第6話 本番前のキス練習

「マイクテス マイクテス」


 生徒が一人もいない広大な体育館に、地鳴りのごとく響く鬼虎魚先生のしゃがれ声。


「ちょ、先生! 音量デカすぎますって」


 このマイク、俺たちのキス音を拾うものらしい。指向性があり、俺たちの唇と唇が触れ合う音を全部キャッチして体育館中に響かせる、卑劣で凶悪な道具だ。しかも、巨大な化け物が大声で叫ぶくらいのデシベルはある。


「おいお前ら! なーにトロトロしてんだ! もっときびきび動けや!」

「サー、イエッサー!」


 準備をするのは、校内の体育会系の先生たち。鬼虎魚先生の絶対的権力によって、理不尽にも駆り出された悲しき男たちだ。肉体労働しても金銭は1円たりとも入ってこない、まさにブラック社会。学校の先生の闇が垣間見られる。


「亮人! 桜真那! てめえら何ぼーっと突っ立ってんだ。練習しろや練習!」

「練習?」


 赤鬼のような形相で指を指し、意味不明なことを言ってきた。無条件反射で、思わず体をのけぞらせてしまう。


「ディープキスの練習に決まってるだろ! お前らしたことあんのか?」

「ないに決まってます! ていうか何、あり得ないこと言ってるんですか、練習なんて必要ないでしょ!」

「キスをナめんじゃねえぞ! キスは愛を確かめ合う行為の一つでもある。もし下手くそなキスしかできなかったら、お前らこの先すっげえ気まずい雰囲気で生きていくことになるんだぞ。想像してみろ、唇もカッサカサで舌もどう動かせばいいか分からず、棒立ちしたまま数分過ごす地獄を」


 さすがは29歳だ。これまで幾多の恋を経験し、失恋をし、キスの奥深さを知ってるんだろう。


「そりゃあ、先生は大人だから何回も……キ、キスしたことがあるんでしょうけど、俺たちはそんなことしたことないんです。そこんとこは理解してくれないと困りますよ」


 緊張とかいうレベルじゃない。毎日のように一緒に寝ているため見慣れているから、異性として真那を見ているわけではない。でも、にしてもだ。キスなんて…………


 ふと先生を見ると、もぞもぞ脚を動かして目線を逸らし、顔を赤くしている。


「おれはその、彼氏できたことねえっつうか……いらねえし」

「あ…………」


 鐘を打った後のような、沈黙。舞台では設営作業が進み、ガタガタゴトゴトとうるさい雑音が響く。忙しくて動的な空間のはずなのに、なぜか、冬の森で迷子になったような、どうしようもない寂寥感が漂う。


「先生は未経験だから、先生の知識はマンガやドラマで得たもの。先生の心は子供で、年齢だけ大人になった。妄想しかできなかった今までを思ったら、……ご愁傷様、先生」

「おれとリングの上で勝負してえようだな桜真那」


 まずい。純真無垢な真那の言葉が全部トゲを持っているせいで、先生の顔が爆発寸前のザクロみたいに真っ赤だ。


「真那、とりあえずあっちへ行こう」

「先生はわたしよりも経験が浅い。わたしは今日、亮人とディープキスをする。でも先生はキスどころか彼氏もいない。わたしには、亮人がいる。どう考えても先生の負け」

「…………テメエなあ」


 ザクロ、爆発!


「逃げるぞ!」

「きゃああっ」

「待ちやがれクソガキどもおおおおお!」


 しかし先生は床に這うケーブルに躓き、びったーん、とド派手な音を立てて顔から倒れた。


 *


「これからキスの練習するの?」


 ダッシュしながら舞台袖に逃げ込み、階段を駆け上がる。虚空になびく長い蒼髪が、薄暗い空間でも淡い光を帯びている。


「したくはないけどするしかない。下手くそなキスしたら、今以上に見下されて排除される」


 上りきると、3人くらいしか立っていられない狭苦しいスペースが現れた。

 ここでするのが、多分ベストだ。誰もいないから誰にも見られることがない。


「亮人とキスするなんて……」

「したくはないんだぞ。マジで」


 嫌いってわけじゃない。でも、後戻りできないかもしれない。幼馴染として一緒に寝ている関係が、まったく別の関係になるかもしれない。


「わたしはしたい。亮人のこと、ずっと好きだから。でも今すぐなんて……」

「小学生じゃないんだぞ、俺たちは。時間が経てば経つほどキスしたくなくなるに決まってるだろ」


 そんなことを言いつつも、分かる。

 今までずっと真那を守ってきた。心臓から発生する謎の磁場、兄の失踪、いじめ。普通なら立ち直れないレベルの不幸から救い出してきたのは、この俺だ。

 異性として見れないけど、異性に違いない。血のつながった妹じゃなくて、血縁関係のない女子だ。

 今日、俺はキスをする。それが意味するのは、やっぱり「恋人関係の締結」だろうか。はたまた、俺と真那に限ってそんなことはないのだろうか。


「りょうと……」

「こら、学校であんまり甘えるな」

「りょうとぉ……」

「聞いちゃいねえ」


 胸に密着し、縋るように抱きついてきた。


「キスって、どうやってするの? 全然分かんないよぉ」


 温かい、女の子の胸。


「俺だって分かんねえよ、したことないんだから」

「どうせなら上手なキス、したい」

「最初はみんな下手なんだ。万物においてそう言える」

「じゃあ、やっぱり練習が必要なの? そうだよね?」

「…………」


 上目遣いで、俺のほうだけをじっと見つめる真那。ぷるんっとした唇に、目が吸い寄せられる。今からこの可愛い唇を、俺が……


「女の子は怖がりだから……とっても臆病で、勇気出ないから……だから、亮人から、して?」

「な、なるほど。そう、だよな」

「大好きな亮人にいっぱい甘えてるけど、本当は怖いから……すごく怖いから……だから、亮人からして?」

「分かったよ…………任せろ」


 俺も怖いよ! 幼馴染って関係が断絶する可能性が大きい! 今までベッドで一緒に寝てた関係は、断たれるかもしれない!


「い、いく、からな」

「うん……」

「目、閉じた方がいいんじゃないか?」

「うん……」

「それじゃその、なんだ。3つ数えるから、心の準備をしろよな」

「がんばる……」


 3つ。そうはいったものの、1つにかける時間を1年にすれば……


「まだ?」

「す、すまん。何でもない。それじゃ、今から数えるからな。大丈夫だ、安心しろ。乱暴にはしないから。もし怖くなったらいつでも言――」

「さんにーいち」

「なっ⁉」


 真那の並べた言葉は、1秒もしないうちに終了。俺が「ゼロ」と口にしたら、もうキスをしなきゃいけない。


「亮人が早くしないから、汗かいてきた。亮人に匂い嗅がれちゃう。寝る時毎日嗅がれてるのに、なんで今は恥ずかしいのかな……」

「そんなこと気にしなくていい」

「熱いよ亮人。……なんか…………胸が、きゅんきゅんするの…………」


 甘くとろけた瞳。口元はゆるゆる。


「立ってるの、もう無理…………」


 そう言った途端、ぐしゃっと脚からくずおれた真那。


「おい大丈夫か? どわっ」


 空き缶みたいなものを踏んでしまった俺は


「真那どけ!」

「ふにゃ?」


 ちゅっ


「…………」


 転倒した拍子に、真那のスカートの中に顔をうずめてしまった。

 例の、男の頭を狂わせる芳香がする。こうして何も見えないまま顔をうずめているだけで、天国にいるような気分だ。


「……ばかっ」


 ぱしっ


 *


 気を取り直して、もう一回。


「亮人ごめんね? わたし立てなくなっちゃった。胸がどうしてもきゅんきゅんして、ちょっと痛い」

「腰を下ろしたままでしよう。どうせ下手なんだから、興ざめして立ち上がれるようになるさ」

「うん……」


 さっき頬をぶたれたから、少し痛い。「気持ちいい」と思えなくもないのが怖い。


「じゃあ、口を開けてくれ」

「こ、怖いよぉ」

「もしかして、閉じたままでもいいのかもな。唇を合わせればいいだけだし」

「うん……そうする」

「それじゃ、もう…………いくからな」

「うん」



 そっと、真那の唇に自分のを添える。柔らかくて、温かい。弾力は思ったほどなかった。



「よし終わりだ」

「え?」

「もう終わりだ。キスなんて簡単にするもんじゃないよな、まったく」

「全然感覚がなかったよ? なんにも分からなかった。ほんとにキスしたの?」

「なんだと⁉」

「もう一回して? 亮人の唇、分からないままなんてイヤ」


 そんな困ったような上目遣いされたら俺…………

 俺の心臓は今にも破裂しそうだってのに、真那は物足りないってか? どういうことだ。


「あのね、わたし、寝る前ね? 亮人の胸とかおなかとかに口付けてるの」

「…………何を言い出すんだ?」


 聞き間違いでなければ、この幼馴染は夜ごと、とてつもなく非常識な行為をやっていると判断できる。


「亮人が寝たら、シャツの中に潜ってね? 毎日、亮人成分を摂取してる。すごく安眠できるの、亮人のカラダ」


 俺の身体が、幼馴染によって汚されていた事実発覚。汚れなき身体だと信じていたが、まさか真那のものになって汚されていただなんて。


「だ、だってわたし、亮人のことが好きだから…………だから普通のことだもん」

「どこが普通なんだ。どう考えてもかなりヤバいぞ」

「好きな人だから、そのカラダも好きなの。だから毎日口付けたっていいんだもん。特権だもん」

「てめえ……」


 無性に腹が立つ。勝手に俺の身体を弄びやがって。


「きゃっ!」


 真那のあごを右手でぐっと持ち、左手で鼻をつまんで


「んむっ⁉」


 開いた口に、俺の舌をねじ込む。

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