驚きの対価

 手をつないでいったほうがいいと言ったのはエリサンだが、それを聞いた時にイラガは何も思わなかった。

 子供を万が一にも危険にさらさないようにという理由があったからだ。それ以上のことはないはずだ。

 しかし、実際につないでみれば思った以上に何やら恥ずかしさがある。子供を守っているだけなのに、どうしてこんな感情が出るのか、今のイラガにはわからないのだった。

 村の中を歩いて回る間、イラガはどことなく上の空になってしまった。帰ってきて、今夜のご飯をどうしようかと聞かれてもまだ少しぼんやりとしていて、エリサンに心配されてからやっと、まともにものが考えられるようになった。


「連日、忙しく働いてくださっていました。少しお疲れになったのではありませんか。

 今日は私が食事を作りますから、早めに休まれた方が」

「い、いえ。大丈夫です」


 イラガは自分の尻尾を両手で握って、妙な気持ちをごまかそうとする。

 しかし結局、山に行こうという気分にもなれずに一日寝台に腰かけ、休んで過ごした。


 夕方ごろになると、村がにわかに騒がしくなった。何十人もの男が荷物を抱えてやってきたからだ。

 彼らは荷馬車を持ち込み、そこにも大きな荷物を載せていた。行商ではない。それにしては鍛えられている。彼らはまっすぐに、エリサンの家を目指して進んだ。

 男たちが訪ねてきた時、エリサンは薬の整理を、イラガは昨日もらってきたウドの下ごしらえをしているところだった。


「こちらに、エリサンという名医がおられると聞いて参ったのですが。お間違いはございませんかね」


 彼らの中でも年のいった男がまずそのように挨拶をしてきた。

 あまりにも突然のことにエリサンは驚きつつも、応対に出る。


「はい、エリサンは私です。名医かどうかは」


 と言いかったところで男はニヤッと笑って


「おお。じゃあ早速工事に入りますわ」


 などと何やら仕事にかかろうとする。あわててエリサンはそれを止めた。


「工事、と言いますと。こちらは特にそのような話を聞いてはいないのですが」

「いいえ? オムという旦那に前金でいただいてまして。わしらとしても何もせずに帰るわけにいきませんな」


 そういえば、彼は後から必要なものを届けると言っていた。

 しかし大掛かりな工事がいるようなものを頼んだ覚えはない。エリサンはひとまず詳しい話を聞いてみることにする。


「なんでも、病院なら清潔にしなきゃいかんだろうってんで、風呂をしつらえるように言われてるんです」

「お風呂をですか?」

「ええ、それと水回りの整備やらも。そのための費用は全部もらってますんで」


 確認してみると、彼らが作ろうとしているのはかなり大きな風呂だった。とてもエリサンやイラガだけで使うようには考えられていない。

 小さめだが、共用の浴場にできるほどは大きいのだ。具体的には、エリサンの家と同じくらいの広さのある風呂ができる。


「そうは言っても、場所がないのでは」

「いやあ、ここらへんを使っていいってんで」

「そ、それは」


 いくらなんでも無茶な、とエリサンは目を開いた。彼らが指さしているのは、エリサンの家の隣。荒地ではあったが村の中の土地だ。

 そんなことがあっていいものか。


「ありがたい話なのですが、ここは私の土地ではありません。村の人に確認してくるので少し待ってください」


 しかし、ハスオやタテハの母親に確認したところでは、この家に住んでいたものは事故死だったうえに、身寄りもなかったという。

 そのため、エリサンが好きに使っても問題はなかろうと言われた。浴場を建てるために工事するといういう件についても、いいじゃないかといわれてしまった。


「工事中は大きな音などでご迷惑をおかけするかと思いますが」

「いいじゃねえか、そのくらい。俺たちゃ別に困らんよ、ときどき使わせてくれれば言うことないが」

「しかし、土地まで使わせていただいては」

「先生がここにいてくれるだけでありがたいんだし、誰も怒らんよなあ。それに、そこはもともとその家の畑だったはずだ」


 エリサンがやってきたときにはきわめて閉鎖的であった村だが、いったん受け入れられたらこのような始末である。こういうわけで、さっそく資材が運び込まれた。

 工事が始まったのは、次の日からだ。エリサン家の隣の土地が整えられていく。

 騒音の出る作業は日中に限り行われるとのことだったが、たちどころに土台が組み立てられ、資材がそこに積み上げられていった。


「すごい」


 キサラはこれをキラキラとした瞳で見ていたが、危ないからと遠ざけられた。それからもう近づこうとしない。遠い位置から働く男たちを見ている。

 彼の近くに立っているイラガも、興味深そうに工事の様子を見ていた。


「お風呂ですか。水はどこから引いてくるんですか?」

「川から引いてくるそうです。これも許可を頂きました。

 それに、井戸も手押し式のくみ上げ器をつけてくださるそうです。あのように」


 なるほど、とイラガは井戸の様子を見た。見慣れない装置が井戸に取り付けられていってる。


「完成が楽しみですね。さあ、家の中に入りましょう」


 エリサンは二人を家の中に促したが、自分も工事の様子を見てふと思ってしまった。何十人という男を一か月近くも雇って作らせるわけだから、どのくらいの予算がかかっているのだろうかと。

 これだけでも十分、どうしたものかと思うところであったがさらに悩ましいことがおこった。

 夕暮れになって引き上げようとする男たちが、このように言ったのだ。


「忘れていたが、今日はこれを先生方に届けるように言われていたんだ。確かに渡したよ」

「これをですか?」


 渡されたのは、一抱えもある大きな木箱だ。開けてみると、薬が入っている。

 頼んでいたものもあるが、田舎の治癒術師には高価すぎるものも多かった。


「じゃ、また明日くっから。今日もいい仕事したよ」


 彼らは鍛えられた大きな体で伸びをして、のしのしと帰っていった。立ち去っていった。

 エリサンは、あまりにも高価なその薬たちを返品するあてもなくしてしまう。


「どうかしましたか、先生」

「いえ」


 イラガの言葉に、エリサンは反射的にそんな言葉を返した。だが、ほとんど生返事だった。

 どうしていいか、もう彼にはわからない。

 善人の医師ならばこのようなときにどうするものなのか。司祭ならばどうするべきなのか。全く、彼は思いつかなかった。

 だから、動けなかった。

 しばらく考え、イラガに相談することにした。どうせ、彼女にはすべてをぶちまけて喋っているのだ。今更大したこともあるまい。


「イラガさん、実はここにある薬は、とても高価なものが多いのです」

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