獣人の信仰
山林に入ったイラガは、一日かけてあちこちを見て回った。
集落で狩りをしていた頃でも、このあたりまで足をのばしたことはなかったからだ。まずはこのあたりの土地勘をつかむことが必要だった。
それから弓の調整も欠かさなかった。弓は自作だが、悪くはない。
エリサンは村人から譲り受けることもできると言っていたが、実際に見せてもらうと獣人の弓とは細かい部分で違いがあり、使いこなすには時間がかかりそうなのでやめておいたのだ。
今イラガが持っているのは、いくらかの木材と、家の中にあったわずかな金属を集めて固めたかなり複雑なつくりのものだ。自分でも傑作ができたと思ったので、これは最初エリサンに使ってもらおうとした。
しかし、彼はこの弓を引くことができなかった。いくら体格が大きいとはいえ、人間である。しかも彼は医師である神官である。体を鍛えこむような職業ではなかった。
そこでこの弓はイラガが使うことになった。矢も何本か作っており、背中に用意している。たぶん、今日の出番はないだろう。
やはりまずは山の中がどうなっているのか、よく確かめなければならなかった。
人間の痕跡も慎重に調べた。
(山に分け入る人間も多いから、彼らの狩場を荒らすことになっては先生に迷惑がかかる)
イラガはそのように考えていたが、実のところはそれほど心配はいらなかった。大半の村人は農作によって生計を立てており、狩猟に出る者はかなり限られていたのである。
しかしそんなことはイラガにはわからない。彼女は村人が来ないような山の奥まで入って、罠を設置して戻った。
日が暮れたころになって、ようやくイラガは戻ってきたのである。
少し遅くなったなと思って家に入った時、エリサンは女神像に向かって手を合わせていたところだった。
「戻りました、先生。遅くなってすみません」
「あっ、よかった。無事に戻られましたね。もう暗くなってしまって、心配していたところでした」
振り返ったエリサンはイラガの様子を見て、ホッと息を吐いている。
本当に彼は、イラガの無事を祈って女神像に手を合わせていたのだろう。イラガの胸を罪悪感が刺した。
「次からはもう少し早く帰ります」
「いえ、これは私が勝手に心配していたことですから。
獣人の方なら闇夜のほうが動きやすいということもあるでしょうから。
ただ、なるべく、戻る時間を教えていただければと」
エリサンは大きな背中を丸めて、頬をかいた。
それからいそいそと食事の準備をし始める。彼はまだ、食べずにイラガを待っていたらしい。
「これからそうします」
そう言いながら、イラガは奇妙な思いにとらわれる。
獣人の子供は、早いうちに親元から離されて集落全体で育てられるため、同じ屋根の下で親と暮らしたという覚えがなかった。
一つの家で暮らすのは、夫婦だけだ。
だからこうして同じ家で暮らすことのルールを決めるということが、イラガには新鮮に思えた。
一人で暮らしていれば、どれだけ遅くに戻ろうとも、朝早くに出かけようとも、遠慮することはない。しかし誰かと一緒に暮らしているのなら、配慮が必要だ。それだけ不自由になる。
その不自由さを、イラガは煩わしいとは思わなかった。
「先生、骨の鏃はやっぱり軽くて安定しません。できれば鉄がほしいのですが」
「鉄ですね。かなり難しいと思いますが、見てみましょう。
雪の前には行商の方がこちらに寄ってくれるといいのですが」
この村には定住している商人がいないため、流通は行商人に頼っている格好だった。
不定期ではあるが、たまにやってきては毛皮や薬草を引き取り、生活物資を売ってくれている。村にとってなくてはならない人物であった。
鉄となると彼から購入する以外にはないだろう。
鉄を加工するための炉や道具については、またおいおい考えることにした。
ほどなく、温められたスープと少し硬くなってきたパンが食卓に並べられた。
「おいしそう。先生、肉が入ってる!」
嬉しそうに言いながら、イラガは匙をとった。
が、エリサンは目を閉じており、イラガの声にこたえなかった。
彼はスープをわざわざ小皿にとりあげ、それを胸の高さに捧げ、それからやっと目を開いた。
「先生、ママユガ様に祈ってくれたの?」
「はい。あなたが無事であったことを主なる神と、土の精霊ママユガ様に感謝しておりました。
すみません。さあ、どうぞ食べてください。このお肉はまた猟師の方が譲ってくださったのです。味の落ちないうちに」
この行動に、エリサンは深い考えを持っていたわけではない。
彼は単に、善人の神官ならどうするのが当然かということを考えて行動を決めているにすぎないのだ。
(おそらく優しい神官なら教義を押し付けたりはしないだろう。
獣人たちの宗教を尊重するのが正しいやり方のはず。教化を焦ることはいけない)
だから、ママユガという精霊をないがしろにすることは絶対にしない。
イラガがこの家にいる限り、いやたとえイラガがいなくなったとしても、ママユガという精霊に対して畏敬の念を払うことは続けなくてはならない。
そもそも今のエリサンに他人を教化している余裕などなかった。彼は、自分のことで手一杯なのだ。
「先生、でもママユガ様は獣人の精霊で。先生は人間の神官でしょう」
しかしエリサンがそのように考えているとは、イラガにはわからない。
「ママユガ様のように偉大な精霊であるなら、異教徒の人間であっても感謝をささげるくらいでお怒りにはならないでしょう。
私はこちらの神に仕えていますが、こちらの女神さまも、他の神様や精霊に感謝するくらい、お見逃しいただけます」
これは半分嘘だった。たしかにエリサンのいた教会ではそれほど非難されるようなことではない。むしろ土着信仰との宥和をはかるものでよく柔軟に対応したと言われる可能性はある。
だが宗派によっては、主なる神以外の神の存在を認めるだけでも異端とするようなものもある。なので、エリサンは一言付け加えた。
「ですが、私がママユガ様に感謝していることは、秘密にして下さい。
神官であるのに異教を応援しているようで、皆さんに体裁が悪いですから」
「はい、先生」
イラガは頷いて答えた。
(先生は私の信仰を受け入れて、大事にしてくれている)
この事実を嬉しく思いながら。
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