第13話

「篠宮さんって冷静よね。その相性が良いのがすごいって話じゃない。噂によると運命の番と関係を結べば抑制剤が必要なくなるらしいわ。……でもこれって私たちの商売上がったりよね?」

「それこそ1%の確率ですよ。気にするほどのことじゃないです。それに、抑制剤が必要なくなるほどの体質改善は僕たちの課題でもありますよ」

「確かにそれもそうね……」


 神城さんは顎に手を当てて何度か頷いて五紀の言葉を噛み砕いているようだった。


 運命の番を前にしても臆することなく普通に振る舞う五紀を見て、これほど自制できるものかと感心してしまう。神城さんもそうだが、あまりにも普通だった。通常、運命の番を前にしたΩやαは自制が効かず、何時間……あるいは何日間にも渡って繋がり続けるという話を聞いたことがある。それこそ都市伝説だとは思うが、それでも少なからずそういう欲望が体の奥底から溢れてくるものだという認識は間違っていないはずだ。


「あら、もうこんな時間だわ。引き止めてしまってごめんなさいね、見送りはここで大丈夫です。篠宮さんには企画書を修正してまた連絡します。……吾妻さんも、よければ今度はお茶でもしましょう」

「僕の友人を口説くのはやめてくださいね。企画書の件は急ぎでなくても大丈夫ですので、僕の方からもまた連絡します。それではお気をつけて」

「あ、お気をつけて……」


 腕時計を確認した神城さんは、俺と五紀に微笑んで手を振った後、少し駆け足で立ち去っていった。神城さんの後ろ姿を追った目を少し逸せば暗くなった外の景色が大きな窓から見えて、ああもう結構時間が経ったのかとなんとなく思う。外の寒さを想像して、この暖かなエントランスにもっと居座っていたいような、一刻も早く家に帰りたいような、どっちともつかない気持ちに俺は少しぼーっとしてしまった。


「……優、帰ろっか」


 耳障りの良い優しい声。俺の右手をそっと握った五紀の手は、いつものように少し冷たい。





 ガチャリと音を立てて閉まる玄関扉の音が、やけに響いて聞こえた。それほどまでに俺と五紀の間に会話はなかった。いつもなら取り止めもない話をずっと続けている五紀は、ただ俺の手を握って歩くだけだった。そして俺も何を話せば良いのか頭の整理ができず、ただ五紀の後頭部を眺めているだけだった。


「……大丈夫だから」


 玄関で靴も脱がず立ちすくんでいると、五紀が不意に聞き逃してしまいそうな小さい声でそう呟いた。五紀の後ろに立っている俺には、五紀の表情を読み取ることはできない。繋がれたままの手は冷たく、それでも俺の手を強く掴んでいた。少し震えていたかもしれない。


「僕たちはこれからも何も変わらない。僕には優だけだから」


 ……わかっている。五紀が俺のことを心底大切にしてくれていることを理解している。誰よりも一番に考えてくれていることを知っている。俺だって五紀が一番で、これからもずっと続いていくと思っている。……いや、思っていた。


「……うん」


 かろうじて出せた言葉は、喉奥でザラついた情けない音だった。


 心がどれだけ五紀を求めていても、俺の頭はどこまでも理性的で。運命の番に出会えたΩを俺のようなΩに縛り付けておくことなんてできないと、何度考え直してもその結論にばかり辿り着いた。だってどう考えても俺は五紀のメリットに成り得ない。どこまで行っても俺は五紀のお荷物で、他人にこの奇妙な関係がバレたら後ろ指を指されるのは五紀だ。あの非の打ちどころがない五紀が、かつての俺のように蔑まれて生きていくことになる。俺のせいで。想像するだけで辛いのだから、これが現実になればきっと死にたくなるほど苦しいだろう。


 だからこそ、こんな不毛な関係を終わらせる良い機会じゃないかと自分を励ますようにそう思った。神城さんは五紀と釣り合うαだった、きっと……この先五紀に必要なのは神城さんだ。



 靴を脱いでリビングへ向かう五紀を眺めながら、俺は決意した。


 五紀には、俺のことを嫌いになってもらう。


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