先生が認めていないだけ

 深夜に一人で家の外に出た。

 月明りでわずかに山の輪郭が見える。空気は厳しく冷たかった。

 この冷たさが、頭を冷やしてくれるはずだとエリサンは思いたかった。


(どうあれ、このまま死ぬまで、生きていくしかないのだ。

 人は皆、罪をもっているのだから、許されようとしてあがくのだ。それが生きるということだ)


 彼の信じる主なる神はそう説いている。

 神官であれば、それに背くわけにもいかない。彼は自身を襲う自己嫌悪の波に耐え抜かねばならなかった。

 壁にもたれかかるようにして、その場に座り込んだ。

 両手で顔を覆って、彼はしばらくそのままだった。


 ふと隣に誰かがやってきて、腰を下ろした。


「先生、こんなに寒いのに。風邪をひいてしまいますよ」


 イラガだった。


「ご家族の事で、つらいことがあったのですか?

 言えないようなことなら、黙っていてくださっても構いませんが」


 彼女はこちらを気遣っている。

 エリサンは彼女を起こさないようにして外に出たつもりだったが、熟練の狩人はごまかせなかったようだ。


「ええ、昔のことを思い出してしまって。

 私には隠すようなことはありません。聞いていただきましょう」


 彼は自分の過去を語ることにした。

 イラガは自分のことを深く知りたがっており、こちらも無神経に彼女の過去を探って傷つけた負い目がある。であれば、自分の過去のことも、話して聞かせるべきだろう。それがどれほど愚かしいことであろうとも。


「実は、私には姉がおりまして」


 そこから話したのだが、イラガは時折相槌を入れて、真剣な様子で聞き入っていた。

 エリサンはこのことを誰かに話すのは久しぶりだった。神に仕えると決めて、それ以来ではないだろうか。

 ずいぶん長い間、自分の胸にだけ秘めて、そして絶えず心を刺してくる過去だ。一つ一つの出来事がまるで昨日のことのように思い出せる。


「私の処置は間違っていて、そのために姉は亡くなってしまいました」


 と、エリサンは自分が思っている通りに言った。口にしてみれば、取るに足らないことかもしれない。

 医者であれば、無論全ての患者を救いたいとおもうのは当然である。だが、現実的には対処のしようのない症例もあるし、どれほどの名医であっても誤診からは逃れられない。だから、患者が死ぬということは日常的なことだ。だからこそ、あのとき町医者たちも「相見互い」と言って同情してくれたのだ。

 それでもエリサンが罪の意識から抜けられないのは、姉も子供も助けられなかったから。そして処置さえ間違えなければ、助けられていたと思っているからだ。

 少なくとも母体は救えた、姉は死なずにすんだはずだと本気でそう思っているのだ。

 だからこそ姉が最後に残した「死んでも気にするな」という言葉が彼の背に重くのしかかる。

 実際のところ、後から考えてみても考えてもエリサンが治療を始めた時には、すでに手遅れだった。だがそれならどうしてもっと頻繁に姉に会いに行かなかったのか。妊娠しているというのなら、それこそ心配して見に行くべきだったのではないか。

 そこで異常に気付いていれば。


「私はその罪悪感から逃れたくて、お酒ばかり飲んでいました。そうしたら、ある方に教会に行けと言われまして。

 そのまま、神に仕える道を選びました」


 エリサンは自分でも気づかないうちに、そんな言葉を出してしまっていた。

 なぜなのか、自分でもわからない。

 イラガには嘘をつきたくなかったのかもしれない。思わず彼は、横目にイラガの顔を見た。


 イラガは黙って、月を見上げていた。何も言わない。

 エリサンは下をむいて、続きを話した。


「神ならば、私の罪の意識を打ち消してくれるのかと思ったのです。しかしどのような言葉をかけられても、厳しい修行を積んでも、それは消えませんでした。

 食事を何日もとらなかったり、眠らずに祈り続けたりといったこともしました。

 しかしそれは生まれてくることもできずに死んだあの子や、弱り切ったまま死んでいった姉に比べれば大した苦しみではないと思えてしまいました」

「先生は、お姉さんの冥福のために神に仕えているのですか」


 言われて、ハッとなった。

 今まで一度たりとも、姉の死後の安寧を考えなかったわけではない。だが、そのために神官になったつもりは、全くなかったのだ。

 だから、正直に答えた。


「恥ずかしながら、違います。私は単に、自分が苦しみから逃れたかっただけです。

 そして今も、こうして苦しみ続けています。きっと主なる神は、私がこのような理由で仕えていることをお見通しなのでしょう」

「でも先生は立派に務めを果たされています」

「そう見えるかもしれません。

 私は主なる神にこの苦しみを取り払ってほしくて、模範的な神官のふりをしているのですから。

 こうしていれば、よこしまな私でも、お目こぼしで救ってくれるのではないかと期待しているのです」


 ぶちまけるような気持ちで、エリサンは言った。

 ばらしたからといって、何が変わるわけでもない。今後もエリサンは善人のふりを続けていく。邪心をずっと押し殺して生きていくことに変わりはない。

 ここでイラガに軽蔑されようとも、嘘を吐くことのほうを恐れた。


「でも先生は、私を助けてくれました。

 誰も助けてくれなかった私を、助けてくれたんです」


 それは事実だ。

 イラガは単純な事実を言っている。確かにエリサンはイラガを助けた。


(しかしそれは、私がしたくてしたことではない。

 善人であるならそうするだろうと思ったから、助けたのだ。誉められることではない)


 エリサンはそのように考えて、下を向こうとした。

 が、イラガは彼の前にまわって、彼の両肩をつかんだ。


 彼女は真剣にエリサンの目を見据えて、張りのある声をあげた。


「先生がどう思っていようと、先生は私の全部を救ってくれたんです。

 だから私も、先生が苦しんでいるなら助けたいんです。

 誰も言わないなら、私が言ってあげます。先生は、善人です。

 誰にも怒鳴ったりしないし、暴力をふるったりもしないで、みんなを助けてるじゃないですか。

 それで自慢することもなくて、これで誰がどうして、先生を謗れるんですか。


 先生はこんなに頑張っているのに、

 どうして先生自身が認めてあげられないんですか!」


 ズン、とエリサンの心に何かが刺さりこむ。

 イラガは確かに、彼の心を打った。

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