第11話

 五紀が出張から帰ってきて、変わらない日常が戻ってきたと思えばあっという間に週末になってしまっていた。だんだんと気温は0度へと近づいていき、外に出るのも億劫なほどの寒さが続いている。それはこのせっかくの休日でさえも例外ではなく。


「……その上休日出勤か」

「本当最悪だよ〜、帰ってきて初めての休日だったから優と一日ベタベタごろごろ過ごしたかったのに……」


 玄関で五紀の首にマフラーを引っ掛けてやっていると、五紀は力なく俺の胸に頭をグリグリと押し付けた。「あ〜〜」と珍しく気怠い声を出す五紀に笑いをこぼしながら俺は五紀の肩を掴んでしっかり立たせる。


「今日は俺が迎えに行くから、五紀のこと。だから……ってわけじゃないけど、しっかり仕事してこいよ」

「え!それなら頑張れそう!!後ハグも忘れずにしてくれたらもっと頑張れるかも」

「なんだそれ」


 ん、と手を大きく広げている五紀をそっと抱きしめれば、俺の背中に五紀の手が回って体をより密着させられた。潰れそうなほど力強く抱きしめた後、五紀は満足そうに俺から離れて晴れやかに笑う。


「あ〜、優まるごと会社に持っていけたら良いのに」

「便利道具みたいに言うなよ。ほら遅刻する前に行った行った」

「優の裏切り者〜〜!」

「なんも裏切ってないだろ」


 なおもひっついてくる五紀を剥がして追い出すように背中を押すと、こちらを確認するように何度も振り返りながら渋々といった風に五紀は玄関の扉を開いた。


「……行ってきまーす。すぐ仕事終わらせるからね!」

「はいはい、行ってらっしゃい」


 至近距離だというのに五紀がブンブンと振り回すほどの勢いで手を振るもんだから、俺もそれに返事をするように小さく手を振って見送った。ゆっくりと扉が閉まり、広すぎる部屋に一人分の呼吸だけが残る。



「……暇だな」


 一人暮らしをしていた時はどうやって休日を過ごしていたんだったか。幼い頃から一人で過ごすことには慣れていたはずなのに、この数年で俺は一人の過ごし方をすっかり忘れてしまった。それもこれも全て五紀のせいだが、きっと五紀に自覚はないのだろう。

 手を頭上に上げて脇腹を伸ばすようにぐーっと体をそらしながら、テレビでも付けてみるかなと俺はリビングへ向かった。





 五紀の宣言通り、五紀は仕事を早めに終わらせることに成功したらしい。日の暮れる前の橙色は全てを支配してしまうほど強く、魅力的だとぼんやり空を見上げて思う。思えばこうして一人でゆっくりとした時間を過ごすのはとても久しぶりな気がした。五紀といれば1日なんてすぐ過ぎ去ってしまうのに、今日は数分ごとに何度も時計を確認してしまうほど時間の進みが遅かった。


 ピロン、とメッセージを受信した携帯の画面をつけると『もうすぐ仕事終わりそう〜!』という言葉とともにはしゃいだ様子のウサギのスタンプが送られてきていた。


「このスタンプ好きだよな……」


 五紀が多用するウサギのスタンプをなんとなく眺めながら、俺はそう遠くない五紀の職場へと向かう。




 仰々しい高いビルの前、吹き抜ける風が肌を撫でると切られたような痛みが走る気がした。日が暮れるのがすっかり早くなってしまったので、俺が五紀の勤めている会社にやってくる頃にはすっかり辺りは暗くなってしまった。もうすぐ見えなくなる太陽が本日最後の光をかろうじて届けてくれるが、空にはもう月が浮かび始めている。


 滅多にやってこない五紀の会社……20階は余裕であるだろうという大きなこのビルを五紀が経営している。中小企業の平社員である俺には想像もできないほど、五紀は1日で莫大な金を動かすような仕事をしているんだろう。付き合い出してからの数年で五紀を迎えにきたのは数えるほどしかないので、俺は未だにどこで五紀の仕事終わりを待てばいいのか悩んでしまう。とはいえこうしてビルの前で佇んでいても邪魔だろうと思い、意を決してビルの中へと踏み入ることにした。


 ごく静かに自動ドアが開き、暖かな風を正面に浴びながら俺はエントランスの受付に立つ女性に軽く頭を下げる。


「……すみません、篠宮五紀の友人の吾妻優と言います。彼の仕事終わりに待ち合わせをしていて……少しこちらで待っていてもよろしいですか?」

「承知いたしました。吾妻様ですね……ご連絡いたしますか?」

「いえ、連絡までは大丈夫です」


 受付の女性はパソコンに何かを打ち込んだ後、「それではそちらのソファなどでお過ごしください」とにこやかに俺に微笑んで開けた空間にあるソファやテーブルなどがいくつも並んだ休憩スペースのようなところを手で示した。俺は再度軽く会釈をしてそちらへと向かう。どうやらカフェもあるようで望めば軽食が食べられるようだが、そんなに時間もかからないだろうと思いそのまま質の良さそうなソファに腰を下ろした。人は少ないが、一般向けに開放もされているエントランスには俺以外にもちらほら人がいる。とはいえ居心地は悪い。オフィスカジュアルな私服を選んで着てきたつもりだが、こうしてお洒落な会社の中で一人過ごすのは少し気まずかった。


 特に意味もなく携帯を触りながら、五紀が出てこないかとエレベーターの方へチラチラと視線を向ける。社員たちであろうスーツを着た人間がぞろぞろとエレベーターで降りてきているので五紀もそろそろやってくるだろうと、なんとなく彼らを観察しながら思った。この会社は他の企業よりもずっと多くΩが社員として働いている。大企業であるのにαと同等……もしくはそれ以上にΩが採用されていることは、本当に異例だ。五紀がいつか「Ωがもっと自由に生きられたらって思うんだ」なんて言っていたことを思い出す。


 俺はこの自分のΩというバース性にただ心の中で悪態をついて諦めることしかできなかった。けれど、五紀は……“大嫌い“だと言った自分のバース性の運命を変えるために行動ができる。それも、自分だけではなくこの“Ω”という業を背負った全ての人間のために。俺はそんな五紀が大好きで、だからこそわからなかった。俺が五紀に好かれる意味がわからなかった。



「――、そうですね」

「あら?――――かしら」


 ひとしきり社員たちが帰っていった後、静寂の中に凛とした声が響いた。同時に、今まで香ったどの香りよりも刺激的で圧倒されるような鮮やかで消えない香りがエントランスを支配する。見なくてもわかる……αだ。それも、特別優秀な。


「……っ」


 抑制剤を飲んでいなければ即座に香りに当てられていただろうと思う。それほど誘惑される刺激的な香りに俺は思わず声の先を目で追った。黒いスーツをピシッと着こなした、美しく、凛とした女性だった。耳の下ほどまで伸びているショートカットの長い前髪を耳にかけ、整った顔には自信が満ち溢れている。5cmはあるハイヒールで大理石の床を軽快にかき鳴らしながら歩く彼女は、まさしく敗北なんて知らないような頂点に君臨するα……選ばれたαだ。


 彼女に視線を奪われた後、ふと知っている香りが鼻腔をくすぐった気がして嫌な予感に顔を逸らせば――そこには。


「あ……優!?」


 そこには女性の隣で目を見開いてこちらを見ている、五紀がいた。

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