不穏な気配
「こちらにエリサンという名医がいると聞いてまいりました」
といって、目深に帽子をかぶった紳士があらわれた。
ついこの間、娘の腫物をとってからというもの、このようにエリサンを訪ねてくる人物が増えた。
このときの患者は、重症の歯痛に悩んでエリサンを訪ねてきていた。随分我慢していたらしく、抜くより他はないが、そのくらいの処置は少し学んだものであればすぐにできたはず。
エリサンとしては、不思議でならない。自分の技術を鼻にかけるつもりは全くないし、それほど技術があるとも思っていないのだが、あまりにもおかしかった。いつの間にか優れた医者が減ってしまったのだろうか。そんなはずはない。冷静になって考えてみても、エリサンは町医者について何年か学んだだけである。名医でもなんでもないし、そもそも最先端の技術を研究している名医は都にいけば会えるはずだ。
しかし折角ここまで来た彼らを追い返すという選択肢はない。
「大きくしてよかったでしょう、先生。私が言った通りになりました」
こうなることを予想していたのか、イラガはそんなことを言う。
彼女は「絶対に必要になるから」といって、家の隣に簡易な宿泊所を作ってしまったのだった。そちらには寝台が二つ配置され、エリサンの診療を待つ人々の待合所や休憩所として機能している。
エリサンとしてはそれほど自分を訪ねる人もなかろうと思っていたので、長椅子を一つ置けば十分だろうと思っていた。この前の娘のように入院を必要とする患者が出たとしても、寝台を移動させればすむはずだった。
しかしイラガは「間違いなく必要になる」と主張して譲らず、結局かなり大きめの小屋を作り、宿泊所としたのだ。
もちろん、浴場に比べるとかなり見劣りする建物ではあったが、確かにあると楽になる。
この村は交通の便が悪い。かなり急いで走っても、町まではかなりの時間がかかってしまう。往復ともなれば、朝早く出発しても日が暮れてしまう。
そのような場合、馬車がなければ治療が終わったからといってすぐには帰れない。静養を必要とする場合もある。一日休むところがあれば、楽になるだろう。
そういった事情は分かる。理解できる。
しかし、その根幹になっている自分の治癒術があまりにもお粗末すぎる。凡庸な一介の医者でしかない自分にとっては、こうも期待されるのは。
エリサンはそのように思いながらも、「それでも自分を必要としている人がいるということだ」と考え直し、その期待から逃げるのはよくないと結論付けた。
そうしてこの日も彼は患者を治療し、また一つ名声を上げた。大したことをしていないと自分でおもいながら。
患者は乗ってきた馬車で、すぐに帰っていった。エリサンは対価を要求せず、患者も特に支払わなかった。忘れていたのかもしれない。
「先生、お疲れさまでした」
イラガはエリサンをねぎらった。
エリサンが治療にかかっていただけ、彼女の負担は増えていたはずだ。浴場を準備し、夕食も作っている。だというのに、そんなことはまるで気にもしていない様子である。
「夕食ができていますよ」
「ありがとうございます。お任せしてしまって、すみません」
申し訳なさから謝るエリサンに対し、イラガは笑って首を振ってくる。
「全然、大したことありません。おわったら、お風呂に入りましょう」
すでにキサラが座って待っていた。ニコニコとして行儀よくしており、つまみ食いをするようなこともない。
スープの隣に、小皿も用意されている。
「ママユガさまに感謝します」
いつものとおり、エリサンとイラガは小皿にスープをとって、日々の感謝をささげた。
キサラはそれが終わるのをじっと待って、それからようやく食事に手を付けた。
「どうかしましたか」
イラガは食べずに、周りを見回す。彼女の耳がピクピクと動いた。
おかしい。
村人たちが湯を使う時間はとうに過ぎている。なのに、誰かがいる気配がしているのだ。
「いえ、少し周りを見てきます。気になるもので」
彼女は立ち上がって、外に出た。闇の中に、何者かが立っている。
患者ではない。
イラガは腰に差しているナイフに手をかけた。
「誰かいるのですか?」
問いかけてみても、何の返事もなかった。その気配は暗闇の中に立ったまま、何もしない。
イラガは一歩踏み出した。
途端、気配は去っていった。顔を見られることを恐れたのかもしれない。
もう一歩距離が詰められていたら、顔が見えていたのに。
イラガは武器から手を下した。彼女は夜目が利く。
今の何者かは、おそらくエリサンに何か危害をくわえようとしている者だ。ただではおかない。
注意深く周りを警戒しながら、イラガは家に戻った。厳重に戸締りする。
「大丈夫ですか、イラガさん」
心配そうにエリサンが声をかけてきた。
イラガは少し真面目な声で応じて、言った。
「先生、私しばらく先生の傍にいますね。何か嫌な予感がしますので」
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