ぬいぐるみ

高村 樹

ぬいぐるみ

崩れ落ちたアパートの瓦礫の中にぬいぐるみがひとつ。


砕けたコンクリートの粉と泥に塗れ、首のところが解れてしまっている。


薄汚れて、とても寂しそう。


ぬいぐるみの持ち主はどこに行ったのだろう。


写真に写っていた小さなぬいぐるみ。


爆音が鳴り響くバフムトで撮られたこの写真には命は写っていない。


ボロボロの古いミニバンや焼け焦げた乗用車。


砲撃にあって倒壊した建物とその瓦礫。


亡骸が写っていなかったのは、ウクライナ帰りの知人なりの矜持であろうか。


あるいは私への配慮か。


違う角度からぬいぐるみを写したもう一枚の写真。


その頭のところには赤い染みが付いていた。


私は敢えて、この染みは何だろうとは問わない。


知人もマールボォロをふかしたまま目を閉じ、私が写真を見終わるのをただ待っている。


緩やかな時の流れの中で、半年ぶりに嗅ぐ煙草の煙にどこか安堵しながらも、写真に写る無慈悲な現実が姿勢を崩すことを許さない。


雨ざらしになり、色の褪めたクマのぬいぐるみのつぶらな瞳が、ぬいぐるみの持ち主の瞳に見えて。


また、来月、ウクライナに行くよと知人が突然言った。


それは知人の生業であり、ライフワークだ。


私は、そうかとだけ言って、千枚を超える切り取られた現実の風景に視線を戻した。


最初に見たぬいぐるみとは違うぬいぐるみがその後の写真にも何度か姿を現した。


その戦地が、ごく普通の人々の、生活の場であったことの証明だろう。


知人の撮る写真には戦地で暮らす人々や兵士たちの姿は写っていない。


いや、あるにはあるのだがそれはプライベート用で、ありのままを伝えるには写っていない方がいいらしく、別のファイルに分けてあるそうだ。


物は何も語らないが、その酷薄な現実を雄弁に教えてくれるのだという。


私はその言葉にただ頷くことしかできない。


この戦地で撮られた写真に写るぬいぐるみたちが私に訴えかけて来るものは安っぽい言葉などでは表すことができないことに気が付かされる。


ただの傍観者である私には、その過酷な日常を送る戦地の人々の苦難に思いをはせ、それらぬいぐるみの持ち主の子らの無事を祈ることしかできないのだ。


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