて来たから、賊の制圧もそう難しくはない。

 人間である賊たちは、斬り捨てることも出来るし、鬼と狐は、自分たちにかかればそう強敵でもない。

「まあ、そうよねえ」

 ウノと名乗っているこの男と、誉と名乗っている大木のような男。

 この二人がいるのならば、小さな獣とこの程度の鬼位、難なく扱えるはずだ。

 いかなる術を使う者にも、音と気配を敏感に解する男が、即対処するだろうし、腕力頼みの者たちは、それこそ腕力が強い男が対処するだろう。

 逆に、色黒の男は気になった。

「ねえ、あなたの主って、どんな方々なの? あなた達が仕えるほどだから、相当変わった御仁たちなんじゃないの?」

「あんたら程、変わってはいないが。元々は、鏡月を起こしてもらえる者を、探していたらしいんだが、徐々に人に関心が出て来たらしくてな、途中から人となりを計る秤の為に、鏡月が眠る山に呼び出していた。金に目がくらんで山に入って出てこない奴が多い中、最後のその男だけが、山の下まで来て断ったそうなんだ」

「ちょっと、もしかして、あの山にあんなおかしな二つ名が出来たの、誉ちゃんのせい?」

「戦が終わるころには、あの試みはやめていたはずだが、意外に永く恐れられていたんだな……そのせいで、生まれるのが遅かったと、思ったんだが」

 呆れた男の言い分に頷いた兎が、若者を一瞥して付け加えたが、どう言う意味なのか尋ねられる前に、セイが口を挟んだ。

「源五郎さんの集落に来た娘さんが、何故、その紐を持っていたのか、分からないんですが」

 先程、エンが捨てずに大量に持っているかもしれないとは聞いたが、それを売ったとは思いたくない。

 もし、旅の途中で路銀に困って売っているのならば、追い出す前にそのブツを取り上げなければと、心に誓っている若者に、源五郎と名乗った狸が重々しく言った。

「どうやら、貰い物のようだ。山に住んでいた男が、その狼の混血を送って来てくれたことは、話したであろう? その男が、これをお守りとして譲ってくれたらしい」

 その男の容姿を聞き、セイは再び首を傾げた。

「……おかしいな。その男が、私の思い当たる男だとしたら、それを持っていないはずだ」

 というか、持てないはずだと言われ、岩のような男が思い当たって頷いた。

「ああ、戒ですね。あの子も、意外に術に弱いですから。お守りとしても持てない程です。地肌に触れなければ、別ですが。でないと、戒は火傷してしまいます。オレも、永くは持てないので、別な場所に置いてます」

 若者の髪の毛は、無意識の産物だから、強弱の調整は出来ていないと言われ、二人の獣が妙な顔になった。

「……無意識。術師崩れとは言え、奴らから身を守れる代物が、無意識の産物」

 唸る狸に構わず、兎が若者の先の疑問に答えた。

「その姉貴分から、渡された物らしい」

 色黒の男が、手を打って頷いた。

「雅ちゃん。やだ、エンちゃんってば、やっぱり気にしてたのね」

 いつものような笑顔で言うが、下世話な考えが見え隠れしている為、それが分かる兎には不気味に見えた。

 自分の事は脇に置いてのお節介な言い分に、兎は苦笑しながら慎重に話を進める。

「わが主たちの、本来の目的の人物は、その戒と言う男でして。その為、あなたに近い者たちとも、顔合わせしてしまったようで」

「力づくで連れて行くつもりが、雅ちゃんに邪魔されて、怪我でもさせちゃった? それは、誉ちゃんが悪いわ」

「むしろそれで、脅しだけというのは、優しすぎますね」

 曖昧に話を収めた男の前で、二人の大きな男が言い切った。

 それを聞き流して若者を見上げると、黙ったまま見返していた。

 無言の促しに、兎は更に慎重に言う。

「この鬼と手を組んだ生粋の狐。その狙いがどうしてもはっきりしなくて、どう治めるかを考えることができなかったのですが、つい先日、それが分かりました」

 二月前に突然、獣を狙おうと言い出し、人にとっては未知である獣を相応に相手取れる駒を、すぐに手に入れた。

 その余りに早い動きが、偶然の産物ではないと伺わせ、こちらを慎重にさせていたのだが、先日、ようやく話が見えた。

 そのきっかけが、狸が治める集落に訪れた、狼の里の連中だった。

 そう言った時、無言だったセイが、不意に口を開いた。

「……ロン、ゼツ」

「どうしたの?」

「はい」

 無感情な声に呼ばれ、二人の大きな男がそれぞれ返事をする。

 話の途中で遮られ、眉を寄せる兎に構わず、若者は呼びかけた二人に告げた。

「先に、村まで行ってくれ。言伝も頼む」

 目を丸くした二人は、一度顔を見合わせてから、それぞれが言い返す。

「ちょっと、あなた一人で、この子たちの頼みを聞く気? 駄目よ」

「そうです。せめて、一人は一緒に……」

「近くに、エンとオキがいる。それだけいれば、後は邪魔だ」

 詰まったロンからゼツに目を向け、若者は無感情に続けた。

「今のあんたは、あまり鼻が利かないだろ? こっちを気にするより、あんたには多恵さんの方を頼みたい。風邪とのことだけど、年が年だ。気弱にもなっているだろう。少しでも、心安らかに療養していてもらいたいんだ」

 確かに、髪染めの匂いに邪魔され、今は鼻が利きにくい男は、僅かに眉を寄せて頷きながらも、言い返す。

「オレより、あなたが戻れば、一番心安らかなはずです」

「それが出来ないから、言伝を頼むと言ってる」

 何故、と目で問う二人に、セイはきっぱりと言った。

「この二人、あんた達には、詳しい話が出来ないと、そう断じた」

 呑気に竹の茶筒を傾けていた僧侶が、若者の傍で口の中身を盛大に噴出した。

「だから、奥歯にものが挟まったような物言いしか、してくれない。お蔭で全く話が見えないんだよ」

 兎も、つい吹き出してしまいそうになり、ロンと呼ばれた色黒の男に睨まれる。

「何ですって?」

「頼むことって、その集落の一掃でしょう? それ以外に、頼みごとがありますか?」

 ゼツと呼ばれた岩のような男にも睨まれつつ、ウノはそれでも笑いが止まらない。

「ウノちゃん?」

「いや、しばし、待ってくれ。息が……」

 慌てた娘が背中を叩いてくれ、ようやく笑いを治めると、大きく息を吐いてから言った。

「致し方ないだろう。このお二方、根元の所から、話の道を違えている。これでは、本当の胸の内を話すのは、無理だ」

 静かに笑う狸が、体を丸めて震えながらも、それに無言で頷いている。

「だったら、その根元の間違いを正しなさいよ。その位、あなたならできるでしょう?」

「寝言は寝て言えよ、旦那。何で、あんたらの間違いを、オレが正してやらなきゃいけない?」

 笑顔で怒る男から若者に目を向け、まだ笑いを残したまま、続けた。

「本当の頼みを通す前に、取りあえずその、重そうな腰を上げて貰おうと、話をひねり出していたんだが、それはいらぬことだったんだな。あんた、この二人に、命令できる位置にいるんだな?」

 その問いに答えたのは、珍しく苦い思いを表に出した、ロンだった。

「カスミちゃんの後に、頭領に収まってるの。命令なら、聞くしかないけど、本当に、この子にしか、話さないつもり?」

 答えた後に逆に問われ、ウノは若者を一瞥した。

 その意を受けて、セイが頷く。

「あんた達が、聞くことはないだろう。今言ったように、先に村に向かってくれ」

 二人は、本当に渋々と頷き、すぐに音もなく立ち去った。

 立ち去る時は躊躇いない所を見ると、若者の事を信じているのだろう。

 二人が山を出、村に向かったのを確かめ顔を上げた二人の獣は、セイが腰を上げて自分達と同じように、地面に腰を落とすのを見た。

 胡坐をかきながら、竹皮の包みを開き、前で正座をしたまま黙り込んでいた娘の前に置く。

 仕草でそれを勧めながら、切り出した。

「あんた達の頼みは、何だ?」

 狸と兎の獣が目を交わし、狸の方が答えた。

「件の生粋の狐を、今度こそ完全に、この世から消して欲しい」

 頼みと言いつつ、獣たちは完全に威嚇していた。

 こちらの頼みとは程遠い言い分で、娘も驚いて二人を見たが、兎の様子が緊迫しているのを見て、何も言えずに黙り込んで手元を見つめる。

 勧められた握り飯を頬張る娘をよそに、若者と獣二人は、静かに話を始めた。



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