死ぬだけではすまないこと

 イラガはモパネの体調を心配するあまりに、大急ぎで村に戻ってきた。

 暗くなった家の中には助手だという二人がいたが、エリサンはいない。留守だという。ともかくモパネを見せると一人はかなり顔をしかめた。


「私は獣人の方の治療をしたことがあまりなくて。それでも、お話を聞く限りではかなり厳しい状態でしょう。

 とにかく寝かせて」

「先生はどこに行かれたんですか?」

「教会の方が来られまして。なんでも、先生に異端の疑いがかけられたと。それで、弁明のために出かけられました」


 これをきいたイラガは、全身の毛を逆立て目を見開いた。

 驚き呆れ、そして怒りが彼女を貫いた。


「なぜあんなに信心深い先生が異端なんてことがあるんでしょうか。私が行って、先生を連れ帰ってきます。

 モパネには先生が必要ですし、先生がもしもいじめられているのなら助け出さないと」


 言い終わらないうちに彼女は飛び出していった。

 イラガはエリサンが死んでしまったのなら、約束通りにすぐ後を追うつもりでいる。そうして彼が天国に行けるように、死後の世界で説明してやるつもりだった。自分がどれほど彼に救われたか、彼がどれほど人の役に立ったかを知らしめてやろうと。

 だから、教会から異端の疑いなんてものをかけられているのなら、許せなかった。そんな役立たずの教会はいらない。

 あれほど毎日祈ってきたエリサンが異端だというのなら、潰れてママユガ信仰にとってかわられてしまえばいい。

 地面を力の限りに蹴りつけ、イラガは矢のような速度で夜の森に消えた。


 だが、イラガの体力とて無限ではない。

 ずっと走り続けて、すでに疲れている。それでもイラガはエリサンの姿を求めて、闇の中を走った。



 ギンはエリサンの名誉を奪うつもりであった。ただ殺すだけでは、それは達成できない。


「他にもいろいろと考えている。さしあたりはそれに署名してくれたまえ」


 彼が出してきたのは、自白調書だった。代筆人のようなきれいな字で文面ができている。

 思いつく限りの悪事が書き連ねられていて、最後にそれを全面的に認めるという一文が添えられている。中には司祭という地位や治癒術師ということを利用し、患者や子供に暴力をふるったという記述もある。これまでの治療行為は適当な薬の人体実験に過ぎず、たまたまうまくいったときにその功績をことさら吹聴したということになっている。

 これに署名をするということは自分の名誉をすべて捨て去って汚名をかぶるということを意味している。

 これ以上ない罰だった。

 エリサンがずっと望んできた、厳しい罰がそこにあった。

 少し前の彼ならこれに喜んで署名して世を去っていたのかもしれない。

 しかし今の時点でこれに署名するのは、自分一人だけの問題では済まない。


 エリサンは村にやってきてから出会った人々のことを思い返した。

 自分を慕ってくれている村人たちや見習い医師、キサラを始め集まっている患者、何よりこんな自分を案じて傍に居続けてくれているイラガ。


 エリサンが名誉を捨てるということは、つまりそのような人々を不幸にするということなのだ。

 善良な医師であるということを捨てるだけならエリサンは迷わなかったが、これは事情が違っている。

 ギンの思うとおりになってしまったら、イラガなどは本当に自殺してしまいかねない。そんなことはさすがに許容できなかった。


「お断りします」


 彼は答えた。

 途端、左腕に強い衝撃を受けて倒れこむ。シチモンジが剣の腹で殴りつけてきたのだ。

 骨は折れていないようだが、エリサンはあまりの痛みに呻いた。強い痺れが残り、左腕は全く麻痺したようだ。


「断れる立場にあるとは思わないほうがいい」

「どうぞ殺してください」


 ギンの脅しの言葉に、エリサンは先ほど言った言葉を繰り返す。

 すでに、生への未練はないはずだ。殺してくれるならそれでいい。だが後に残る人たちを必要以上に悲しませたくはなかった。


「署名するまで殺すわけがないだろう。嫌でもお前は犯罪者として死ぬんだ。

 今はそうやって強がっていられても、じきに自分から書かせてくださいと望むようになる。なに、死んで骨になれば痛みも恥もない。早く楽にしてほしいと思うようになる」


 エリサンは打たれた左腕をかばいながらこの後自分が何をされるのか考えてみたが、どうやらギンは自分を痛めつけて無理やりにでも署名させるつもりであるらしい。

 自慢ではないがエリサンは暴力には弱い。長身で体格はいいが、彼は決して武術や剣術に秀でているわけではない、むしろその逆である。

 無用な痛みを受ける前に、自分で自分の命を絶った方がいいのではないかとさえ、彼は考えかかった。

 エリサンは弱い人間である。

 これまでの人生の節々で、彼は逃げてきた。逃げることが彼の人生を動かしてきたのだ。

 なんとなしに医術を学んでやってきて、姉を殺した後は酒に逃げ、罪の意識から逃れようと神にすがり、それも危うくなれば放浪の旅に出て、自分の責任からゆるやかな死をもって逃げようとしている。

 そうしたことを彼は自覚していたから、ギンやシチモンジから与えられるであろう苦痛に耐える自信が全くなかった。

 それでも自分を信じて支えてくれた人々を苦しめるのは、耐えがたい。

 署名をすることも、苦痛に耐えることもできないのであれば、自ら速やかに死ぬしかない。ギンが言っているように、死んでしまえばそのあとの肉体に痛痒の感覚などないのだ。

 苦痛を与えられるよりも早く死ぬことができるのなら、それが一番よかった。だが彼の信じる神は信徒が自らの命を絶つことを固く禁じている。それに、速やかに死ぬ方法を思いつかなかった。


「さあ、観念して書け。そうすればすぐにも楽にしてやる」


 ギンはそう言った。彼はこの場を支配していると思っていた。

 しかし闇の中で灯りをつけている彼らは、遠くからでも見つけやすい。

 おかげでモパネを村に届けたその足ですぐに、ここまでほとんど一直線に走ってくることができた。イラガは、まさにここまでもう、走ってきていたのだ。

 疲労はピークに達していたが、闇を見通すその目でエリサンの姿をとらえたのであれば足を止めるわけにはいかず、ついに会話まで聞けた。

 彼女はエリサンがどのような状況にあるのかをすぐに察したのだ。


(先生がこんなところで、不当に苦しめられている!)


 イラガにとっては非常に幸運なことにエリサンはまだ殺されていない。そのまま走って男たちを蹴り飛ばしてもよかったが、万が一自分が倒れたら後がない。


 自分がなんとかしなくては。絶対に先生を助けなくては。


 冷静さを取り戻そうと努力しながら、イラガは足を止める。

 何秒か迷って、背中から弓を引き出す。飛び出していくよりは、ここから矢を射こむほうが状況を打開できる見込みがあった。

 イラガは怒りで両手に力がこもることを自覚しながら、弓に矢をつがえた。剣でエリサンを脅しつけている男に、狙いを定める。

 ぐっと息をのみ、なんとか肩の力を抜いて。


「先生!」


 鋭い声を上げ、イラガは矢を放った。

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