第4話 遅刻しなかったけど、罰を受ける

「ぅうんっ……」


 朝7時。とうとうこの日が来てしまった。外では桜の花びらがひらひらと舞っていて、春の終わりを告げている。


「真那、おい真那」

「りょうとぉ……」

「起きるんだ。今日はキスしなきゃいけない日だぞ」

「ここでしようよぉ……」


 薄い服がはだけて、白い肌が露出している。まっ平らの胸に日差しが照りつけ、中央部に薄い影ができている。谷間と言うには浅すぎるが、指2本くらいならすっぽり収まりそうだ。いつものことで慣れているのだが、真那は寝る時ノーブラ。両方の胸のてっぺんから、ぷくっとした可愛い突起が、薄い服から透けている。


「今起きれば遅刻しないんだよ。ほら、起きよう」

「やだぁ」

「起きろ!」

「抱いて?」

「そこまで寝たいのか……」


 普段は端正な顔立ちの真那だが、朝が苦手すぎて寝ぼけまなこだ。仰向けのまま、何かを求めるように俺のほうをうっとり見つめ、バンザイしている。長く細い蒼髪が乱れ、俺のベッドに広がっている。


「起きるぞ」

「きゃっ」


 華奢な腕を引っ張り上げ、小さな体躯の真那を抱きあげる。羽のように軽い体重だから、ひょいと持ち上げられる。


 *


「あら。今日は早いのねあんたたち。たった今、朝食ができたところよ?」


 母さんは、工場で働く事務員。普段なら、2人ぶんの朝食をテーブルに置いて、家を出ている時間。


「母さん、たまには俺たちを起こす気にはならないのか? 俺、昨日69回目の遅刻をしちゃったんだが」

「母さんは自主性を重んじる性格だから、無理矢理何かを強いることはしないわ。それに、あんたを起こしたって真那ちゃんが起きないんじゃどうにもならないわよ。信頼関係を築けていない母さんには、真那ちゃんを動かすなんて土台無理よ」

「真那に嫌われたくないだけだろ」


 俺の後ろに隠れて、真那は俺のパジャマの裾をぎゅっと握っている。八郎さんが失踪してから8年経ったということは、俺の母さんとの付き合いも8年だ。しかし真那は一向に母さんに心を開くことはなく、こうやって俺を盾にしている。


「真那ちゃん? お顔見せてくれないかな? 私とお話しましょ?」

「小さな子供じゃないんだ。そんな扱いしたら、余計に隠れてしまう」

「やっぱりうまくいかないわねえ。仲良くなりたいのに、仲良くなる方法が分からない。国民の命と健康を守る国会議員でさえ、真那ちゃん一人を守ることもできない理由が分かるわ」

「真那の母親は仕事人間だから。それに、真那の姿を見て厳しく言うだけの人だしな」


 真那は、俺のかかとをコツコツと蹴っている。裸足のせいで、指と指の隙間が直接当たってるんだと分かる。感触からして爪が伸びているから、今度切ってあげないと。


「わたしはわたしのお母さんより、亮人のお母さんのほうが好き。朝ごはんも美味しいし、わたしのこと怒らない。でも、わたしのお母さんがわたしを可愛がってくれる未来を信じてる。亮人もそう思うよね? お母さんがわたしのこと、可愛いって言ってくれるよね?」

「ないな。実の親なのに、真那を無視してるんだから」

「……同意しないんだ。亮人」


 俺はテーブルに向かい速足で歩き、椅子を引いて、朝ごはんを食べ始める。


「うぇっ。母さん、この卵焼き変な味がするんだけど」

「ゴーヤエキスっていうのを売っててね。どんな料理にも合うって書いてあったんだけど、美味しくないかしら?」

「まずい。どう味わってもまずいよ」


 母さんはたまに、口にできないほどまずい料理を提供する。名前のない創作料理に挑戦して、失敗するのだ。それでも今まで腹を壊したことはないから、不健康とか有害とかではないのだろう。


「この卵焼き美味しいよ。亮人の舌はおかしい。きっと味覚に致命的問題があって、今すぐ119を呼ばなきゃいけない」

「同じ言葉をそっくりそのまま返す」


 なぜか真那は、母さんの料理を旨い旨いと言って食べる。ずっと前、母さんが創作料理で明太ココアパスタなるものを作った。パスタに明太子ソースをかけ、加えてココアパウダーを振りかけてみた、というただそれだけだったが、案の定めっちゃまずかった。それを、真那は旨いと言ってぺろっと食べてしまったのだ。


「次は青汁エキスを入れてみるわね。この前通販のCMで見たのよ~」

「醤油でいいよ。少なくともエキスって名の付くやつは入れないでほしい」


 お茶をがぶがぶ飲みながら、なんとか平らげた。真那はつむじをこっちに向けて、まだ一生懸命食べている。顔を上げた真那は、笑顔で美味しそうにしている。


 *


 いったい何日ぶりだろうか。久しぶりに、遅刻せずに済んだ。


「ヨォ。昨日はよく眠れたかい」


 校庭で待っていたのは、ピンク色の髪の毛の担任・鬼虎魚先生。ヤンキーのようにポケットに両手を突っ込んで、のそのそ歩いてきた。


「眠れたか眠れなかったでいうと、眠れました」

「美少女と一緒に横になりゃ、不安があっても寝れるってか」


 俺の横でおどおどしている子猫のほうに、ジッと目線を向ける。


「先生のばかっ」


 抵抗する子猫。髪の毛が毛羽立って、威嚇体勢だ。

 学校というもの、特に高校という場所に初めて来た真那。俺にピッタリくっついて登校し、今もみっちり腕を握ってくっついている。


「確かにバカかもしれんな。おれはお前らのために、マジックミラー号を用意したからなぁ」

「「マジックミラー号⁉」」


 見事にハモった。驚いたのか、数人がこっちを見る。


「知らねえのか? お前らが中で何をやってようが、お前らが外の景色を見ることはできねえ。でも外にいるやつらは、お前らが中で何をやってるか見える。マジックミラー号の中に入ればそれが可能になる」

「そんなこと知って――ん?」


 ちょっと待て。それって逆じゃないか? マジックミラー号は、外にいる人からは中が見えない仕組みだ。中にいる人は、あたかも野外でプレイするかのような背徳感を味わえる。絶対に外にいる人からは見えないという保証があるから。


 その逆。


「お、着いた着いた」


 一台のトラック。荷台には、何やら怪しい透明なハコが。


「中に入ったら、右側に電灯のスイッチがある。必要なら使え。真っ暗闇でディープキスしたいってんならそれでも良いがな」

「やだよ! あんた何してくれてんだ!」

「全生徒にアンケート取った結果だ。体育館の舞台でキスするとか、教室を巡回してキスするとか、いろいろ意見があった。そんな中、マジックミラー号を使えばどうだ、っていう意見があってな」

「だからマジックミラー号じゃない! 明らかに逆マジックミラー号だ!」

「外の景色が見えないからこそ、採用したんじゃねえか。おれはな、桜真那の精神状態を知ってる。生徒どもに見られながらなんて、とてもとても耐えられないって分かってる。だからこそ、桜真那の目に人が映らないように配慮したんだよ」


 そのとき、一つの重大な事態に気づいた。


「…………鬼虎魚先生」

「どうした」

「これって、生徒に見られながらキスするんですか?」

「正確には、全校生徒に見られながらディープキスをする。ああ、暗い中でやったとしても赤外線カメラで撮影してるから心配いらねーぜ」

「そこじゃねえよ!」


 全校生徒に見られながらディープキスだと⁉ そんなの、


「拷問だ! これは教育委員会が黙っちゃいないですよ!」


 俺は真那を苦しめたくない。真那はもう、十分苦しんだ。親にもロクに相手にされず、兄には失踪され、中学でいじめられて高校にも行けない状態。これ以上、真那を苦しめて何になるんだ!


「亮人……」

「はっ」


 真那の、スイーツのような甘ったるい声がした。


「わたし、亮人と一緒ならいい。どうしても必要な罰なら、受ける。亮人はわたしを守ってくれるから。今までもそうだった。わたし、信じてる」

「…………ッ」


 桜の花びらが強い風に吹かれて舞い散る。校庭にはすでに、逆マジックミラー号がエンジンをヴォンヴォン言わせてスタンバっている。

 何人か、ちらちらとこっちを見ている生徒がいる。何せ今は、通学時間帯だ。


「おまえら、授業のことは気にしなくていいから、好きなだけディープキスしていいぞ。少なくとも30分は拘束させてもらうが、盛り上がれば1日中でもOKだ。マジックミラー号は1日中レンタルしてっからよ」

「だからマジックミラー号じゃなくて逆マ――」


 俺たちのデカい声を聞きつけて、生徒たちがクスクス笑いながら通り過ぎている。


「っ!」


 反射的に、真那の顔に抱きついた。もう二度と、人に傷つけられる感覚を味わわせてはいけない。人が嘲笑っている顔を見せてはいけない。


「どうしたの? 亮人」

「いや……」

「この中に入るんだよね。もう入ろうよ」


 クイクイ、と俺の袖を引っ張る。


「そんじゃあ、おれはここでお前らを鑑賞するから。万一犯罪者が乱入してきたとき、ぶっ倒す役も必要だしな」

「あんたが一番の犯罪者だろ!」


 鬼虎魚先生は、もうタバコを吸っている。当然禁煙なのに、この学校で最も大きな権力を握る鬼虎魚先生は何をしても許されるのである。


「すいませーん、応募された切幡亮人様、桜真那様。準備ができましたので中にお入りくださーい」


 逆マジックミラー号を運転してきたであろうおっさんが、呑気に言う。


「まあ頑張れや。おれが笑ってやる」


 すでにニカニカ笑っている鬼虎魚先生。


「ディープキスって、普通のキスと違うのかな」


 無垢な疑問を呟きながら、逆マジックミラー号の中に入ってしまった真那。


「…………やってやろうじゃねえか!」


 これは罰だ。罰としてのキスだ。恋愛としてのキスではない。だから、大丈夫なんだ。きっと。

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