大人でも子供でもなく、僕らはただの若者で
夕食は結衣が住んでいるという別館で食べた。別館と言っても、普通の住宅とあまり変わらない。結衣のお母さんは旅館で仕事をしていて、夕食は結衣と僕の二人だった。夕食を作ったのは僕だ。一度だけ、結衣が一人暮らしをしている家に夕食を作りに行ったことがある。結衣は掃除や洗濯などの家事は問題なく出来る、というか完璧に近い。旅館の手伝いをしていた時期もあったようでそこらの主婦には負けないと言っていたが、そこらの主婦は百戦錬磨だ。きっといい勝負になる。それなのに、料理だけはできないようで、僕が料理は結構する方だと言ったら結衣は飛びついた。急だったから簡単なカレーを作ったのだけれど、それでも結衣は顔を背けたくなるくらいには喜んだ。今度はもっと手の込んだものを作ろうと思った。
というわけで、冷蔵庫の中身を使って夕食を作った。自由に使っていいという許可は得ていたので、遠慮なく。結衣は中華を食べたいと言ったのでエビチリやら天津飯やら水餃子なんかをいろいろ並べたが明らかに作りすぎてしまった。中華は僕も好きなので、スマートフォンでレシピを見るのを禁止されるというわけのわからないルールも問題なかった。結衣のお母さんの分をラップをして冷蔵庫にしまい、僕と結衣は机を囲んだ。それにしても、この家の冷蔵庫の中身の充実さに驚いた。
僕はもう夕食を食べ終わり、結衣が食べ終わるのを待っていた。結衣は食べるのが遅い、食べた後手持無沙汰な状態で机に座ったままというのも嫌なのでゆっくり食べるようにしているのが、それでもだ。
結衣はもう口に入れても熱くないであろう餃子に息を吹きかけている。自分が作った料理を目の前で食べられるということがどうも慣れない。居心地が悪いというより、むず痒い。体を内側から掻きたい衝動に駆られる。
「筈華くん来るかな。ま、私は見えないけど」麦茶を飲んだ後、口を開いた。結衣の家の麦茶は少し濃い。
「夜は筈華のところに誰か行ったりするの?」
「んー。真黒さんが行ってるかもしれないけど、まあ来ないことの方が多いんじゃない? 私もあんまり知らないや」
それもそうか。結衣は僕と一緒にこの島に来たんだった。誰がどの時間にお見舞いに行った、なんてことをいちいち連絡したりもしないだろう。
「そういえば、真黒さんのところに行かなかったけど、いいのかなあ」
「大丈夫大丈夫。明日行けばいいよ」
「そっか」
「真黒さんと会うのも久しぶりだったなあ」
「結衣は何年ぶりに会ったの?」筈華と。
「筈華くん?」
「うん」どうしてわかったのだろう。
「この島出て以来だよ。何年だろ」視線を僕から見て左上に向けて指を折っていく「四? 五? 年くらい。多分」
「それにしては随分と淡泊な再会だったんじゃない?」
「まあ、偶に電話はしてたし」カチャカチャと食器を重ね手を合わせた。「ごちそうさま」
「筈華とも?」
「うん。で、茨からも聞いてたからあんまり久しぶりって気がしなかったんだよね」流し台の中でじゃーと水を流す音が聞こえる。
「そっか」
「あとは、それどころじゃなかったというか。圧倒されちゃって」椅子を引く手と反対の手を頭に置き、苦笑いをした。
「腕とか、細かったね」言った後で、喉の奥がキリキリ傷んだ。口の中がべたつく。
「うん。あのさ、幽体離脱? してる時の筈華くんはどんな感じなの?」
「あのまんまだったよ。ただ、すごくよく笑ってた。バタバタ足を動かして」
「はあー。じゃあ本当なんだなあ。私、筈華くんが幽体離脱できたって電話でしか聞いたことなかったから」
「疑ってた?」
「んー」椅子を後ろに押し込んで傾けた。「真黒さんの浮く絵を小さい頃から見てたから、そういうことはそれなりにはあるんだろうなとは思ってたけど」また、んーと考え込んでしまった。
「けど?」催促する。
「筈華くん、死んじゃうんだろうなって」
「随分と直接的な言葉を使うんだね」
「引いた?」
「いや、むしろ健全だと思う」
「るかくんもそう思うの?」
「ん?」
「筈華くん、死んじゃうと思ったの?」
「少なくとも、治って、一緒に遊んだりする姿は全く想像できない」
「お互い、薄情だね」
「かもしれない」
「でも。筈華くんが死んだら、私は生まれた時以上に、周りのことなんか気にせずに、大声で泣くんだろうな。きっと、るかくんも泣くよ」
「そっか」
別館、結衣の家を出る。結衣はもう寝るらしい。時刻は夜の九時半。寝るには早い時間だと思うが、疲れたらしい。
別館から旅館に戻る道には一切街灯がなく、スマートフォンのライトをつけなければとてもじゃないが歩けない。鈴虫の鳴き声が三百六十度どの方向からも聞こえてくる。綿あめのような形が感じられるくらいの熱を帯びた空気が体にまとわりつく。数年、十数年ぶりの夏のような気がするのはなぜだろうか。夏なんて毎年来ているはずなのに。
夏の匂いは、ワクワクする。何かが起こるような気がする。少なくとも小さい頃はそうだった。年々季節の感覚がなくなっていき、その時その場所ではその季節を感じてはいてもそれはすぐに消え去る。
鈴虫の鳴き声が段々と川の音に負け、月明りによって視界が少しだけ広がった。旅館の前を通り過ぎて、流浪橋に行く。流浪橋の入り口の両端には小さなライトが取り付けられていて、それが逆に不気味だった。橋の真ん中には月明りに照らされ、粒子が集まったような不明瞭さを伴った筈華がいた。筈華は僕には気づいていない様子だ。首を折って、空を眺めている。きっと幽体離脱はできても、空を飛ぶことはできないのだろう。
「筈華」川の音と僕の声は仲が良いらしい。目の前にいる人に話しかけるような声が、十メートルほど離れた筈華に届いた。
「るか?」
「暇なんだね。死にかけの君は」
「かもしれない」筈華は楽しそうに言う。病人の笑顔ではない。筈華の病気は、体が全部抱えているらしい。
「筈華ってさ、いつ病気になったの?」
「さあ、忘れたなあ。るかってさ、今何歳?」
「二十一。最近誕生日だった」
「そうかあ、おめでとう」
「どうも」
「ここの橋の柵さ、低すぎだよな」橋の中央から柵に向かって歩く筈華についていく。
「僕も思ったけど。落ちるよね、普通に」
「ああ、落ちたなあ。わざとだけど」
「よく生きてたね」
「意外と深いんだよ、この下の部分は。落ちるところがずれてたら大惨事だったろうな」
「命知らずだなあ」
「茨も飛んだよ」
「結衣は?」
「結衣って呼んでるんだなあ」無邪気に笑う。瞳が見えないくらい目が細くなって、白い歯が見えた。
「なんでもいいじゃない」
「ああ、そうだな」筈華は柵に腰掛けた。背伸びをしてひざを折っただけだった。
「落ちるよ」と言いながら、その体、幽体で落ちたらどうなるのだろうと思った。きっと、普通に落ちるだけだろうな。
「今更だけど、るかは何しに来たんだ?」筈華は膝を丸めて宙に身を投げた。首が重力に従って垂れるが、その体は膝に支えられていて落ちることはない。
「筈華に会いに来た。今日はごめんね。出て行っちゃって」
「なんで出ていったんだ?」筈華は嬉しそうに笑う。優しい、僕の瞳の奥を覗くような笑顔だ。笑顔の種類が豊富だな。
「いるべきじゃなかった。それだけ」
「めんどくさいなあ。みんなそうだ。おじいちゃんも結衣も、茨も、るかも。みんな俺なんかよりよっぽど病気だ。でも、病気じゃなければ、人間じゃない」
「じゃあ、筈華は人間じゃないの?」笑いながら言う。
「俺は病気だ、見ろ、この朽ち木のような腕を」筈華は腕をまくる。「死にかけだ」両手を広げて、大声で笑った。
「筈華は、怖くないの?」
どうしても、筈華のそれはやせ我慢にしか見えなかった。大げさな笑い声も、笑えない自虐も。自分の身体を、口にたまった唾のように、雑に扱う。僕もきっとそうすると思った。いざ死ぬとなったら、やせ我慢をして、俯く周りの人たちを笑い飛ばすだろう。夜は眠れず、歩く力があるのなら病院の中を徘徊するだろう。幽霊を探すかもしれない、死神に焦がれるかもしれない、天国を願うかもしれない、天国を拒絶するかもしれない。それら全てを、唾のように吐き捨てるだろう。持つことに耐えられなくなって。
「下に行こう」筈華は膝を緩めた。川のせせらぎの中に雑音が混じる。筈華は、普通に落ちた。ゆっくりと水面に足をつけたり、水が筈華に気がつかずに静かなままだったり、そんな神秘的なことは起きなかった。僕は少し歩いた先の階段を使い橋の下に降りる。バシャバシャと川の流れに逆らいながら、重そうな足を持ち上げてこちらに向かってくる筈華には一滴の水滴もついていなかった。
「便利だね」
「不便だよ、誰にも見えないんだから」
「やっぱり便利じゃないか」
「確かにな、おじいちゃんとるかだけに見えるくらいがちょうどいい」筈華は足を高く持ち上げ陸に上がった。「さっきの質問に答えるよ。俺は怖くない」胡坐をかいた。
僕も隣に座る。「ほんとに?」
「ああ、ほんとさ」器の形にした手を伸ばして川の水を少しすくった。「海は青いだろ?」
海じゃないけどね、とは言わなかった。病室での野茨さんの言葉が効いている。「うん」
「でもすくった水は透明だ。これに色を付けるのはすくった誰かだ。そしてそいつが死んだら、水は大海に帰る。帰ったら色は青に戻る。だから怖くない」
「わけがわからないね。執着がないってこと?」
「逆だ。執着しかないし、俺はその執着をなくすつもりもない」手の中にある水を顔の高さまで持ち上げた。「死んだら、戻るだけさ」水は落ちて鈍い音を出した。おそらく濡れた部分は色が濃くなっているだろうが、夜なのだからそんなものはわからない。
「筈華?」背中の方から声がした。背筋が凍る。勢いよく振り返った。だらんと垂れる左手に持たれたスマホの画面の光で目が痛む。僕らがいる場所の、少し後ろ。階段の辺りに野茨さんが立っていた。
「茨?」と筈華が言って、僕は横を向いた。
野茨さんは僕を凝視した、暗くてよくわからなかったがそんなような気がした。数秒立ち尽くして、階段を走って登っていった。
「野茨さんが見えなくてよかったね」
「ああ、ほんとに」味わうように言った。
僕が言い出したが、筈華が肯定したことが意外だった。今日初めて会ったが、筈華という人物の人柄は単純でわかりやすい。心のうちまでは見通せないが、僕が感じる範囲で筈華に驚かされることは少ないと思っていた。
「何だ?」筈華の眉が少し寄る。
「執着をなくすつもりはないって言ってたじゃん」
「さっきも言ったろ、るかとおじいちゃんに見えるくらいが丁度いいって。それにだ、執着をなくすつもりはないが、死ぬことをいいことに周りを引っ掻き回すつもりもない」
「なんだ、君も病気じゃないか」
「症状は軽いけどな、寝れば治る」
「ねえ、筈華。君はどんな人? 親は? 真黒さんとはどんな話をするの? この島のどんなところが好き?」
「何だ急に」
「僕は君と親友になりたい。結衣に言われたんだ。君が死んだら、僕は泣くって。うん、その通りだと思う」
筈華のどこに惹かれたのかはわからない。筈華の言っていることは、よくよく考えたらまきやそこらの人と何ら変わらないことを言っていて、僕はその時の気分で勘違いをしたのかもしれない。そこには一旦目を瞑ろう。ただ一つの確信にだけ目を向けよう。
筈華は、僕がこの島にいる間のどこかで、「必ず死ぬ」という確信に。
根拠は何もない、ただ、必ず当たるという予感は必ず当たるものだ。その経験はまだ若者の僕にもある。世の中には、確かにそういうものはあって、その一つに、僕は触れたのだ。
死を、眺めよう。
透明なカラスは、空を優雅に飛んでいた。見えたんだ。
月明りに照らされた、夜の黒に染まった、透明なカラスが。
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