イラガの否定

 きっぱりと言い切られて、ギンは唸った。

 確かに言われてみればそうだ。まったく反論の余地もない。


 妻を亡くした。そして生まれてくるはずだった子も亡くした。

 その予兆はあった。妻は苦しんでいた。それなのに、自分は彼女を救うための手立てを何かひとつでも講じたか。

 妻の弟が治癒術師であると聞いただけで、全てを任せて丸投げしただけだ。他には何もしていない。神に祈ることさえ、正しい方法でしたとは思えない。苦しい時だけの神頼みをしていただけだ。

 彼女の体のどこが悪いのか、自分で少しでも調べようとしたか。そうでもなくとも、もっといい治癒術師を、医者を、産婆を、探してくるということもできたはずだ。自分はおろおろとするばかりでそうしたことに気が回らなかった。

 それで結局大切な家族を失ったのだ。それが耐えられなくて、医者のせいにして当たり散らした。


「だが、その男が私の妻を死なせたことは事実なのだ。

 私はこれ以上、その男が誰かを治療することを許せない。だからこうして来たのだ」


 それでもまだ彼は冷静さを取り繕おうとしている。

 ただの八つ当たりでここまでやっていることをほとんど自覚してはいるが、それを認めるわけにはいかなかったのだ。


「このまま放っておいては、いずれまた誰かを死なせるかもしれないからな」


 彼としては、その理屈でしか自分を正当化できなかった。

 これを聞いたイラガは首を振って、それから悲しそうに答える。彼女にしてみれば、ギンの意見は明らかに間違ったものだった。


「それはどのようなお医者様でも、治癒術師でも同じことです。

 一度も失敗をしたことのない人なんて、どこにいるものですか。失敗をするからこそ、人は成長するのです。同じ失敗を繰り返して反省しないときこそ、その言葉は必要です。しかし先生はそうではありません。私から見る限りそうなのです。


 過去の失敗を理由にして、未来の失敗を決めつけないでください。

 未来の失敗を理由にして、今の先生を処罰しようとしないでください。


 あなたが何と言おうと、私は先生に命を救ってもらったのです。命ばかりか、未来も、希望も全て。

 そしてそれからずっとそばで、私は先生のことを見てきたのです。先生は他人のために尽くして、ほんのわずかも見返りを求めていません。多くの人が先生に救われていますし、これからも頼ってくるでしょう。

 だから私は先生が名医だと思っていますし、あなたのやっていることを放置できません」


 イラガの意見は変わらなかった。

 すでにエリサン本人の口から過去に何があったのかは聞いているのだ。今更いわれても、態度を変えるような理由になりえない。

 彼は一切の言い訳をすることなく、ありのままを語って自分をさらけ出してくれたのだ。そうして善人のふりを続けることで、神が救ってくれはしないかと思っているとまで言った。それが本当だというのであれば本質的には、彼は偽善者である。裁かれなければならない、というギンの意見も間違いではないかもしれない。

 それでもエリサンは多数の人々を救っている。毎日神に祈りながら、土着神であるママユガへの信仰を認める度量の深さも見せている。

 こうも毎日善人のふりを続けて、そして実際に多数の人間がそれに救われているのであれば、それはもう偽善などではない。善人だと誰もが認めるはずだ。イラガはそのように考えているし、そうでなくてはならなかった。たとえ真に善人であっても誰も救わずに一人で閉じこもっているような者よりは、偽善であろうが他人を救える者のほうが尊ばれるべきだなのだ。

 少なくともそれが最後まで貫かれるのであれば。

 そして、イラガにはエリサンがこれから先も決してやり方を変えないだろうという確信があった。


「たとえ誰が何を言おうとも、先生自身が自分を露悪的におっしゃったとしても、あなたが先生を偏った見方で謗ったとしても、私は先生のことを善人だと思っています」


 これを受けて、ギンは何も答えられなかった。当然である。

 筋道が立っているのは誰がどう見てもイラガの方だった。完全に理は彼女にある。


「わかった、もういい。君は夜道に足を滑らせて、沢に落ちたということにする」


 それを理解していても、自分の心を押さえなだめることができるほどギンは人間ができてはいなかった。


「お前たちの名声は死んだ後にゆっくりと汚してやる。俺はお前が生きていることがもう、我慢ならないんだ」

「それはあなたが自分にやましいところがあると思っているからですね」


 構えを変えないままで、イラガがそんな言葉を返した。


「やましいだと?」


 ギンはいら立ったが、鼻を鳴らすだけにとどめて反論はしない。何も思いつかなかったからだ。

 シチモンジとイラガがにらみ合ったままだが、エリサンは左腕を打たれて膝をついているはずだ。今は、ギンだけが剣を持って振るうことができる状況だった。

 このまま彼は、エリサンを斬るつもりだった。

 だがその右足が前に出るより早く、


「お待ちください」


 という声が彼に浴びせかけられた。

 そこで目線を上げてみれば、目の前にいたのは大柄な長身の男。ギンも背丈の低いほうではないが、圧倒的に相手のほうが背が高く感じられた。

 エリサンだった。もともと体格のいい彼が、さらに背筋を伸ばして立っている。それだけでも威圧感がある。

 さらに何かの強い感情をこらえるように、無理に無表情を作った異様な目でこちらを見下ろしているのだった。

 たったさっきまで、腕の痛みで膝をついていた男とは思えない。豹変している。

 気圧されながらも、ギンは足を引かない。彼とて、自分こそが妻と子の痛みと無念に報いてやれる唯一の存在だと信じている。そう思っていなければならない。


「聞かんぞ。もはや問答は終わった」


 これ以上の議論は無意味だとギンは結論付けて、片手を払う。抜いた剣が、ランタンの光を反射させてギラギラと光っていた。


「いいえ、終わっていません。終わってはいけないのです」


 エリサンはふるえた声でそんなことを言っていた。彼はいつ、自分が立ち上がったのかさえわかっていない。

 イラガの声をずっと聴いていた。

 彼女はずっと、自分をほめていた。それはエリサン自身の意思でしたことではなかったが、虚飾に染まって善人を演じてやってきたことがそれほど人の心を打ったのだとあらためて思い知ったのだ。

 それが今、めぐって自分を救った。彼女がここに来なければ、おそらく自分は今日、死んでいただろう。

 自分のしてきたことが、虚飾だと思っていたことが結局回って自分を救ったのだ。


 ぼろぼろと熱いものが頬を伝った。泣いている。

 認められた気がした。あるいは女神に、ママユガ様に。

 また、ずっと逃避と欺瞞でやってきたが、誰かにとってだけは自分も善人であれたのだとも思えた。

 お目こぼしで偽善者の自分も救ってくれはしないかと神に祈り続けていたが、死の間際になって本当にやってきてくれる女性が自分にもいたのだと。

 自分が死んでしまえば、本当に後を追って自分を救いに来るだろうという、そんな人がいたのだ。口だけではなかった。

 半年も自分から離れずに、そばにいてくれた。

 過去の失敗を理由に、未来の失敗を決めつけるなときっぱりと言ってくれた。

 それなら、エリサンが自分で自分の未来を決めつけることもない。ゆるやかに死ぬことで責任から逃げることは、本当は望んでいなかった。


 いや違う、そうではない。


 自分が望んでいたのは、実は罪悪感の払拭ではなかった。死でさえもなかった。

 キサラの病を治療すると決めたあのときと、同じだ。全く。


「先生?」

「大丈夫です。私はきっと、わかっていなかっただけなんです」


 心配そうなイラガの声にそう答えて、エリサンは痛みも忘れ目の前の男を見ている。

 自分はずっと、死にたかったのではなく、生きていていいと誰かに言ってほしかったのだ。そしてそれに、自分で納得したかった。

 重く苦しい罪の意識から逃れたかった以上に、大事な人を救えなかった自分の命にも意味があると、未来を生きていていいのだと誰かに言ってほしかった。

 イラガはすでにそうしてくれていた。私が先生を助ける、ずっとそばにいると繰り返し伝えてくれている。

 今夜また、それが嘘ではないことを証明した。疲れも押して遠いところを走って、自分の危機をこうして救ったのだ。

 さらには自分の行いが結局めぐってそれを招いた、このこと自体が神や精霊の意思を感じずにいられない。きっと、自分が生きていても、それだけで神や精霊は怒ることがないだろう。

 あとは自分が納得するだけ。

 そのためには、努力が必要なのだ。挑戦が必要なのだ。希望が必要なのだ。

 姉を救えなかった分だけ、未来にそれを取り返すほどの命を救うのだと。そうしていくのであれば、自分にも納得がいくはずだ。

 たぶんそんな結論は、自分でもとうに出していた。キサラを救うために代金をすべて使い果たしたこともそう。獣人たちの薬を研究したこともそうだったはずだ。

 自分の深いところでは、きっとわかっていた。


 ただ表層の自分だけが、今の今までわかっていなかった。


「過去の失敗を理由にして、未来の成功をあきらめることもいけないのだと」


 エリサンは一歩前に出て、すっと腕を伸ばした。

 その一歩が予想よりも大きく、ギンは剣を振ることさえできない。気が付いた時には、彼は腕を押さえつけられていた。

 剣を抜く手をおさえこまれ、動けない。


「あっ……」

「ギンさん、私はイラガさんを悲しませるわけにはいきません。

 それに、私に治してほしいと言っている患者さんがいらっしゃるのです。戻らなくてはなりません」

「そんなことを認めると思うか!

 俺はお前がこれ以上誰かを治療することを止めるために来たのだ。絶対に許さんぞ」


 許すも許さないもない。少なくとも今、この場では。エリサンはギンの手を完全におさえつけている。


「話ならあとでいくらでもできましょう、あなたはこのような手段をとって私を脅しつけるべきでなかった」

「うるさい、この手を離せ!」


 ギンがそう叫んだので、エリサンは本当に手を離した。

 急に手をのけたので、勢い余ったギンの体が前につんのめって、よろける。そこへ、エリサンは平手打ちを見舞った。

 ばちん、と闇の中に響くほど高い音が鳴り、ギンの体がその場に崩れ落ちていく。ギンは鼻血を出して、立ち上がることさえできない。


「せ、先生」


 イラガが一番驚いている。

 エリサンが暴力をふるうところなど、全く見たことがなかったからだ。


「大丈夫ですか、あんな」


 こうはいうが、彼女はギンのことなど見ておらず、エリサンの手のほうを心配している。


「平気でしょう、軽い脳震盪がおきてるだけです。それより、今にも死にそうな子供がいるというのは本当なのですか?」

「あっ、そうなんです! 先生、集落にいたんですよ。連れて帰ってきたんですが、危ないみたいなんです」


 二人はキャンドルランタンを拾い上げながら、すぐにもここを離れるつもりであるらしかった。

 一応イラガとにらみ合っているはずのシチモンジは、すでにやる気を失っていた。命をかけてまでイラガと戦う理由はなかったし、ギンの側に理がないこともわかってしまったからである。

 傭兵である彼は正義を信奉しているというわけではないが、村人たちから慕われる名医を殺害するとなればそれなりの理由が必要だった。そうでなければ、夜盗と変わらなくなってしまう。今後も傭兵と名乗って生きるためには、最低限の倫理を要する。

 彼を雇ったギンはその倫理を外した。名医を恨んでいるのは、ただの私怨に過ぎない。いまや、シチモンジが剣を振る理由がなかった。それでも金をもらった以上は剣を握ったままだったが、こうなってはそれを続ける理由もなかった。

 彼は息を漏らし、緊張を解いた。おそらくイラガも自分を殺したいとは思っていないだろう。


 イラガはそれであっさりと構えを解いて、弓を背中に戻してしまった。

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