視線を下げてくしゃっと笑った
真黒さんのアトリエに初めて訪れたのは、僕がこのカラスの島に来てから一週間後のことだった。そのアトリエは、異質なものだったのだけれど、それを語るのはもう少し後になりそうだ。
朝の十時ごろ、団体の客が来る日、追い出されるように僕は旅館の部屋を出る。旅館の自動ドアが開くと同時に、川の流れる音がしてきて、クーラーのない暑さを幾分か和らげてくれた。流浪橋の付近には、見慣れない集団がいる。おそらくは大学生くらいの年齢だろう。何かサークルやゼミの集まりなのだろうと思った。男女入り混じった集団で、おそらくはこの人たちが結衣が言っていた団体客なのだろう。正確な人数はわからないが、流浪橋を渡ることを躊躇するくらいの人数はいる。旅館の中に戻り、ロビーに行った。結衣には真黒さんが住んでいる場所までの道が簡単に書かれたメモをもらっていたが、いつ行ってもいいということだったので時間をつぶそう。ロビーの一番隅に置かれている椅子には筈華が座っていた。ロビーには他にも数人の観光客と思われる人が座っていた。ここに初めて来たときにいた半袖短パンの男性がパンパンのリュックサックを机に置いて脚を組んで座っている。まだ、ここにいたのか。荷物の量を見るに、どうやら今日でこの旅館からは離れる様だった。男性はスマホから視線を外し、周りをぐるっと見る。僕と視線が合った後に、筈華の方も見るが、筈華が見えているような様子はない。真っ赤な床の反発を足の裏でしっかりと感じながら筈華に向かい合って座る。
「久しぶり」軽く手を振る。これは半分癖だ。僕の手は非常に軽い、どんな時でも手を振る。
「昨日も病院に来てたじゃないか」筈華は楽しそうに笑った。
「幽体の筈華と会うのは久しぶりじゃない?」
「ああ、そうだったかなあ」
筈華とは、実際に会って話すことが多くなっていた。幽体の状態と話すことを、僕が避けたのだ。筈華も僕からアクションを起こさない限り僕の部屋に忍び込んでくるようなことはしなかった。筈華は、初めて会った時よりは調子が良くなったようだったが、それでも筈華の声は細い。時々かすれて、息がすうーと喉を通る音が聞こえてくることが多かった。だから、クリアな筈華の声を聞くのはなんだか新鮮だ。
「何してたの?」
「暑かったからな」わざとらしくひたいに着いた汗をぬぐうような仕草をした。当然だが、筈華が汗をかいているような様子はない。
「その体でも暑いの?」
「いーや。快適だけど」視線を動かし、人々の肌を焦がす日差しを窓越しに見た。「見てると暑そうで、耐えられん」
「確かにね、外にいる人たちを見てると汗が出てくるよ」
「るかはどうしたんだ。さっき外出たろ?」
「外に人が多くてね。真黒さんのところに行く気が削がれた」
「おじいちゃんのところに行くのか?」
「うん、今日から何日か真黒さんのところに泊めてもらおうと。団体の客が来るみたいでね」
「あーあれかあ」筈華は窓の外を見ている。「珍しいな。あんなに沢山、人が来るのは」
「やっぱりそうなの?」結衣も以前にそんなようなことを言っていたな。余計なお世話だろうが、経営とかそういうのは大丈夫なのだろうか。
「うん、観光客が全くいないって時もないけど、程よくって感じだなあ」
「まあ、ちょうどいいんじゃない?」
「そうなんだけどな。人が沢山来たら来たで自分の庭が荒らされるようであまり好きじゃない。でも、来る人が少なくなるのも、好きじゃない」
「筈華は人が好きだと思ってたけど?」
筈華は僕と初めて話したときから物凄く友好的だった。それは僕が筈華の幽体を見ることができたということも関係はしているだろうが、それにしたって全く性格が変わるというのも考えにくい。あの時の筈華にも、変わらない部分はあっただろう。
「前にも言ったろ」筈華は手を器の形にした。「すくえるのはほんのちょびっとだけだからな。すくう量が多ければ多いほど、最後に海に返すときに道の途中で零れ落ちる。それは嫌なんだ。死ぬ前に、死ぬつもりは毛頭ない」
やっぱり僕は、筈華という一人の人間が好きなのだと思う。筈華は誰よりも、命に対して真摯に向き合っているように感じる。それが正しいことだとは思わないが、少なくとも僕にとってそれは好意的に捉えられるものだ。それだけ、を逸脱したこの感情は好ましくない。
「じゃあなんで来る人が少ないのも嫌なのさ」僕は椅子のひじ掛けに肘を立てて頬を乗せる。背後の方で布がこすれる音と、ボンボンという軽い足音がした。おそらく、半袖短パンの男性が席を立ちどこかへ行ったのだろう。
「場所にも寿命がある」筈華は抑えた声で言った。「俺も、この島に住む大体の人も、十年後は生きていないと思うんだ」
「確かに、嫌だなあ」ため息交じりに言う。
「人がいなければ、色々なもんが回らなくなる」筈華は誰にも見えないことをいいことに、椅子の背もたれに腰を置いて足を本来腰を置くふかふかなクッションの上に置いた。
「どんどん出て行っちゃうだろうね」
「ああ。どっかの会社だったり金持ちが島の保護に動いてくれるかもしれない。それでも最後は来るんだ。この島に残るのは、おじいちゃんの浮く絵だけだろうな」筈華は、少し高い位置からさらに視線を上に持ち上げた。視線の先には、オレンジ色の光を放つシャンデリアがあった。このロビーには合っているが、旅館にあのライトはどうなのだろう。
「この島は真黒さんの島になるわけだ」
「真黒記念館って名前でも付けるかね」筈華は視線を下げてくしゃっと笑った。
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