私の日
藤井咲
全編
「あなたより先に死にたい。」
最近の口癖はこれだ。
彼と出会って驚くほど、甘やかされること、甘えることに慣れた。甘やかすことも。
彼といるといつだって甘えた子供みたいに、構ってもらうことを当然と思い、それを心の底から安心する。
昔はいつだって一人で生きられると思っていた。
誰よりも長生きして、この地球の終わりを見届けられる気概でいたのだ。
冬は朝六時過ぎでもまだ外は暗く、ほんの僅かに空の端が赤と紺で混じっているのが分かる。
朝起きてまずすることは、家中の窓を開けること。一気に家の中を冷たい風が乗っ取る。
白い月が太陽と入れ替わりだした。
今日も朝がやってくる。
彼はまだ寝室で寝ていて、うす灰色の毛布にくるまっている。
とても無防備だ。安心してくれているのだと嬉しくなる。
ぐっすりと寝ている彼の顔には短く整えられた黒髪がかかり、長い睫毛が目に影を作っている。
彼の頬には大抵睫毛がくっついている。(起きているときは睫毛をとって、彼の目の前に指をたてる。彼は何も言わず、睫毛にフッと空気を吹く。同時に何かお願い事をしている。内容はきいちゃいけない。)
私たちには様々な、お互いにしか分からない合図や暗号があって、それはとても幸せなことだ。
例えば鳥の真似事をして求愛をすることも、一般的には男がする腕枕は私の役目だということも。
私は壁にかかっている黒と白が斑模様のバスローブを羽織って洗面所に行く。
顔を洗って、今日も自分が美しいか確かめる。彼の気に入っている顔がそこにあるかどうか、確認する。
その後は家中に掃除機をかける。
ウォークインクローゼット、ベッドルーム、廊下、リビング、書斎の順に。
毎日掃除機をかけるが、一日も経たないうちにほこりは出る。少し鬱陶しい。
夜のうちに水に浸しておいた米を土鍋に入れ火にかける。(土鍋は母が結婚祝いにくれた)
その間に花瓶の水を替え(なんと今は十五個もある)、ベランダの植物たちにも水をあげる。
昨日ようやくスノードロップが白い花をみせた。うつむくように咲く白く小さい花は少女のようだ。
陶器に入っているぬか床をかき混ぜて、朝食用の漬物を取り出す。
火にかけた土鍋は蒸気を上げてぽこぽこ鳴り、弱火にしてほしいと私を呼ぶ。
美味しく炊くコツは、蒸す前に余分な蒸気を出すことだそうだ。
我が家の朝食は基本的に御粥で、今炊いている米は彼のお弁当用だ。
お弁当は、一週間ごとの作り置きのおかずを適当に配置して出来上がる。金平にポテトサラダ、春雨サラダが今日のお弁当の副菜でメインは唐揚げ。
きちんと野菜をとって、体の調子を整えることが好きだ。
彼は分かりやすい味が好きみたい。
唐揚げとか、生姜焼きとか。
ハーブやナンプラーといった癖のある調味料を使った料理を以前は多く好んで作っていたが、最近は作っていない。
「複雑すぎて味が分からない」
はにかみながら彼は言った。
食の好みはそこまで似ていないが、好き嫌いなく食べてくれるのは有難い。元々食への興味が薄いのだろう。
キッチンの換気扇を入れるとゴォーと太い音が頭上を流れる。
少し換気扇に油がたまってきた。週末には週に一度の大掃除だ。
鳩時計が七回鳴いた。
朝七時になると大分陽は昇って、窓から光が差し込む。
窓際に置いているボトルツリーは外からの風に揺さぶられて楽しそう。緑が鈍く光る。
朝食が出来上がる頃、ようやく彼が起きてくる。
そして私にキスをくれる。
髭が当たらないように口を尖らせる様はいつもより幼く見える。
長く伸びた髭は少しにおう。肌によだれを垂らした匂いというか、肌を舌が滑らせた匂いというか。
彼がシャワーを浴び終わるのを待ち、リビングの真ん中にある背の高い紺色の机に朝食を並べる。
今日は鶏皮入りの中華粥ときゅうりのぬか漬けで、うちの定番メニューだ。
机の下に隠れている長スツールは二人で選んだ。
緑と茶色の色違いで、四本の柱で支えられている。椅子部分は木製だ。
背もたれがないので座ると骨盤が立つ。
長スツールを横並びにして朝をむかえる。
私は毎日聞く。
「おいしい?」
彼は毎日答える。
「うん、おいしいよ」
朝の風景はどんなに雨が降って家全体が暗くても、晴れて蒸し暑くても、同じようにやってくる。
勿論、喧嘩をした朝でも。
彼とは留学中に出会った。
私は二十二歳、彼は二十一歳で、お互いデザインの勉強をしていた。
インターン先が同じだったことで顔見知りになったが、すぐに学校が同じことも判明し話をするようになった。
好きな物の話や生い立ち。
なにになりたい?
どう生きていきたい?
今、何を考えている?
どれだけ話をしても話し足りなかった。
インターン先は駅から十五分程歩いたアパートの一室で、そこに行きつくまでに壁にびっしりと描かれた目のペイントがずっと続いていた。私は横目でそれを見て歩いた。
お世辞にも治安が良いといえる場所ではなかっただろう。
ボスは日本人で、大学院を出てすぐフリーになり、アパートメントの家賃で日銭を稼いでいるような少し怪しい男性だった。思い出すことといえば胡散臭い笑顔だが、悪い人ではなかったように思う。
そこでは彼と私だけが喫煙者で、彼はシガー、私は巻き煙草を好んだ。
ある日、市場調査の名目で市内のアトリエをインターン先の人たちで見学することになり、昼前には解散した。
私は彼の誘いで街をぶらつくことになった。
それまで二人で出かけたことがないわけではなかったが、私たちはお互いを模索していて、好ましくおもっていることを理解していたが一歩踏み出せずにいた。
甘い空気を思い出す。
金のハイライトをいれた長い前髪と神経質そうな細い指は茶色い紙で巻かれたシガーを持ち、口元に運ぶ。
どこに行くにも警戒心を捨てなかった。
三軒はしごをして、ピアノバーに行った。彼の住むアパートメントのすぐ近くにあって、店内はステージが真ん中にあり、薄暗かった。
毎晩生演奏をしてくれるジャズクラブらしい。
私たちは白ワインをボトルで頼み、席がなかったのでステージの端にある柱に背をかけた。
周りには落ち着いた夫婦が多く、その晩のピアニストの音に耳を傾けていた。
彼は猛烈に酔っぱらっていて、初めて警戒心を解いた。
そしてワインボトルをラッパ飲みしながらぽろぽろ泣いたのだ。
「生まれてこないほうが良かったと思う。」そういった彼は寂しそうに涙を溢した。
その時代、私たちは家族と上手く接することが出来なかった。
家族に対するコンプレックス、もとい嫌悪感というのか言葉にしづらい複雑な心境がいつも頭から消えず、そういった感覚はとても良く似ていた。
二人の共通項にもなった。
彼は父を早くに亡くしていて、小学校からは雪の深い日本から遠い国で母親と暮らした。
私の両親は幼少期から仲が悪く、家庭内別居が続いた後、離婚した。
私にとって“幸せ”というものは未知数で、私は誰かを幸せにすることが出来ない人間だ、とこの頃、不安に思っていたことを覚えている。
その日は朝まで飲み明かし、彼のアパートメントに泊まった。
二人ともぐちゃぐちゃになった。
その後私たちはいろんな国や町に二人で行った。
夜の散歩に出かけたパリ、魚市場を見物したマルセイユ、マルタ島中を壊れそうなレンタカーで回った。
その頃には、彼のアパートに一緒に住むようになっていて、喧嘩をすることもあった。
時間は流れ、私が滞在出来る期限が迫っていた。
彼はまだ日本に帰るか迷っていた。
思いつめた顔で彼は言った。
「あなたは自分のすることが誰にも影響がないと思っているだろうけど、それは違う。僕はあなたが好きだし、尊敬してる。このままずっと一緒にいたい。でもあなたの中のその奔放さが、僕に飽きたらどこかにいなくなってしまうんじゃないかって不安なんだ。もっと白状すると、あなたの存在は僕にとって都合のよい僕の妄想で、日本に帰ったら本当はあなたはいなくてただの僕の想像から生まれた人なんじゃないかって、怖いんだよ。信じていいの?君は本当にいるの?一生一緒にいてくれるの?」
アパートのバスタブにお湯をはったバスルームは湯気で曇っていて、彼の顔はぼんやりとしか見えなかった。
私は愛しさのあまり彼に熱烈なキスを送って、初めて“愛おしい”という感覚をもらった。
私たちは日本に帰った。
私は希望した職につき、彼は大学を無事卒業し、彼もまた希望の仕事についた。
その頃には私たちは家族とバランスのとれた距離で関係を修復することが出来た。
愛情を与えあえる存在と出会い、私の身体は愛に飢えるのをやめた。愛に包まれる“幸せ”を彼が教えてくれた。
そして結婚し、ここにいる。
彼を玄関まで見送ってから、私は日課である電子ピアノを弾く。
この家に引っ越して二か月程の時、ある国の恋人達の映画をみた。
影響された彼がピアノを弾きたいと言い出して譲り受けた品だ。
男の恋人がピアニスト役の映画だった。最後は心中してしまう。
結局彼は一、二度触って気がすんだのか聞く専門になり、私は毎日一時間、気分転換に使っている。
去年のクリスマスには二人が好きな曲を練習して弾いた。
クリスマスツリーにはオーナメントクッキーを吊るして、蝋燭があちこちを灯した。
家中に飾ってあるドライフラワーや生花は壁に影をつくっていた。
書斎には大きな机が二つ。
今日は人に送る為の絵はがきを描いた。
大学時代の友達で、誕生日が同じ日という理由で意気投合した。
彼女は薔薇が好きで、毎年薔薇の花束を贈っている。
誕生日の前日は彼女の日で、毎年会ってお互いを祝っていた。
今年は出会ってから初めて会わない。宅配で花束を贈る予定だ。
水彩絵の具でぴんくの薔薇をはがきの真ん中に描いた。黒字でメッセージを書く。
さて、何を伝えよう。
随分陳腐な文章しか浮かんでこない。
元気かどうか、変わったことは、心配なことはないか。
気になることはたくさんあるのに、どうやって聞けばよいか分からなかった。
最近は、人と会うことが億劫だと感じる。
家にこもっているせいでめっきり人と話さなくなったからかもしれない。
でも不安はあまり感じていない。
会えばきっと学生時代のようにたわいもない話を出来る友達だ。
いつか猛烈に会いたい!と思った時に会えばいいだろう。
私の意識は今、家に向いているのだと思う。
穏やかに流れる心地よい空間を壊したくない。流れをせき止めたくない。
毎日のルーティンをこなし、穏やかに外を見る。
凪のような私の心象は私を幸せに包み込んでいく。
かつてあった激情は鳴りを潜め、小さな波紋はゆっくり大きく広がっていくが、生まれて初めての安心を甘受している。
自分でいることだけで肯定される状況は甘い花の蜜のようだ。
甘くて、小さい頃憧れたふわふわのピンク色。
結局薔薇を描いた絵はがきは自分で持っておくことにした。
手を使う作業が好きだ。物を作ることも。
蝋燭を作ったり、服を縫ったり、絵を描くことも。
でも、どれもちょっとつまんでまた別のことに興味がうつっての繰り返しになってしまう。
元来飽き性だ。
「なんでもできる人は何も出来ないと一緒だよ。」
誰が言っていたか、それとも何かで見たのか、覚えていないがその通りだと思う。
自分の生きた証は自分の作った物が命を持つことで証明してくれると信じている。
しかし、私はまだ何も証明できていない。
「やりたいことをやろう。」
そういって私の背中を押してくれる彼に、支えられている。
午後三時には洗濯物を取り込む。陽がさし込む時間帯に洗濯物が乾くと嬉しい。自然にさらされた繊維がふっくらして肌触りが違う気がする。
三軒前の子供は大抵この時間に帰ってきて、町中に響き渡らせるように叫ぶ。
「ただいまーーー」
黒いランドセルを背負って、いつも短パンだ。
母親は負けじと声を張り上げる。
「おかえりーーー!」
リビングの長スツールに腰かけて、窓から見える松林をぼんやりとみる。
太陽は雲に出たり入ったりを繰り返して、松林の色は逐一変わる。
風が強い日はガサガサ乾いた葉が揺れて重なり、空洞の奥から響くような音がする。
太陽を浴びると先端の茶色く枯れた部分と中ほどの黄色い部分が良く見える。
ムクドリが鳴きながら羽を広げる。
半円を描くように繰り返し飛ぶ姿は遠く去っていった。
目の前の松林を見ると緑色が九割以上を占めるのに、私の目にとまるのは太陽にやかれた葉のオレンジだ。
丁度家と松林は、道を挟むような位置で、そのせいか人の足音や声はよく響く。
少しくぐもった笑い声や、近所の子供が遊ぶ声。
車がエンジンをかける音、砂利道を歩くすり足。
遠くから聞こえる学校のチャイム。
網戸越しに見聞き出来る外の風景はいつもゆっくりと太陽に映し出される。
雨の日は水の叩きつける音、屋根や松林に横なぶりになる。
鳩時計は五時を告げた。
彼の仕事の都合で知らない街にきて随分経つ。
日本列島の丁度真ん中に位置するここは、夏は蒸し暑く冬は寒い。
家から歩いて五分もかからず大きな川があり、今まで日本で見た(そんなに数を見ていないが)川の中でぴか一に綺麗な川だった。大きな川の支流なのだそうだ。
乙川にはカワウやアオサギ、カワセミやシギ等小鳥も多い。
ここにくるまでは鳥に興味はあってもバードウォッチングをやるほどではなかったのだが、こうも綺麗な鳥が近くにいると思うとハマってしまった。
今では双眼鏡を持ち、片手には野鳥図鑑を握りしめ鳥の動向を追っているのである。
彼が職場まで自転車で通うことになり、その影響で私も自転車に乗るようになった。
ピンクのスタイリッシュなシティーバイクを買ってもらってはしゃいだ自分を思い浮かべる。
いい街だ。
祭り事が好きな地域らしく、四季折々の行事を活発に行う。
私たちは参加こそしないが、外から聞こえる賑やかな音に耳を澄ませ、あれこれと想像しては楽しむ。
車社会の県なので、スーパーは少し遠い。この町に来る前に住んでいた関東の上に位置する町は、八百屋や肉屋、魚屋が点々と歩ける距離にあり、スーパーで買うより新鮮で安いだろうとせっせと歩いて買い物をしていた。懐かしい気持ちになる。
住んでいたのは二年と短い期間だったが思い出が多い街だ。
その町に住んでいたころは、東横線と半蔵門線を乗り継いで職場に通っていた。
東京で毎日泣きながら深夜まで働いていた自分は、本当に同じ人間なのか。
時々夢にみる。
あの時辞めることを決めた自分の選択を後悔はしていない。一度も。
風が強くなってきた。
ベランダにあるグミの木が、あと一枚の葉を飛ばされるものかと身を硬くしている。
夜は気づくと目の前にあった。
松林は黒く身を潜め、葉の揺れる音だけが存在を示す。
明るい光が苦手な私たちは、照明の光量を最低限に抑えた。
昼の穏やかさと変わり、少し不気味で止まっている部屋に一人動く自分がいる。
ふすまの少しの間、ドアの後ろ、見えない影。小さいころから隙間が怖かった。
何もいないのに、現実よりよっぽど恐ろしい、、いもしない存在を頭で作り上げてしまうのだ。
音楽をかけてみても、どこかしんと静まっていて、家の物たちは皆寝静まったようにも感じる。
彼は最近帰りが遅く、いつも一緒に入っていたお風呂は一人で入ることが増えた。
胸までたまってあるお湯は、中に浮かぶ私の身体をぼかす。
つまめる贅肉が増えた。
贅沢の肉と書いて贅肉。
なにもしない時間を持てるということは、それだけで贅沢なのだろう。
常に体を動かし、何かに追われていた。
何かをしていないと何も得られないと思い込んでいたのだ。
なにもしなくても私はこの目で、耳でちゃんと感じている。あの杞憂は若さゆえか。
お湯の中に顔を突っ込み目を開けた。水音が耳に鳴る。
寝室と玄関の照明だけ点け、ベッドに入る。
足の先まで何かにくるまっていると安心した。
まるでバリアを張ったように、この中には何も入ってくることが出来ない。
魔法のようだ。
一人でいる夜の家は少し怖い。
外でカンカンカン、と大きな足音がきこえる。
四階まで階段をあがってくる音だ。
一瞬音が静まり、ガチャガチャと鍵をあげる音がする。
「ただいまーー」
いつもより少し疲れた声で彼が言った。
彼は少し慌てながら、靴を脱ぎ、寝室に顔を出す。
「寝ちゃった?」
くるまっていた白い羽毛布団の中から顔を出す。
「おかえり!」
彼が家に帰ってくると家の中がぱっと明るくなる。
家全体が彼の帰りを喜んでいるようだ。
出会った頃のあの言葉は今も彼の中にあるだろうか。あの悲しみは少しでも彼の中から取り除かれただろうか。私は彼が生きる理由に、なれているだろうか。
何もしない日々を責めることはせず、認めよう。
そして、私に出来ることをやっていこう。
一日の何かはなくなり、私は安心して目を閉じた。今日も健やかに眠りにつく。
私の日 藤井咲 @kisayamitsube
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