抱きしめて、おやすみ。

夕藤さわな

第1話

「こちらをどうぞ、理事長」


 私が差し出したウサギのぬいぐるみを見て彼女は眉をひそめた。五十代も半ばだというのに艶のある黒髪と白い肌を保つ凛とした美しい女性ひとだ。


「これは?」


「今日が最後なので」


「あぁ、そうだったわね。あなた、とても優秀な秘書だったから残念よ。どう? 今からでも辞めるのをやめない?」


 そう尋ねる表情は冗談半分本気半分といったところだ。私が困り顔で微笑むのを見るとすぐさま"冗談よ"と苦笑いしてひらりと手を振った。


「それにしても……ぬいぐるみ?」


「はい。女性にはぬいぐるみや人形、男性にはサッカーボールやミニカーを最後の日に送るようにしているんです。お忙しい方が多いので少しでも童心にかえっていただけたらと思いまして」


「……童心」


 ぽつりとつぶやいた彼女は皮肉気な笑みを浮かべてぬいぐるみを引き寄せた。


「私が本当に子供だった頃はぬいぐるみなんて親からも誰からももらえなかったわ」


 ささやくように言って胸に抱えたぬいぐるみの額にほおずりする。


「夜の公園で一人、ベンチの上でひざを抱えて高いところをにらみ上げてた。いつかここから這い上がる。どんなことをしてもあの高みにたどり着いてみせるってね」


「そうやって理事長はここにたどり着いたんですね」


 ゆっくりと顔をあげた彼女の目が私を見つめる。


「えぇ、そうね。多分、きっと……あの頃、ぬいぐるみをもらえていたらここにはたどり着かなかった」


 世界有数の資産家という高みにも。

 巨大な総合病院の理事長という高みにも。

 きっとたどり着けなかった。


「だけど、それでもね。思うのよ。もっと早くにもらえてたらって」


 静かに、寂し気に微笑む彼女に微笑み返して私は深く一礼した。


「短い間でしたがありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとう。……今日はこの子を抱いて眠るわ」


「はい、理事長。……おやすみなさい」


 美しい女性ひとは美しい夜景を背に美しく微笑んでいた。

 私が送ったウサギのぬいぐるみを胸に抱きしめて――。


 ***


『昨夜、東京の××総合病院で爆発があり、女性が死亡しました。警察によりますとこの病院の理事長と連絡が取れていないとのことです。××総合病院は違法な臓器売買を行っていた疑いがあり警察が……』


 テレビの電源を切るとニュースを淡々と読み上げていたアナウンサーの声がぶつりと途切れた。


『仕事は完了だ』


 "また連絡する"とだけ言って電話はぶつりと切れた。

 スマホをテーブルに置いてぬいぐるみの一つを引き寄せる。


「私も同じです、理事長」


 慎重に糸をほどき、ぬいぐるみの腹の綿をかき分けていく。


「あの頃、ぬいぐるみをもらえていたらここにはたどり着かなかった」


 かき分けた綿にそっと爆弾を仕込みながら私は静かに、寂し気に微笑んだ。


 美しい夜景を背に美しく微笑んだ美しい女性ひとを思い浮かべながら――。

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抱きしめて、おやすみ。 夕藤さわな @sawana

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