ぬいぐるみちゃんが見てる
桜枕
短編
中途入社した新人くんの教育係を任されてしまった。
さすが経験者ということもあり、特に教えることはない。この会社の細かいルールなどの説明だけで基本的な業務は任せて大丈夫だと判断した。
「書類の確認をお願いします。こんな時間になってしまって、すみません」
「はい。いいですよ」
定時まであと10分。
少し仕事を振りすぎたか。
反省しつつ、軽く書類に目を通す。
今日はさっさと帰らせて訂正箇所の指摘は来週でいいだろう。
「お疲れ様。じゃあ、月曜日にね」
「今週中に終わらせたいんで待ってます」
「ダメ。もう定時だから帰りなさい」
それ以上の反論を許さずデスクに視線を戻す。
何か言いたそうな雰囲気は察したが無視を貫き、「お疲れ様でした」と小さく挨拶して退社する彼の背中を横目で眺めた。
そして、帰宅後。
「はぁ〜。なんで、あんな言い方しかできないのかな!? 絶対機嫌を損ねた。怖い人だって思われたって」
彼が入社してかれこれ3ヶ月が経つ。
まだ距離感が遠いのは私が素直な性格ではないからか。
あれか、飲みニケーションをしていないからか!?
シャワーを浴びながら今日の反省会を終えてスマホをいじっていると、巷で有名なキャラクターのぬいぐるみがゲームセンターのプライズ品となっているという情報を得た。
これは我が家にお招きしなければならない。
使命感に駆られた私は休日の午前中からゲームセンターに向かった。
ギターやドラムを模したコントローラーを巧みに操るゲーム、いわゆる音ゲーと呼ばれるコーナーを通り過ぎ、挑発的なクレーンと睨めっこしている。
私は君に何円注ぎ込めばいい?
既に2回も両替を行なっているのに、まだ財布の口を開けさせようと言うのか。
葛藤しながら吊るされたネコがサメのパーカーを羽織っているぬいぐるみと両替機を交互に睨む。
「あれ、先輩?」
その声をはっとして振り向くと一番会いたくない人物が立っていた。
「や、これは……ちがっ」
職場の人には絶対に見られたくない姿を後輩に見られてしまい焦る。
「あ〜。ちょっと、いいっすか」
意味深に呟いた彼は私と筐体の間に体を滑り込ませ、さっと100円玉を入れた。
慣れた手つきでクレーンを操作し、私が苦戦していたぬいぐるみを一発で取ってしまった。
「すごっ!」
「はい。どうぞ」
「え!? いいの!?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
気持ちの悪い笑みを崩し、雑にぬいぐるみを受け取って袋に詰める。
「ありがとうございます。お金は返します」
財布を開いた所で自分が小銭を持っていないことを思い出す。
両替機へ向かおうとする私に向かって、彼が「それから予定があるんでいいっすよ」と笑顔で言った。
「後日、必ず返します」
「はい! お疲れ様っす」
弱みを握られた。
月曜日、行きたくない。
ぬいぐるみ一つに苦戦していた女のくせに、偉そうに誤字の指摘すんじゃねーよ。って思われたらどうしよう。
帰宅後、取ってもらったぬいぐるみを棚の上に飾り、無意識的に部屋着に着替えようとしていた体を止めた。
「なに見てんだ」
物欲しそうにしている表情がどことなく彼に似ている気がする。
そう感じると気恥ずかしくなってしまった。
「……あっち向いてろ」
頭を鷲掴みにして壁の方へ180°回転させてから着替えを始める。
そのまま、昼食の準備を進めていると寂しそうな背中が視界に映った。
「……仕方ない」
再び、180°回転させて部屋を一望できるようにしてやった。
「やっぱり落ち着かない」
数時間後、風呂上がりに再び壁の方へ向けてからずっとそのままにしておいた。
そして迎えた月曜日。
「お金、返しますから」
「いりませんって。それよりも飲みに行きませんか?」
彼が我が家にやってきて、「あれっ!? あのぬいぐるみ、なんで壁の方を向いてんすか!?」と言い出すのはもう少し後の話だ。
ぬいぐるみちゃんが見てる 桜枕 @sakuramakura
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