イラガは恩を返したい
全身から腫れが引いた。
念のためにもう一度薬を塗って、一週間ほど様子をする。それで変化がなければ完治とみていいだろう。
エリサンは診察結果をイラガに告げた。
「もうかなり治りかかってはいます。少しずつ毛皮も戻ってくると思いますが、まだ外へは出ないようにして下さい」
「わかりました、先生」
診察を終えたので、イラガは消毒された衣服をまとって、フードをかぶった。
かゆみが消え、もはや自分の毛皮が治ることを疑いもしなくなった彼女は、エリサンのことを先生と呼ぶようになっている。
「訓練したいので、外に出てもいいですか」
「出ないようにしてくださいと、今言ったところではありませんか」
「弓の訓練は、こんな狭いところでは無理です」
イラガは端材を何やら器用に組み合わせ、弓を作っていたのである。同じように矢まで作っていた。
弦は麻から、鏃は鳥の骨から、根気よく作り上げてしまった。獣人は皆このように器用なのかとエリサンは不思議に思ったものだが、このくらいのことは集落の全員が叩き込まれるという。
しばらくはそれでイラガは満足していたようだが、弓ができれば試してみたくなるもの。
射てみなければわからない不都合もあるというのはわかる。
しかし万一のことがあって、ぶり返しては元も子もない。
エリサンはイラガを大人しくさせているのに苦労した。この女はほとんどじっとしていないのだ。
何か手伝わせろとばかりにこちらを見てくるし、どうにもやりづらい。
「わたしは先生に、おいしいものを食べてほしいのです」
「猟に行きたいのですね。それはすっかり治ってからにしてください。今は、我慢するときです」
そんな受け答えを何度したかもわからない。
そうしている間に寒い日が続くようになってきた。日が落ちるのも早くなり、冬の訪れが感じられる。
エリサンは一冬分の薪を集めて積み上げ、保存食を作っていた。
「このあたりは、雪が積もることも多いそうですよ。
もしあなたが獣人たちの集落に戻ることを考えているのなら、その前に出られるように準備をしたほうがいいでしょう」
おそらく、エリサンは何気なくその話題を振ったに違いなかった。
彼はどのようにしてイラガがここに来たのかを知らないのだ。咄嗟にその言葉に返答できず、イラガは迷った。
その様子を見たエリサンは自分の失言を悟り、あわてて付け加えた。
「失礼しました。予定がなければ……」
と言いかけて、続く言葉を思いつかない。
何というのが普通なのだろうか。それが今のエリサンにはわからなかったからだ。
彼の中では、イラガは入院しているという扱いである。
あれこれと面倒を見ているのも治療の一環であるという考えによっている。だが、もうすぐイラガは退院だ。そうなったあと、帰る場所があるなら問題はなかった。むしろ今まではそうだと思っていた。
治療が終われば、イラガは獣人の集落に戻るとばかり。
考えてみれば、あのような姿で森の中を歩いていたのは異様としか言えない。
彼女の様子から考えれば、追い出されたか、逃げてきたかのどちらかだろう。おそらくもう、獣人の集落にイラガの居場所は残されていないのかもしれない。
となると、彼女はどこにも行けない。
(こういう場合は、どこか住めるところを探してやるのが神官なのかもしれませんが)
エリサンは村にやってきて日が浅い。そこまでの面倒が見づらい状況だった。
村人たちに聞いて回ってもいいが、何しろ小さな村である。獣人を受け入れることに積極的な者は少ないだろう。
(かといってここにずっといてもいい、というのも問題でしょうね。
イラガは女性ですし、私よりだいぶ若いように思えます。では)
ここまで考えて、彼は口にした。
「予定がなければ、あなたのよいように。しばらくここで心を休めてもいいし、訓練をしてもいいかもしれません。
どこか世話をしてくれる方がいるというのであれば、少ないですが路銀を都合できます」
(これなら文句のない、模範的な神官の態度と言えるでしょう)
そう思った。
だがこの言葉を聞いたイラガは、首を振ってこたえる。
「先生は私を助けてくれたのに、お金までくれるのですか?」
「たくさんはあげられません。私の生活に、あまりお金は使いませんので。
ですが、女性が一人で生きていくには色々と物入りでしょう。
ここから離れたいというのなら、なおさらお金もかかるはずです。そうしたいというなら、私から少しですが」
イラガはそんなまさかと疑った。
人間が獣人に、ここまでしてくれるものなのか。お金はもらえるならありがたかった。
しかしイラガは治ったらここをでようとは思っていなかった。
エリサンに恩を返しておかなくては、とそう考えたのだ。いくらかの獲物を狩って譲り渡し、対価とする。
そうでもしなければ、ここまで世話になったことに対してあまりにも不義理だ。
「いずれにしても、治ってからです。ここで油断をして悪化したのでは仕方ありません。
いいですね?」
「わかりました」
そう答えはしたが、イラガは雪が積もる前に山に入ることを決めていた。
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