嘘をつくのは寂しいからで


 透明なビニール傘を差すと、ポツポツという音の振動が右手に伝わってきた。世界が薄っすらと赤く染まる夕方の筈が、見える景色は薄暗い。厚い雲が空を覆い、パレットの上に出した黒い絵の具に白の絵の具を雑に混ぜたような色をしている。


 本来ならクロスバイクを飛ばして十五分ほどの道のりで、水色に色落ちしたジーンズの裾が濃く濡れた。アルバイト初日という絶妙なストレスを感じる中で、これは非常に不愉快だった。歩きだと、一時間弱と言ったところだろうか。バイト先が書店でなかったら、気が狂っていたかもしれない。


 プルルルル。


「はい」

「あ、るか。バイトどうだった?」

「し」

「ん?」

「死ねって言おうとしてやめた」

「なんでっ、あ、落ちたのか」

「受かったよ。これからバイト」


 プチッ。


 気がまぎれたな。ジーンズの左ポケットにスマートフォンを入れようとしたところで、また端末が振動した。無視。


 視界の隅で、―ッ、―ッ、と車が通りすぎていく。そういえば、免許を持ってたな。今更思い出す程度には、免許を取ってからというもの車のハンドルには触れていなかった。ぴちゃぴちゃという足音を立てながら、歩く。


「こんにちは」


 夕方の六時半、シフトは七時からだが、アルバイト初日ということもあり少し余裕をもって来た。こんにちはかこんばんはか、どちらを言えばいいのだろうと悩みながら控室の扉を開く。なんとなくこんにちはが無難なような気がした。


「るかくんこんにちは」


 控室のパソコンの前に座る店長が回転椅子を回して振り向く。寝癖のような髪型が気になった。控室には店長以外は誰もいない。店長からエプロンを受け取り、首にかけ腰の紐を結んだ。シフトの時間までは、控室に置かれている四人掛けのテーブルの椅子を引き、読書をして待つ。


 活字から目を外して、時計を見ると六時五十五分だった。本をパタンと閉じると同時に、控室の扉が開いた。


「こんばんはー」高い声が控室に響く。店長は「水落さんこんにちは」と言った。文字と文字との間に半角スペースが入っているようなゆっくりとした口調だ。


 水落さんと呼ばれた、黒い艶のある髪を背中まで伸ばした女性は僕の方を振り向き首を傾けた。


「初めまして、新しく入ったるかと言います」


 僕がそう言うと水落さんはパッとシャボン玉がはじけたような顔をして、納得したように手を叩いた。


「インターンシップの授業の時先生に切れてた人だ」


「は?」何を言われたのか一瞬わからなくて意識の外から出た言葉だったが、水落さんには少し威嚇的な声音が伝わってしまったようだ。う、と水落さんの背中が少し丸くなった。


「声聞いてそうかなって思ったんですけど」下から僕の顔色を窺うように細々とした声で言った。


「ああ。もしかして以前に僕の前に座ってた人ですか?」まきと話をしていた時だ。「インターンシップの講義も取ってたんですね」


 できるだけ明るい声音を意識して言うと、水落さんは先ほど見せたシャボン玉が割れたような顔をして、笑った。


「そうですそうです」

「同じ大学の人がいるなんてびっくりしました」


「あ、るかくんは水落さんと同じ大学だったか」店長が思い出したように椅子を回した。「履歴書を見てなんとなく見たことある大学の名前だと思ってたんだ」後頭部を右手でさすりながら笑っている。


「るかくん、さん? は今何年生ですか?」

「今三年ですよ」

「じゃあ、同じですね」

「水落さん、そろそろ時間だから、準備して」


 会話が続きそうだったところに店長が口を挟んだ。時計を見ると長針は十二のすぐ隣にまで来ていた。


「るかくん、水落さんにいろいろ教えてもらってね」

「はい」


 店長は最後にそう言うと、椅子を回しパソコンに向き合ってしまった。口に髪ゴムを挟みながら長い髪を束ねる水落さんを待ちながらボーっと何もない空間を眺めた。テーブルと僕の目の間にある、空間。


「るかくんお待たせ」

「ああ、いや全然、大丈夫です」

「同い年なんだからため口で良いよ」


 控室の扉を開きながら「わかった」と返す。控室から出て数人のお客さんがいる店内を歩く。おそらくレジの方に向かっているのだろう。前を歩く水落さんのエプロンのポケットから顔を出すボールペンのノック部分についたキーホルダーがちゃらちゃらと小さな音を鳴らしている。多分、カラスのキーホルダだ。透明だから確証はないけれど。


 今までレジにいたおそらくパートであろう中年の女性二人と入れ替わるようにレジに入った。そもそも、パートとアルバイトの違いとは何だろう。


「るかくんレジ使ったことある?」

「軽くならあるかな」

「じゃあ、とりあえずお客さん来たら対応して。ポイントカードとかもないから。わからないことあったら呼んでね」


 そう言って水落さんはエプロンのポケットからメモ帳とカラスのキーホルダーがついたボールペンを取り出して何か作業を始めた。何をしているのかはさっぱりわからない。


 レジから店内を眺める。お客さんは数人。小説が並ぶ本棚の前にいる白髪の生えた杖をつくおじいさんと、短いスカートを揺らしながらずらーっと並ぶ参考書の前を歩く女子高生、児童書が並ぶ場所に置かれている木製の小さな椅子に座る男の子。


 レジに立つだけで、その空間から排斥されているように感じる。店で何かを買うとき、大抵は商品をレジに立つ店員に差し出す。レジに立つ店員の顔を見て、差を感じるのだ。僕は休みだから、暇だから、その店に行っていて、でも店員は仕事でお金をもらうためにやっている。そんな当たり前としか言いようがない立場の違いが、ひどく歪に思えて仕方がないのだ。死んだ人がいれば、生きている人もいる。それも当たり前。そんな違いが世の中には溢れている。なんだろう。なんなのだろう。この気持ち悪さは。


「るかくん暇だねー」


 水落さんは僕の両肩に手を置きだらあっとぶら下がるように体重をかけてくる。右手に持たれているボールペンから垂れる透明なカラスのキーホルダーがやっぱり気になった。


「この透明なカラス、僕見たことあるんですよね」


 透明なカラスをちょんちょんとつつきながら言った。おかしな奴だと思われただろうか。そう思った瞬間、肩をつかむ両手に力が入って水落さんの顔が僕の近くまで飛んできた。


「真黒さんのカラスっ、見たのっ」


 耳の真横で叫ばれ、キーンと耳が悲鳴を上げた。右耳を手で押さえながら、水落さんと少し距離を取り向き合う。ごめんごめんと頭を掻く水落さんの目はキラキラと輝いていた。


「えっと、真黒さんていうのは?」

「その透明なカラスってどんな感じだった?」


 僕の質問は無視され問いが投げられた。


「ガラス細工みたいなカラスで、でも羽は紙みたいになめらかに動いてたかな。鉛筆で書いたみたいな線でカラスの形ができてて、足にミサンガつけてたんだけど」


「何でカラスだと思ったの?」嬉しさのような楽しさのような、そんなものが滲んでいる表情で僕の顔を覗き込んでくる。


「カラスであってほしいからかもしれないです」少し恥ずかしくなって視線を逸らしながら言った。


「真黒さん喜ぶよ」


 水落さんは満面の笑みを浮かべながら、そっか、そっか、と一人で頷いている。視線を少し逸らして店内を見るが、見える範囲には誰もいなかった。


「基本暇だから気にしなくても大丈夫だよ」

「そうですか」

「敬語」

「ああ、ごめん」


 最初が敬語だとそこから肩の力を抜くというのがどうも難しい。まあ、水落さんの顔を見るに敬語を使われるのは不満がありそうなのでそれを理由に自分を誤魔化すとしよう。膨れたフグのような顔を何度もされたら流石に笑ってしまう。


「じゃあ、今日会ったのは運命だね」

「運命?」

「そう言われてるの。島の外で真黒さんが描いた浮く絵を見た人と出会ったら、その人が運命の人なんだって」


 そんな言い伝えのようなものがある島があるんだな。それにしても水落さんの口ぶりから察するに真黒さんという人はまだ存命のはずだが、それでもそんな言い伝えができているのか。


「浮く絵?」聞きなれない言葉が気になった。浮き絵ではなく浮く絵?

「そう、真黒さんの絵はね、動くんだよ。触れるし、ちゃんと生きてる。キャンバスから出てくるの、キャンバスが水面みたいに揺れて、波紋の中心からぴょいって。それで疲れたらキャンバスに飛び込んで絵に戻るの。キャンバスにすでに絵が描かれていたら、その絵は押し出されて出てきちゃうから、たまに喧嘩することもあるんだ。キャンバスの中から出てくるから浮く絵、って私の友達が名前を付けたんだよ。真黒さんも何でもいいって言うから」

「不思議だね」


 真黒さんという人と水落さんはそれなりに近い関係性のようだ。僕はそれ以上は何も聞かずに先ほどの水落さんのように、そうなんだ、そんな絵を描ける人がいるのか、と頷く。水落さんは怪訝な表情だ。


「信じるの?」

「僕は別に、あの透明なカラスを見た時も驚かなかったよ。ただね、少しだけ勇気をもらった。そういう人が、どこかにいるんだって思って」


 不思議なことなどこの世の中には溢れていると思っている。


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