第7話 舌を入れたことの、後悔

「ごめんっ」


 思わず理性を失ってしまい、大切な幼馴染の小さな口に、舌を入れてしまった。

 2秒くらい舌を入れてから我に返った俺は、慌てて立ち上がり真那から離れた。


「ごめんよ。その、悪気があったわけじゃないんだ」


 真那は、あまりの唐突な出来事に実感が湧かないのか、大きな瞳をまん丸くして俺の膝小僧を凝視している。


 超えてはいけない一線を、ついに超えてしまった。この後、壇上で全校生徒に見られながらやる以上、それは必然の流れなのは間違いない。だけど俺は、誰にも見られていない中で真那の許可も下りていないのに、舌を入れてしまった。

 普通、するだろうか。イラッとした程度で、女子の幼馴染の口に舌を入れるだろうか。もちろんあり得ない。でも俺はそれをした。

 ひょっとして、俺は無意識のうちに真那を女として見ているのか? 世話の焼ける甘えすぎ妹みたいに思ってたけど、もしかしてとっくに俺は真那に――




「おい! お前らいつまでやってんだ!」



 突然、鬼虎魚先生の怒号が飛んできた。


「ったくよぉ、放課後の本番までそこにいる気か? 練習する気ないんなら、さっさと下りてこいや」


 いつから見ていたんだろう。鬼虎魚先生は、どこから持ってきたかも分からない椅子に座って、タバコをふかしている。


「先生が言ったんでしょうが! だいたいキスの練習なんて、できるわけがないじゃないですか! 道具とか使うなら百歩譲っても、真那とするなんて!」


 ちょっとしちゃったけども。


「んじゃこの学校の初代校長の銅像と練習してこい」

「嫌すぎます!」


 今更すぎることだが、キスの練習って何だ。そんなの、その相手に対して失礼すぎる行為だ。要はその人を実験台に使うわけで、その人の心や感情、これからの未来について無思考を貫くことを意味する。キスにはきっと大きな意味があって、俺はそれを欠片かけらも理解していない。そんな男が、誰かとキスをする資格なんてない。


「真那、立てるか?」

「うん。立てる」


 すく、と立ち上がる真那。


「キスの練習、できなかった」

「そんなもんしなくていいんだ。本番の一回きりで終わりにしよう」

「わたしはしてみたい。さっきは中途半端だったから、もっとしっかりしてみたい。あったかかった、亮人の舌。スキルアップすれば相当の腕になれる」

「真那……」


 表情こそ淡々としているが、その瞳は好奇心に満ちている。俺ともっと仲良くなりたい意思の表れだろうか。

 

「意味を分かって言ってるのか? キスをするってことは、男女の関係になるってことなんだぞ? 俺たちはそんな関係望んでないだろ?」

「でもさっき舌を入れた」

「本当に申し訳ない。お前が夜な夜な俺の身体に口付けしてるってこと聞いて、イラついたからやったんだ。決して男女の関係を意識してたわけじゃないってことは理解してくれ」

「わたしは女で、亮人は男。昨日も今日も、明日も、ずっと男女の関係。過去から現在、未来においてずっと男女の関係」

「あのなあ!」


 大きな声を出してしまった。あんまり大きな声で叫ぶのは良くないことだと、知りながら。


 真那はびっくりして、細い腕を耳に持っていき、防衛する。蒼い髪を、くしゃっと乱して。


 真那は……どう思ってるんだろう。


 俺は、全然「女」として見ていない。年がら年中同じ布団で寝起きしてるのに、見慣れた幼馴染、あるいは妹のような感覚しかない。かわいかったり、ちょっとすることはある。でも、それはキスするような関係の「女」ではない。生物学的なオスとして、本能的に反応するだけだ。


 本当は、知りたくない。真那は俺のことを「好き」と言い続けているけど、他方で、真那の兄は失踪している。失踪前は兄のことを俺に自慢したり、厳しい母親から自分を守ってくれる兄の強さについて聞いたりした。年齢がだいぶ上だったから、当時は俺も「かっこいい」と思ったものだ。

 でも今は、心の奥底でこう思う。

 切幡亮人という存在は、行方知れずの桜八郎という男の、代役。

 素直じゃないし、疑心に満ちている。それでも俺は真那が大切だから、それでも別に構わない。

 構わないと、自分の醜い心に言い聞かせ続けている。



「おい! いつまでやってんだお前ら! 二度も言わすんじゃねえぞコラ」



 またも先生の怒号。いつの間にか椅子が消えて、タバコも吸っていない。よく見たら床に白い棒状のものが落ちているけど、気にしないでおこう。


「迷惑かけてすいません。先生、真那は学校内に入れないと思うんで、一旦家に帰っていいですか」

「そりゃダメだろ亮人。学校に来た学生は、特別な理由でもない限り早退しちゃあいけねえ」

「真那を家に帰らせるっていう特別な理由があります!」


 不登校の人を、無理に学校内に入らせることは危険だ。多くの人が行きかう様子に恐怖を覚えるかもしれない。たとえ俺が隣にいたところで、冷ややかな視線を浴びるだけだろう。


「じゃあ、こうしねえか?」

「何です」


 くるっと後ろを振り返った鬼虎魚先生は、


「おーいテメエら! もう準備できたか?」


 凄まじい大音量で、肉体労働させられている男性教師たちに呼びかける。


「すでに任務完了致しております」「サー。イエッサー」


 ど、どういうことだ?


「亮人、桜真那。今は朝の、えーと、9時半過ぎだ。朝っぱらから刺激の強い光景を生徒らに見せて、元気と活力を与えてみねえか?」


 にぃ、と、細い目をして不敵な笑みを浮かべる。


「今からやれ、と」

「ああ、そういうことだ。桜真那は大勢の人が怖いだろうから、アイマスクと耳栓を付けてもらう。教師が生徒にトラウマ植え付けるなんてもってのほかだからな」

「俺への配慮はどこ行った!」

「てことで今から放送流すから、熱のこもったディープキスのほうヨロシク。お前らはもう壇上中央でスタンバっとけ。舞台袖から出てくる必要はねえからな」

「ちょ、先生⁉」


 たたた、と、小鼠のような俊敏な動きでどこかへ行ってしまった。


「亮人、わたしは大丈夫。先生がアイマスクと耳栓用意してくれるって言ってたし」


 薄く微笑む真那。どこからそんな余裕が湧いてくるんだ。


「俺は大丈夫じゃないんだよ。今更だけど生徒どもの反応に怯えてきた」

「亮人ならできる。わたしの所有物である亮人を、わたしが操作してあげる」

「所有物じゃねえよ!」

「わたしの犬?」

「犬でもない! メス犬でもないからな!」

「うん。亮人は男だから、オス犬」

「犬から離れろ!」

「不思議なことに、メス犬はおしっこする時、カエルみたいな体勢。オス犬は片足を上げる。知ってた?」

「どうでもいいってレベルじゃねーぞ!」

「知らなかったの? 亮人知らなかったんだ」


 不思議そうにきょとんとして小首を傾げる、真那。いったいどういう神経してんだ。


 またしてもどっと疲れるこの会話。悩んでたのがどんどんバカらしくなる。そもそも、全校生徒の前でディープキスするってこと自体が激しくバカらしい。こんなバカげたこと、簡単なことに決まってる。簡単すぎて、俺にできない理由がない。お箸を持つより簡単だ。ふっ、さっさと終わらせてやるぜ。

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