振り回されて、嫌になって、諦める


 階段を下りた温泉には、観光客と思われる子ども連れの男性と島の人と思われるお年寄りがいた。水落の旅館には日帰りで島に住む人たちが温泉に入りに来たり、食事をしに来たりすることが少なくないらしい。特に、温泉を目的に来る人が多いようだ。


 温泉に浸かる。体がほわあっと浮くが、それを抑えて全身を温泉に浸す。五分もしないうちに頭がくらくらしてきて、顔が膨らむような感覚になった。温泉に来るといつもそうだ、十分としないうちにこの湯気に包まれた空間に耐えられなくなる。


 温泉を出た。程よく冷たい空気が肌を撫でる。ぶーんという扇風機の音が別世界への入り口のようにも思えた。スリッパをパタパタと鳴らしながら、時々スリッパが脱げて足の裏が直接冷たい床を触る。階段を上り、部屋に戻るという気にもならなかったので、ロビーに向かった。


 野茨さんには嫌われてしまったのだろうか。嫌われた、そんな生易しいものじゃないのかもしれない。熱にやられた頭が思考力を取り戻してきた。こんなことならいっそのことサウナの中で気絶でもしていた方がいくらか楽だったな。そのまま死ぬのも、まあ悪くない。とは、流石に思わなかった。


 僕がトイレから帰ってきたとき、野茨さんはもう病室にはいなかった。筈華は薄目を開けて「気にすんな」とだけ言ってまた目を瞑る。寝息は静かで、その時だけは病気なのかわからなくなった。病院を出て、水落と帰ってきたは良いものの、病院に行った時とは違い歩いて帰ったので汗が滲んだ。滲んだというよりは、どくどくと流れ出た。べたつくシャツを揺らして空気を入れながら何とか耐えていたから、旅館に入った時の冷風には恐れ入った。人の叡智の結晶の発端を見た。そのまま部屋には戻らずに温泉に入ったというわけだ。頭がもう完全に冴えて、いらん景色まで見せてくる。そういえば、真黒さんのところには行かなかったな。顔出しな、と言われていたのだけど。


「るかくんっ」真っ赤な床に足を踏み入れるとすぐに声がした。水落の向かいに座る。


「温泉どうだった?」そう言う水落の頬はほんのりと紅く色づいている。

「気持ちよかったよ、すぐにのぼせたけど」

「私も温泉長く入れないんだよね」

「待ってたの?」

「うん、るかくんどうせすぐに部屋には戻らないだろうなって」

「そうですか」

「茨ちゃんのこと、気にしなくていいからね」

「気にするも何も、僕も野茨さんも何もしてないじゃない」

「何かしてくれた方が楽だった?」

「別に。どっちでも不快だ。水落には謝るよ。ごめん」噛みちぎってしまいそうなほどに、唇を強くかんだ。

「結衣」

「ああ、結衣」


 結衣には、二人の時だけは結衣と呼べと言われていた。誰か他の人がいるときは水落と言われた方が気持ちよく、二人の時は結衣と呼ばれたときの方が気持ちが良いらしい。わけがわからない。


「なんでさ、いきなりトイレに行くなんて言ったの? ほんとにトイレに行ったわけでもないでしょ。あ、一応は行ったか。るかくんなら」

「まあ、行くだけだね」いつかしたように、便器に向かってえずいたとは流石に言えない。

「うん。なんで?」

「言わないと駄目?」

「彼女は相談してもらえないと機嫌が悪くなります」口をとがらせる結衣。

「それは。果てしなくめんどくさいね」

「うん。だから、はい」

「大したことじゃないよ。居ちゃいけないと思った。それだけ」

「なんで?」

「あそこにいていい人は、純粋に割り切ってる人か、純粋さに振り回されてる人だけだよ」

「じゃあ、るかくんは何?」

「ただ、その出来事を見てる人。そんな奴が大切な人の病室にいるのは、明らかに迷惑だし、何より不快だ。汚れ以外の何も残さない」

「本当に、臆病だねえ」

「本当に」

「臆病さは優しさでもあると思うけどね」結衣は背中を伸ばした。僕も少しだけ肩の力を抜く。

「そういうのは良いよ。情緒の連想ゲームは。全部くだらない。臆病さは結局臆病さだよ。臆病を抱いて何もしないことは情けないことで、情けなさを臆病さで囲うのは醜いことだよ」

「してるじゃん。連想ゲーム」

「結局は、どこかで臆病さを投げうって、何かをしないといけない」

「いや、だから」


「何かっ。しなっ。い、と、ふっ」肩が震えて、つられて声も震える。結衣は、目に涙を浮かべながら、狂ったように笑っていた。


「まあさ」笑いすぎたせいで細くなった呼吸を必死に落ち着かせながら結衣は口を開く。「茨もそんな気にしてないよ。あー、気にしてないっていうか、勢いで行動して後々頭抱えるような子だから。それなりのことは伝わってると思うよ」


「そっか」

「うん。感情に乗って行動して、そのままでいられるほど、私たちは利口じゃない」

 利口。確かにそれはお利口さんだな。


「あ」と水落の膝の上に置いてあったスマホが振動した。「茨だ」

「ねえ結衣」

「ん?」

「筈華が好きな場所ってある? この島で」

「なんで?」

「会えるかなあって」

「あーそっか。えっとね、流浪橋と近くにある階段を下りた川の辺りかな。明かりがこの旅館と橋のところくらいしかないから、星が綺麗なんだ。筈華くんが好きな場所と言ったらそのくらいかなあ」


「そっか。じゃあ、夜行ってみようかな。ありがとう」

「うん。まだ外、明るいもんね」


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