『クマ、三姉妹を見送る』 ある一家のイヤーズベアの物語

月波結

3匹のクマ

 ぬいぐるみは怖い。

 なぜなら目玉がガラスのように暗闇の中で光を反射するから。

 うちの玄関には3体の、小ぶりなクマのイヤーズベアが飾られている。クマの足の裏に、発売した年が刺繍されている。パパとママはお姉ちゃんが生まれた年、ふらりと寄った百貨店でイヤーズベアを見つけた。

 かわいい上に手頃なサイズ。すぐお買い求めになった。

 それからは末っ子のわたしが生まれるまで、お姉ちゃん、下のお姉ちゃん、わたしと3体のイヤーズベアを買った。

 そしてそれを我が家のシンボルのひとつとして、玄関に飾っている。


 わたしのクマはお姉ちゃんたちのものとは少し違う。

 シロクマなんだ。

 青と白のイカしたセーターを着ている。

 イヤーズベアとは冬に売られるものらしい。販売中止してしまい、ほかの店を回ってようやく似たものを見つけたらしい。

 マフラーまでつけている。

 かわいいと言えばかわいい。でも、夜中に玄関脇にあるトイレに行く時にはやっぱりそっちを向きたくない。

 パパとママは、クマたちをわたしたちの守護者ガーディアンみたいに言うけど、本当にそうなんだろうか?

 ヤツらはいつか爪を尖らせ、歯を剥くかもしれない。


 ◇


 クマたちはわたしたちが大きくなるまでずっと玄関に鎮座していた。

 時々、パパが外で埃を叩いていたけれど、虫食うこともなく、相変わらず玄関の守護者だった。

 自転車で高校から帰ってくると、玄関を開けて「ただいま」と言う時についクマを見てしまう習慣がついてしまった。

 あんなに怖いと思っていたクマも、これだけ一緒に暮らしていれば恐さ半減、かわいさ半分だ。

 日々の埃を思うと持ち上げたいという気にはならなかったけど、ふと頭の中で抱きしめている想像をすることもあった。


 ◇


 クマはいつもそこにいて、そして触れられない。

 いるけれども、いないような、不思議な存在だ。


 ◇


 上のお姉ちゃんがお嫁に行く時、迷った末にクマを置いていった。仲間と一緒の方がさみしくないでしょう、と言った。

 わたしは、お姉ちゃんと別れてしまうことと、クマ仲間と別れてしまうことのどちらがクマにとって辛いんだろう、と考えた。

 でも確かに、末っ子のわたしが見た時は三位一体みたいなことになっていたので、離れ離れになるのはクマにとってはよろしくないことなのかもしれない。

 彼らにとってはそれが自然なように思えた。

 クマたちは瞳を輝かせて、お姉ちゃんの出立を祝った。


 ◇


 下のお姉ちゃんが家を出る時、お姉ちゃんはクマを連れていくかすごく悩んでいた。

 なぜならお姉ちゃんのベッドは常にぬいぐるみであふれていて、もう一匹、荷物を増やして連れていくか、スペース的な問題として迷っていた。

 合わせて、お姉ちゃんはぬいぐるみと触れ合うことが好きなタイプだったので、20年ちょっと放置されて埃をかぶったクマを連れていくのを結局、躊躇った。

 お姉ちゃんとしては、触れ合えないクマを新居に飾るより、やっぱりクマはクマ同士、今まで通り、3匹でいる方が楽しいのではないかと結論づけた。

 クマたちは下のお姉ちゃんも、瞳の奥に笑みを浮かべて送り出した。


 ◇


 わたしは家を出たいと積極的に思わなかった。

 なぜならわたしの生業はイラストレーターで、仕事をする環境は、お姉ちゃんたちが出ていった家を広々使って確保していたし、娘ふたりが出ていった両親がわたしの在宅ワークで喜ぶなら、このまま家にいてもいいんじゃないかと思っていた。

 わたしの望むのは自由気ままな暮らしで、思春期にあんなに狭苦しく感じた家はわたしにとって開放された空間になっていた。

 家を出る、ということは夜空に浮かぶ月のように遠かった。


 夜、飲み物買ってくると言ってママチャリを出して家を出た。むかしはそういう夜遊びのようなことをすることをママは堅く禁じていたけれど、ハタチを優に超えたわたしは自由だった。

 少し肌寒い5月の空気をまとって、自転車をまったり走らせる。自動式のライトの明かりがわたしの自転車を漕ぐスピードに合わせて揺れる。

 ゆらゆら、海底をさまようチョウチンアンコウのように。

 コンビニでアイスを買って目の前の公園のぶらんこに乗った。前に、後ろに。ぶらんこは、仕方がないから揺れてやってるといった具合だった。


桜和さわ

 振り向くとコンビニの光を背負って木下がこっちに向かって来る。中学からの男友だちだ。

「おう、木下じゃん。こんな時間になに買いに来たの~? まさか彼女と食べるデザートとか? マジか~」

 ケタケタ笑うと、アイスバーはぼとりと棒から落ちた。

 あ、とふたりで同じ方向を見る。

 そしてお互いの顔を見た。

 木下は決してブサイクなわけじゃない。強いて言えば。もう少し⋯⋯例えば角張ったセルフレームの眼鏡をコンタクトにするとか、髪を切るのは1000円カットはやめてサロンにするとか、そういう単純なひと手間でもう少しマシな男になるはずだ。

 つまり、イマドキ感が足りない。

 というわけで、特にときめきもない。


「お前さ、こんな夜中に女一人で公園はまずいだろう」

「なにが? アイス、おいしかったよ。落ちたけど」

「そういう問題じゃなくてさぁ」

 木下は会社が決まってからさっさと家を出て、川向こうのアパートに引っ越した。赤い軽自動車に乗って。だから、こんなところで会うとは思わなかったし、週末の夜は連れ込んだ彼女と水入らずなんだと思ってた。

 なにこいつ、わたしの心配なんかしてるんだ?

「早く帰らないと、彼女に疑われるよ~。どうせGPSアプリとか使って、お互いの居場所を監視したりするんでしょ? はぁ、マッチングアプリといい、便利なんだか不便なんだかわかんない世の中だよね」

 木下の目は、コンビニの明かりを受けて、まるでクマの目のように光って見えた。

 あの丸い瞳のクマのように、なにかをしゃべりたがっているのに口が動かないみたいだった。


「彼女なんていないよ。桜和が一番わかるんじゃない?」

「そんなの! 社会に出た男の変化なんかわかんないよ」

 わたしはまた声を上げて笑った。別に酔っていたわけじゃない。そういう性質なんだ。

 中学の頃、末っ子だったわたしの莫大な愚痴を聞いてくれた木下とは、確かにちょっと違う気もした。

 でもあれから10年とか経ったし、それは時の流れの範疇であるように思えた。


 木下は隣のぶらんこに座った。

 わたしみたいに揺らしたりせず、足は地面にくっついたままだった。

 なにかを言いたいなら、言えばいいのに、と思った。

「彼女」

「うん?」

「彼女というより寧ろ、嫁に来てくれない?」


「はぁ?」


 この男の脳内はどうなってしまったんだろう。

 15の夜に家出につき合ってくれたあの時と、今の間にどんな変化があったらこんなことになるんだろう?


「⋯⋯いや、母さん、癌検診、再検査で」

「おばさん? 大変じゃん」

「まだわかんないんだけど、なんかさ、やっぱり親って放っておけないっていうかさ」

 木下の家は農家兼造園業を営んでいて、おじさん、おばさんどころか、まだ木下のおじいちゃんも健在だ。家業で暮らしている。大きな木を、青いトラックの荷台に載せて運んでいくのを見る。そのトラックには『木下造園』と白抜きの文字が書かれている。

「まぁ、それはなくはないね。わたしも自分が出たら、パパとママは寂しくなると思う」

 はぁ、と下を向いて木下はため息をついた。

 わざとじゃないかと思うくらい、大きなため息だった。


 コンビニのドアが開いたり閉まったりする度に、チャイムの音と「いらっしゃいませ」という機械音声のような声が聞こえる。

 こことそこには見えないカーテンが引かれているようで、わたしたちは夜の底でぼそぼそ話を続けた。


「それだけじゃなくて、その、あらゆる意味で桜和は俺にとって特別だから」

「はぁ」

「中学の時から、別に好きとかじゃ絶対なかったんだけど、どうしても気になって。ひとりにしておいたら危ないやつっていうか」

「好きとかじゃないとか本人の目の前で言うか?」

「だからさ、ちょっと間違ってるかもしれないけど、お前とならこれから先、ずっと一緒にいてもいいかなって」


 なんか腑に落ちない。

 好きじゃないけど? は? 結婚てLoveがないとダメじゃないの? eternal永遠foreverいつまでもじゃないの?

 ⋯⋯笑えない。

 愛されてないのに嫁に来いってか。マジか⋯⋯。


「でもわたし、家を出る気、ちっともないんだけど」

「末っ子じゃん」

「お姉ちゃんたち、お嫁に出たもん」

「ふたりとも?」

「じゃなきゃ、わたしが家にいづらいじゃん。小姑みたいなのやだし」

「⋯⋯そうか、じゃあ嫁に来てもらうのは無理か」


 公園の白い街灯に邪魔されてよく見えない星を見上げる。

 ぶらんこはキーコ、キーコと鳴り続けてる。

 結婚か⋯⋯。考えたこともなかったなぁ。


 細い糸のように雨が降る中、傘も持たずに家を出た15の夜、LINEひとつで傘を持って現れた木下はずっと話を聞いてくれて、時間が夜中の1時になった時、「そろそろ帰ろうか?」とまるで学校帰りのように、普通にそう言った。

 わたしはこいつはもしかしたら『大人』なのかもしれない、とその時、思った。

 そうか、放っておけなかったのか――。


 まとめると、今までの人生で同じような人はいなかった。

 あの彼も、その彼も。

 わたしにとっても特別だったのは⋯⋯。


「結婚しちゃうか」

「え?」

「自分で言い出してなによそれ?」

「だってお前、一生の問題だぞ」

「だから、言い出したのはそっち」


 木下の人差し指が、わたしの唇に蓋をした。

 まるでキスしたみたいに。

「お前、夜中に声デカいんだよ。変わらないなぁ」

「うるさいなぁ、化石生物だって生きてるんだよ」

 ファーストキスは忘れそうなくらいむかしのことなのに、胸の鼓動は尋常ではなかった。よく知ってる人の、知らなかった指先の感触がまだ生々しく残ってて、いやらしい。


「じゃあ、そういう方向でがんばるってことで、努力目標」

「ああ、安達センセー、よく言ってたね。『努力目標』持てって」

「『経過』より『結果』より先に、『目標』を持てってな。まさか今ごろ役に立つとか」


 いつの間にかふたりのぶらんこは止まっていて、笑い声だけが夜の公園に響いた。

 同じ時間を共有してきた人に、木下を見る目が変わった。

 そしてわたしたちは初めてのキスをした。わたしはぶらんこの鎖をギュッと握りしめて目をつぶった。木下の乗ってるぶらんこがギッと鈍い音を立てて、唇がとうとう触れたと思った瞬間に、木下はぶらんこから落ちた。

 相変わらず『冴えない』。


 ◇


『努力目標』は人生ゲームのコマのようにどんどん進んで、気がつけばわたしは真っ白なウェディングドレスを身にまとっていた。鏡の中のわたしに問う。「Loveでeternalでforeverなのか?」って。

 そんなこと、始まらないとわからない。


 わたしは木下の家から実家に通い、仕事をした。

 パパとママは喜んだし、時には木下がうちに来て泊まっていった。

 お嫁に行くというけれど、今はいろんな形があるもんだ。

 でも、うちの夫は相変わらず冴えないけど、マッチングアプリでろくでもない男に騙されるよりマシだろう。


 ◇


 家を出る時、クマたちと思い切って腹を割って話をした。

 彼らはどうしたいのか?

 わたしには3匹のクマの行く末が心配だったから。

 たぶん、クマたちはクスクス笑った。くすぐるように。

 そしてその目は、彼らの横に飾られたわたしたち姉妹の子供の頃の写真に向けられているように見えた。もちろん、吹き抜けのペンダントライトが反射しただけかもしれない。


 でもわたしは了解した。

 勘違いしてたのはわたしだ。

 クマたちはここからいつだって、わたしたちを見守っていたんだ。お姉ちゃんも、下のお姉ちゃんも、わたしも。クマに見守られて大きくなったんだ。

 ――そう思うと、家を出る時、わたしもやはりクマを持っていくのをやめた。


 クマたちは変わらない丸いガラス玉のような瞳で無表情にわたしを見送った。

「行っておいで」としましまのセーターを着たわたしのシロクマに、そっと背中を押されて一歩を踏み出した。


(了)

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『クマ、三姉妹を見送る』 ある一家のイヤーズベアの物語 月波結 @musubi-me

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