司教の到着
教会からの使者が来るまで、ギンは宿泊所で監視されることになった。彼を逃がさないために、オムが連れてきた男たちもそこに詰めている。
エリサンはできることならモパネとキサラの治療に集中していたかった。ギンが起こしたことは大きな事件で、集落を混乱させるには十分だった。しかしもはやエリサンがどのように事件をとらえても、あるいは何をしようとも教会の判断に影響はないだろう。
キサラもオムについていったので、今やエリサンの家にはエリサンとイラガしか残っていない。
「先生、今日は休業にしておきますね」
イラガはそんなことを提案した。
しばらく待機所も使えない。診療所は休業にしておいたほうが混乱がないだろう。モパネも助手たちが見ていてくれるはずだ。
「すみません、そうしておいてください。それに、申し訳ないのですがなるべく今日は家にいていただけますか」
エリサンの言葉に、イラガはにっこりして答えた。頼られている気がして嬉しかったからだ。
「そうするつもりです。先生も今日くらいはゆっくりしてくださいね、なかなか難しいかもしれませんけれど」
「ええ」
過去を掘り返し、そして糾弾されたのだ。いくらその後のことがあったとしても、思い悩むなというのは無理だろう。
イラガはそのように考えていた。優しい先生のことだから、何もせずに休むことさえ、あれこれ考えてしまってできないかもしれないと。
それで彼女は言葉を重ねた。
「お休みになったほうがいいですよ。ずっと起きていらっしゃったんですから」
「そうはいいますが」
「とにかく、横になっていてください。何かあったらお呼びしますし、助手の方もいるんですから」
エリサンの肩を押して促す。そのまま、イラガは半ば強引にエリサンを寝台に押し込んだ。
「すみません、何かあったらすぐに起こしてくださってかまいませんから」
「ゆっくり休んでください。あ、でも」
イラガはエリサンの体に毛布を掛けながらふと、思い出した。確か、村に戻ってくるときに彼は自分に何か話があると言っていなかっただろうか。
「先生」
今聞いておくべきだろうか、と思ったがそのときすでにエリサンの目は閉じられていた。
わざわざ起こしてまで聞くことはないだろう。イラガは診療所から出て、休業の札を入り口にかけた。
昼にもならないうちに、教会からの使者はやってきた。
まず見えたのは鉄格子のついた箱のような馬車一台と、その御者。そして馬に乗った男が二人。浴場近くの空き地に馬車を止めて、彼らはおりてきた。
予想よりもかなり早い到着だったので、エリサンを起こす時間もない。彼抜きで、使者を迎えた。
「お待ちしておりました」
オムが敬語で出迎える。やってきた使者は教会の中でも高位の聖職者であったのだ。
「お待たせしました。今はどのような状況になっていますか」
どこか冷たい声でそのように話しながら馬を降りたのは、黒い平服を着た初老の男であった。油断なく周囲に目を配り、冷徹そうにさえ見える。
オムの説明を聞いている間も何かを考えている様子であった。
「ほとんど事態は解決に向かっています。犯人も山の中で傷を負っているところを捕らえて、今は手当てをして縛っています。雇っていたという傭兵の行方は分かりませんが、そう遠くには行っていないでしょう」
「わかりました。エリサンは無事でしたか?」
と、聖職者が聞いた。
「軽傷です。今は休んでいるかと思いますが、呼んできましょうか」
「それなら後で結構。先に本題を片付けましょう。犯人のところへ案内してください」
「わかりました」
そうしてオムは聖職者たちを休憩所に案内し始めたが、途中でその足が止まった。聖職者がイラガに気づいたのだ。多くの男たちの後ろにいたのだが、やはり獣人は目立つのだろうか。
彼はそれまでの厳しい表情を一転させ、紳士的な態度でぺこりと頭を下げ、にこりと笑った。
「あなたがイラガさんですね。お話はうかがっています。私はホジクという者で、一応は司教をさせていただいております」
「あ、はい」
突然話しかけられ、咄嗟に何も言葉が出なかった。イラガはとにかく頭を下げる。
「また後で、お話ししましょう」
ホジクと名乗った司教はそれで話を終え、オムについていった。ぼんやりとイラガはそれを見送る。
そうだ、今からでも先生を起こしたほうがいいかも、と思う。たしか司教というのは司祭よりも高い位の役職。ホジクという人はあとでいいと言っていたが、先生にとっては先に知ったほうがいいに決まっている。
そこまで考えて、イラガはエリサンを起こしに行った。
「先生」
診療所の中に戻って、あわただしいノックの後にドアを開ける。
予想に反しエリサンはすでに起きていて、身なりを整えていた。彼は部屋に飛び込んできたイラガに少し苦い笑みを見せて、それからいつも通りのおだやかな挨拶を返す。
「はい。起きています」
「今、ホジクという方が来られたんですよ。司教だっておっしゃってましたが」
「わかりました」
エリサンは慌てた様子もなく、法衣のしわを伸ばしている。
「先生、すぐに挨拶にいかなくていいんですか?」
「今はギンさんとお話をされているはずですから、邪魔をしてはいけません。それよりも、モパネさんの容体は変わりなかったですか」
モパネは深く眠っていて、全く起きる気配もない。そして容体が悪化した様子もなかった。助手からもそう聞いている。
イラガはそうエリサンに伝える。
「そうですか。すみませんが、引き続きみておくように伝えてください。突然悪くなることもありえますから」
「大丈夫です。二人が交代で近くにいてくれているようですから」
「それと、キサラさんは?」
キサラはオムとも話し終わり、彼の護衛と一緒に散歩に出て行った。ゆっくり歩いて村の中をまわるだけだが、彼の日課であるし、村人たちとの交流も深まる。特に心配するようなことではない。
「わかりました。では少し時間がありますね。すみませんがイラガさん、帰るときに言っていたお話をしておきたいと思うのですが」
「あっ、そうでしたね」
イラガは頷く。気にはしていたのだが、何の話なのかは全く予想がついていなかった。
昨夜の事件のことだろうか。あの男の腕を弓で射抜いたことを何か言われるのかもしれない。それか、先生がギンを殴ったことを内緒にしてほしいとかだろうか?
そんなことを彼女はなんとなく考えたが、エリサンが言ったのは全く別のことだった。
「以前、イラガさんからは『私と結婚しても構わない』とおっしゃっていただいていた、かと思うのですが」
「えっ。ああ、そうですね」
あまりの予想外な言葉に、イラガはほとんど上の空で言葉を返した。
ほとんど思考が停止しかかった。まさか、エリサンから結婚という言葉を聞くとは全く思っていなかったし、このタイミングでそれが出てくるとは不意を突かれ過ぎていた。
「まだそのお気持ちに、変わりはありませんか」
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