退屈と呼ぶにはまだ早い
二時間ほどロビーで筈華と喋り、筈華は霧のように消えていった。時々、独り言を話す僕を不気味そうな視線で見る人がいたが、僕にとっては筈華と話しているだけなので気にならなかった。不気味そうな視線を送ってきたのは、流浪橋の辺りで溜まっていた大学生の団体の数人だった。彼らの話し声が聞こえて、どうやら彼らは大学のサークルの集まりだということがわかった。大所帯のサークルなんて珍しいなと、サークルに入っていないどころか自分の大学のサークルすら把握していない僕は思った。この人たちの多くは、サークルのことを企業の面接などで高らかに話すのだろうか。就職活動時の面接のための話題を求めてサークルに入った人も少なくないだろう。何のための人生なのだろうと、くだらない考えがよぎった。なるほど、確かに病気だ。
一度、椅子に力を込めて無理やり深く座り込んだ後、立ち上がる。時刻は十二時を少し過ぎたころで、昼食をとるにはベストな時間だった。クーラーから出る冷風を恋しく思いながら、川の流れに耳を傾ける。
「るかくん」流浪橋を半分ほど渡った辺りで背中から声をかけられた。僕のことをるかくんと呼ぶのは結衣だけなので振り向かずとも誰から声をかけられたのかわかった。足を止め振り返り、結衣が僕のところまで追いつくのを待った。
「るかくん、これから真黒さんのところに行くの?」走ってきたおかげで上がった息と声が混ざって微妙に聞き取りにくい。
「うん。でもその前にどこかでご飯でも食べようかと。あ、良いところ知ってる?」
「ちょどう良かった。私もるかくん誘いに行こうと思って。まだ真黒さんのところに行ってなかったんだね」息を整え、少し笑った。
「ちょっと行く気が削がれちゃって」結衣から視線をそらしながら言う。「連絡してくれればよかったのに」
「あ」ポンと手を叩いて、その手があったかと目を丸くした。「島の中だと直接行った方が早いんだよね。大体茨や筈華くんがいるところは知ってるから」
確かになあと納得する。歩いても普通に一周できるような島だ。連絡をして、相手がその連絡に気が付くまでに相手に会いに行った方が早いのかもしれない。でも、電話が一番早いな、と思った。
「電話があるじゃない」先を歩く結衣の背中に向かって言う。「どこに行くの?」
「そうなんだけどねー。まあ、小さい頃からそうしてきたから、今更電話をするっていうのはもどかしいな」もどかしいと来たか。もどかしいという言葉を頭の中で何度も反芻し嚙み砕く。「で、どこに行くかだったよね。それはお楽しみだよ」律儀に結衣は答えた。
近道の路地の中に入ると、途端に息がつまる。室外機から漏れる空気が不愉快な熱風を出していて、息をすることも憚られた。今日は特に暑い。歩き始めてすぐにTシャツがべたつき、肌に張り付く。前を歩く結衣の足取りは軽い。
「結衣、暑くないの?」背中で手を組みながら歩く結衣が振り向く。
「坂下りるまでの辛抱だよ。海風はそれなりに涼しいから」
結衣の言う通りで坂を下りて、船着き場の辺りまで出るとだらだらと汗が流れ続けるというようなことはなくなった。冷たい風ではないにしても、風があるだけに相当に楽だった。個人が経営しているような飲食店が並ぶ通りを歩いているときは、店の中の冷風が漏れてきてそのたびに頬が緩んだ。その通りにある店に入るのかと思ったが、その通りを過ぎても結衣は歩く足をとめなかった。飲食店が並ぶ通りと言っても数分で抜けられるくらいの通りで、そこを抜けると点々と住宅が並ぶ通りに入った。住宅同士の隙間は広く木々や雑草が生い茂っていて、人の手は加わっていないように見える。セミの鳴き声がやけにうるさくなった。しばらく歩き、木々や雑草の自然の中に少し歪に見えるほど整備された土地に着いた。綺麗な長方形にくり抜かれている。駐車場もあるが車は止まっていない。暗い色の木造の建物だ。この暑さにやられて日焼けでもしたのだろう。看板などもなく、一目見ただけでは少し大きな住宅にしか見えない。しかし、結衣はその建物に足を進め扉を開くと子気味の良いカランカランという音が鳴った。
「鳴子さん、ご飯食べに来たよー」結衣がそれなりに大きな声で言った。
店内は薄暗く、明かりは窓から差し込む日差しに完全に頼り切っていた。
「結衣ちゃん、いらっしゃい」店の入り口の斜め左側、キッチンの入り口から腰の曲がった女性が出てきた。「暑いでしょ。今クーラーつけるからね」
「うん、るかくんが死にかけだよ」後ろにいた僕を足を引いて見えるようにした。
「いらっしゃい」
「どうも」軽く頭を下げる。空調が動き出して、すぐに涼しくなった。この調子だと十分後には肌をさすっているな。
キッチンの前にあるカウンター席に結衣と僕は座った。
「今日は何が出てくるかな」結衣が浮いた足をぶらぶらとさせて笑う。「メニューがないんだよ」
「そうなんだ」それは面白い店だなと思った。何を食べるかを迷ったときにはここに来るというのも一つの手ではないだろうか。
「今日はこの後にお客さんが来るんだよ」キッチンの中でガチャガチャと音を鳴らしながら鳴子さんが言った。「大学生らしくてねえ、沢山来るんだよ」
ああ、めんどくさい。と呟きながら手際よく手を動かしている。また、あの大学生たちだろうか。なんだか縁があるなと思った。
「旅館に来てた人たちかな」結衣がワクワクした表情で顔を寄せてきた。
「そうじゃない?」
「だよねー」
「結衣にとってはこの島に大勢の人が来るのは良いこと?」
「水落」ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「ああ、水落」呼び方を統一しないというのはどうも慣れない。
「もちろん。当たり前じゃん」ぱっと花火が開いたような笑顔で答える。「人が多いに越したことはないよ」
「私は嫌だけどねえ」鳴子さんは小さなコップに水を注いで、僕と水落の前に置いた。「程よくが一番だよ、結衣ちゃんの家は旅館だから人が来てほしいっていうのもわかるんだけどねえ」
「鳴子さんは嫌なのかあ」んーと顎に手を置いて、目を瞑りながら何かを考えている。
「一人はそれなりに寂しいものだけど、人が大勢いるっていうのはもっと寂しいものだからねえ」はいよ、と僕と水落の前にお刺身が並べられた。鯛とサーモンと、ヒラメだろうか。
「全部白身魚だ」僕の好みだ。
「え、サーモンは赤身だよ」
「あれ、白身じゃなかったっけ」
「どっちでもいいだろう、そんなの」鳴子さんが顔に深いしわを作りながら言った。僕らの前にまた新しい料理が置かれる。オムライスと刺身という組み合わせには、鳴子さんの己を曲げぬという強い決意を感じた。
オムライスにかかったケチャップをスプーンの背で黄色の卵全体に広げる。行儀が悪いとまきに言われたことがあったな。隣を見ると水落も同じようにケチャップを広げていた。水落も少し気にしていたようでお互いの視線が交わる。
「あ」
鳴子さんは僕らを見て笑った。「いいじゃないか、子どもらしくて」それは誉め言葉だろうか。
「私たちもうお酒飲めるんだからね」水落は微妙な空気を振り払うように抗議した。僕は気まずさを水で流した。一気に飲んだせいで頭がきーんと痛んだ。
「何言ってるんだい」苦虫をつぶしたような顔を隠すことなく言った。「少なくとも人間の中に大人なんてもんはいないよ。いるのはませた子どもだけだ」
僕は思わず吹き出してしまった。ませた子どもという表現があまりにも可笑しかったのだ。全員が全員そうとも思わないが、少なくとも大学生の多くは、ませた子どもだろう。隣に座る水落は首をかしげていた。まあ、そうだろうな。水落は、少なくともませてはいない。冷たい水を流しても、胸のあたりの気持ち悪さが消えることはなかった。
カランカラン。
左の方からそんな音がした、店の扉が開いたのだろう。そちらを向くと、背の高い細身の男性が入ってきた。髪は目を細めてしまうほどの金色をしている。その後ろからもぞろぞろと若い男女が店に入ってくる。
「おお、なんかいい雰囲気だな」先頭男性は店内をぐるっと見回し、そんな声を漏らした。周りの人たちは店内を見回す人だったり、店内に全く興味を向けることなくスマホをいじっている人だったりと様々だ。長い間店の扉は開いたままで、ぞろぞろと流れ込んでくる人たちのおかげもあってか店内の温度は明らかに上昇した。
「いらっしゃい」鳴子さんは手を白いタオルで拭きながらキッチンを出た。「好きなところに座りな」
この集団の代表だと思われる男性が「どうも」と頭を下げると同時にその集団は店内に広がっていった。目を向けるのをやめて、ヒラメの刺身を醤油につける。ワサビはつけない。ワサビは嫌いだ、単純においしいと思えない。口の中を水で洗い、次はオムライスを口に運ぶ。
「私、やっぱり人が多いの少し嫌かも」ぼそっと隣から声がした。醤油とワサビを混ぜながら唇を尖らせる水落が可笑しくて、僕は笑った。
「結衣ちゃんと」水落を指さした後、僕の方に鳴子さんは視線を向けた。「えっと」
「あ、るかです」
「るかくんもさ、お代はいらないからちょっと手伝ってくれないかい」大袈裟に手招きをして僕らを急かした。
ほとんど手つかずのオムライスと、大好物のサーモンをまとめて口の中にかきこむ。想像以上に不快だった組み合わせを、水で一気に流し何とか誤魔化す。サーモン……。
鳴子さんに言われるがまま僕と水落はキッチンの中に入る。飲食店でバイトをしていたこともあって、キッチンの中の景色はどこか懐かしいような気分だった。
「二人は取り合えずみんなにお水を持って行ってちょうだい。あと、人数が多いから料理の提供は時間がかかるって言っといて、オムライスは順番に一つのテーブルごとに出していくから」鳴子さんはあらかじめ用意していたのか、冷蔵庫からつまが乗ったお皿を大量に出して、そこに角が立った刺身を並べている。
「刺身とオムライスを出すんですか?」思わず聞いてしまった。
「当たり前だろう。今日はそういう気分なんだよ。メニューは電話もらったときに伝えてあるよ」
ああ、オムライスと刺身の定食を出すと言われて了承したということか。物好きな大学生だこと。それは僕らもか。因みに言っておくがオムライスと刺身をまとめて口に入れたらそれはもう大惨事であったが、別々に食べる分には全く問題がなかった。というか絶品である。どうして年を重ねた人が作る料理というのはこうも美味しいのだろうか。
僕と水落は小さなコップに水を注いで、うどん屋さんでよく見るような黒いお盆に次々と乗せていく。お盆が埋まったら、こぼさないように慎重に運ぶ。
「お水です」
大学生たちは四人掛けのテーブルにバラバラになって座っていた。軽く笑みを浮かべながら次々に水を置いていく。水落も同様にしている。端のテーブルから順に水を置いていき、中央付近にある座席が最後だった。
「この島の人なんですか?」最初にこの店に入ってきた細身の男性が話しかけてきた。高く軽い声だ。
「彼女の出身がこの島ですよ。僕は違いますけどね」水を一人ひとりの前に置いていく。
「へー、彼女さんですか?」にやにや笑いながら言った。
「まあ、そんなところです」立ち去る気にもならず「サークルの集まりか何かですか?」と特に意味のない質問をした。
「そうですよ。四年も就活がそれなりに落ち着いてきたらしいんで、サークル全員で旅行に来たんです。インターンとかを何もせずにね」
「じゃあ、あなたは三年生ですか。僕もです」
「お互い、暢気ですね」彼は吐き出すように笑った。
「ええ。僕はこの島には初めて来たので、こんなことを言うのもおかしいかもしれませんが、この島は良い島です。ごゆっくり。あ、あとそうだ。料理の提供には少し時間がかかってしまうようなんですが、大丈夫ですか?」
「ああ、それは全然。待ちますよ」
僕は軽く頭を下げてキッチンに戻った。
「何話してたの?」キッチンに戻ると先に戻っていた水落が話しかけてきた。
「なんだろう。適当な話?」何を話していたかと聞かれると、よくわからなかった。「次は何すればいいの?」
「お刺身を運びます」水落が指さす先には、鳴子さんがせっせと盛り付けた角が立った刺身が並んでいた。水を運んだ黒いお盆に今度は刺身を乗せて、運ぶ。もう誰かに話しかけられるようなことはなかった。全員分のオムライスまで運び終わると、鳴子さんはキッチンからから出て一番隅のカウンター席に座った。
「洗い物もしてってくれていいんだよ」と冷えた水を飲みながら言う。僕と水落は目を合わせて笑った。僕と水落も鳴子さんと並んでカウンター席に座る。背中の方から話し声が聞こえてくる。就活の時の面接の話や、単位の話、彼氏彼女、食事の場では憚られるような会話も聞こえてきた。
大学生たちは一時間ほどして店を出た。僕と水落は大量に出た食器を洗う。といっても、軽く濯いで食洗器に流すだけである。十五分ほどであっという間に洗い終えた。
「ありがとうねえ。結衣ちゃんにるかくん」
カランカランという音を鳴らしながら店を出た。「美味しかったです」と言ったが、なんだか食事をした気分がしなかった。
「るかくんこれからどうする? 真黒さんのところ行く?」くり抜かれたような砂利の駐車場を歩きながら結衣が言った。
「筈華のところに行ってからにするよ。今日はまだ行ってなかったから」
「じゃあ、私もそうしよっと」
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