絶望のはじまり

 彼は思い出していた。

 自分が虚飾に染まるきっかけとなった、姉の死について。


  ※


 全ての病が、治療できるものではない。

 死なずにすむ病などは、実のところ限られている。


 エリサンはその事実を突きつけられた。


 人の死に立ち会ったことはある。苦しみながら息を引き取った者もあり、安らかに死んだ者もある。それを見てきて、エリサンも様々に学んできた。

 衝撃ではあったが、人はいつか死ぬものと割り切って対処してこれた。

 町医者に師事していたときから、いかに手を尽くしても死を避けられない患者には向き合ってきたのだ。


 しかし今目の前で衰弱しているのは、エリサンの家族である。姉だった。


 姉は妊娠していて、もう一か月ほどで生まれるだろうというところまできていた。

 下手に薬など出すこともできない。母子ともに倒れてしまう。


「残念ながら、手の施しようがございません」


 と、いうのは簡単なはずだった。

 それでも言葉が出ない。目の前で苦しんでいるのが姉であれば、できない。

 何か出来はしないかと彼は悩み、様々な医者を訪ね歩いては相談を重ねた。


 多くの医師から様々な見解が多く聞かれた。なるほどと思えたが、治療法については全く出てこなかった。

 家族の死について、他の医者はどのように心の整理をつけているのかという、そういう部分ばかりだった。まだ姉は生きているというのに。


 エリサンは次に産婆を訪ねて回り、こういった症例がなかったかを調査し始めた。病気ばかりが原因と決めていたが、妊娠そのものが原因という可能性もあったからだ。

 結果、妊娠途中で死亡する妊婦は意外にも多いこと。それに、途中で衰弱して亡くなる、姉のような症例は過去にもあったことがわかった。しかしながら、それはよくあることとしてとらえられており、原因の究明すらほとんどされていない有様だった。


 つまり、彼女を助ける方法は見つからなかった。


 彼女の夫からもなんとかしてくれと散々に言われた。

 だが、彼がたった一人でどうにかできるような問題ではなかったのである。


「彼女をどうにか助けてくれ。子供はまた作ればいい」


 彼女の命を第一に考える夫はこのように言う。

 しかし、彼の両親は別の要望を出していた。


「なんとか初孫の命を助けてくれ。後生だ」


 無論、エリサンとしても姉やその子供の命を助けたかった。彼の力が及ばないとしてもだ。


「私に医療を教えてくださった先生も、他の町医者の方も、姉を助けることは難しいと言っています。

 赤ちゃんを切り捨てれば母体が助かるとか、なんとか赤ちゃんだけでも助けられるかとか、そういう話ではもうありません。

 彼女の体力が持たないのです」


 何人かの医師は姉の血を一定量抜き取って捨てることを治療法として挙げたが、気休めにすぎないことはエリサンにもわかっていた。

 経験上、血を抜いても活力は戻らない。むしろ、意識が朦朧とする場合まである。


 であれば、何ができるというのか。エリサンの両親は昼夜問わず教会へ通って回復を祈っている。

 エリサンは必死に考えていた。

 姉の意識はまだある。時折水を飲み、スープを飲んでいる。だがそれもいつまでできるか。


「心配かけてごめんね。少し休んだら、すぐに元気になるから」


 彼女は弱弱しい声でそう言っていたが、そんなわけはなかった。

 もう一週間も起き上がれていないのだ。


 効果がないとわかっていても、一縷の望みをかけて血を抜いてみるか?


 エリサンの頭にそんな考えが浮かんだ。何もしないよりは、何かしてみたほうがいいのではないか、というものだ。


「姉さん。大丈夫だから休んでいて。色々考えすぎて疲れてしまっているんだよ」


 できるだけ優しく、エリサンは声をかけて姉の頭を撫でた。このような扱いをすれば、普段なら怒られている。しかし今は弱り切っているためか姉は目を閉じてそれを受け入れている。


「ぼくがなんとかする」


 どうにかするのだ。エリサンはない知恵をしぼって考えた。

 血を抜くのは経験から言って効果が見込めない。逆だ。これほど衰弱しているのだから、今は姉の身体に力が足りていない。体力を回復させなければならないのだ。

 栄養を取ってゆっくり休んでいるが、それでもだめだ。

 となると、何が原因なのかをまず考えなくては。どこに病魔が潜んでいるのか。


 それを考えろ。どこだ?


 エリサンは姉も、その子供も、助けたかった。

 必死に考えて、探った。このまま何もしなければ遠からず、姉は死ぬだろう。

 姉が死ねば、子供も死んでしまう。


 妊娠そのものがおそらく、なんらかの原因でうまくいっていないのだ。そのために母体が変調を起こして衰弱している。

 入念な触診の末に、エリサンはそこまでたどりついた。

 胎児は今のところ生きている。いつまでもつかはわからないが。


 一晩考え抜いた末に、エリサンは関係者を集めて今の状況をあらためて説明した。


「このまま放っておけば、姉さんも、赤ちゃんも死んでしまいます。

 おそらく、赤ちゃんが大きすぎてお腹の中が詰まってしまっているか、それと似たようなことになっている、と私は見ています。

 姉さんを助けるためには、いったんお腹を開いて、子供をとりあげるしかありません。赤ちゃんは十分に育っているので、とりあげてもすぐに死ぬことはありません。産婆さんに任せれば、おそらく大丈夫です。

 そこでもしも、赤ちゃん以外の異常が姉さんに見つかれば、その場で処置します。

 うまくいけば、二人とも助かります。ですが、うまくいかなければ、二人とも死にます」


 ほぼ全員が顔色を失っていた。

 エリサンもこんな話をしたくてしているのではない。他に方法が考えつかなかったからだ。時間も残されていない。


「お腹を切り開くのか。さぞかし痛いんじゃないのか」


 姉の夫が心配そうに言った。

 エリサンは薬で深く眠ってもらうので、痛みはないと伝えた。


「本人は何と言っているんだ」


 父親が静かに訊ねた。

 すでに了解はとっていると、エリサンは返した。


 それからもこまごまとした質問があったが、予想よりは短い時間で意見は統一される。


「わかった。このまま死ぬのを待つよりは、やってみてもらったほうがいいだろう」


 一同の結論は決まった。姉の命は、エリサンに託される。


 この治癒術は帝王切開と呼ばれているが、母体の生存率は低かった。エリサンの師事した町医者も、この方法はとらないように努めていたほどだ。

 しかしいまや、他に状況を打開できそうな手段はなかった。やるしかないのだ。


 エリサンは覚悟を決めて、姉と向かい合った。

 清潔にした診療所の一室に、簡易寝台と姉を運び込んだのだ。彼女はそこで、大きなお腹を触っていた。

 もう間もなく、エリサンはそこを切り裂かなくてはならない。


「あの人は、何か言ってた?」


 姉はエリサンに目を向けて、微笑んできた。


「痛くはないのかと、しきりに心配していた。いい人だと思う」

「自分が傷つくわけでもないのにね。

 エリサン、今のうちに言っておくけれど。もし私が死んでも、気にしちゃダメだから」


 そう言って、彼女は目を閉じる。すっかり覚悟は決まっていたようだ。

 本当は他にも言いたいことがあるのではないだろうか。

 お腹の中の子を、是非助けてほしいとか。そんなことを言いたいはずだ。


 しかし薬が効いて眠るまで、そのようなことは何も言わなかった。

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