きっと、嘘をつかない理由も寂しさで
夜の十時過ぎ、アルバイトを終えた。お疲れさまでした、と店長に挨拶をして水落さんと二人で店を出る。
「水落さんはここまで何できたの?」
「私今日はバスかなあ」
「雨降ってたもんね」
降っていた雨はもう止んでいた。湿った空気が肌にまとわりつき、雨の匂いと夜のどこか涼しいような匂いが鼻孔をくすぐった。傘で杖のようにこつんこつんと地面を叩きながら歩く。
「るかくんは歩き?」
「そうだね、一時間かからないくらい」
「結構歩くね」
水落さんは若干引き気味だ。確かに一時間も歩くというのは嫌がる人も多い。まきも物凄く嫌がる。意味が分からないと、変態扱いされたりもする。歩く、ということが単純に好きなんだと思う。時間がもったいないと言われれば確かにそうなのかもしれないが、好きなのだからいいだろう。薄っすら聞こえる足音や、歩いているときにしか感じられないゆったりと流れる時間が好きなのだ。何でもかんでも急かされる、生まれてからずっとだ。見当違いなことを急いて、滑稽だとすら思う。僕は死にたくない。怖い、とは少し違う。でも死にたくない。死を意識すると何もかもが愛おしく思えてきて、すべてを許せなくなる。きっと後悔する。避けられない。だから、歩く。
「あっ」透明なカラスが、また飛んだ。水落さんは声を漏らす。
電灯の下を通るときに一瞬だけ姿を見せて、透明なカラスは夜に溶けた。ただでさえ透明で見難いのだから当然だ。日中も夜も、黒い普通のカラスの方が見つけやすい。
「今見た?」
「うん」
「反応薄いね」
「まあ、見るの二回目だし」
「あの」と数秒の無言の時間を経て、水落さんが緊張した様子で言った。
「ん?」
「夏休みさ、私一回島に帰るのね」
「はい」
「るかくんも来れないかな。泊まるところは私が用意するからさ」
「えっと――」と何も言えずに、とのおの部分を引き伸ばす。
「あーごめんね。あのー、なんて言えばいいのかな。るかくん、インターンシップの授業の時小川先生に怒ったでしょ。あれさ、私も少しわかるんだ。うまく言えないけど、なんか、いろんな免罪符が世の中にはあって、でもそれはおかしなところにあるから簡単に罪が見え隠れするの。そんな曖昧なものを貼りつけて話す小川先生は、乱暴だなって。筈華くんみたいな人には、そんなの当てはまらないし」
水落さんの声は明らかに震えていて、夜の暗い道だからわからないけれどきっと泣いているような気がした。ぐすぐすと鼻をすする音が夜のだだっ広い空間に響く。
「筈華くんて?」聞いていいことなのかわからなかったが、今無言の時間を作ってしまうのは避けたかった。
「真黒さんの孫で、二つ年上の幼馴染なんだけど、病気で。お医者さんはもう長くはないって言ってて」
聞いてしまったことを、後悔した。
「島に帰るって言ってたけど、その島にいるの? 治療とかは」取り繕うように、今できた傷をえぐる。
「私が住んでた島ね、すごく小さいから。最初は島から出ておっきな病院に入院してたんだけど、帰ってきたの。島に居たいんだって。おっきな病院でちゃんとした治療を受ければ長く生きられるらしいんだけど、それでも島にいたいって」
なんと言えばいいかわからなかった。喉元まで出かかった声を、何度も理性が引っ込めた。飲み込んだつばは、間違って飲み込んでしまったガムのように不快だ。
「そうなんだ」当たり障りのない返事しかできなかった。
「それでね。だから。本当は大学卒業するまで帰るつもりはなかったの、学生を終えたら島で生きるつもりだったから。それまでは。でも、流石に帰らないとと思って」
「えっと、それでなんで。僕も島に来てほしいってことになるのかな」「あ、別に攻めてるわけじゃなくてさ、あまりにも急だったから」
「わかってるよ。るかくん。今日初めて話したけどすごく臆病な人だと思ったから、筈華くんと気が合いそうだと思って。あとは、真黒さんに言われてたんだ。もしカラスを見た人がいたら、連れてきてって」さっきから思っていたけど、水落さんは真黒さんという名前を呼ぶたびに、どこか安心しているように見えた。
「いいよ。行くよ。家にもいたくないし」
「ほんとに? 一か月間も?」
「一か月て。長いね、住み込みのバイトみたいだ」一か月間か。ちょうどいいかもしれないな。
「ダメかな?」
「いいよ。行くよ」
「るかくんて、変だよね」
「なんでよ」
「だって、一か月間も、普通は断るでしょ。それに、まともに話したのなんて今日が初めてじゃん」
「そうかなあ。あ、でも。バイト大丈夫かな」
「それは今の内から言っとけば大丈夫だよ」
「そっか」
そこで会話が途切れて、時々車のライトに目を細めながら歩いた。
「筈華くん?」自分で言って思ったが、筈華って女の子みたいな名前だな。「てさ、僕と気が合うって言ってたけど、似てるってこと?」
「ううん、全然。真逆だよ。真黒さんは、死ぬまで死なない強い子だって言ってた」
夜の十一時を過ぎた頃、自宅の扉を開くとリビングの電気がついていた。母は帰ってきているらしい。
扉の音を聞いてか「おかえりー」という声がリビングからする。「うん」と母親には届かないであろう返事をして自分の部屋に入った。シャワーを浴びてすっきりしたところでリビングに行く。
「夏休み、一か月くらい空けるから」
「一か月? 長いね、バイト?」
「そんな感じ」
母は、一度もこっちを見ない。そんなことにももう気にならなくなった。興味がなくなったというよりは、単に興味の対象が変わっただけだと思う。正直、そっちの方がこちらとしても助かる。
「この後健斗さん来るから」
「わかった」
もう、日付をまたぐ時間だ。
彼氏ができた。と母親が健斗さんを連れてきたのは最近のことだった。これが中学生や高校生の頃だったら、数日間部屋にこもり母との会話など絶対にしない程度には衝撃を受けたと思う。ただ、僕がその告白を受けたのは酒が飲める年になってからだった。安堵した。ただひたすらに。母というか家族というか、そういうものに対しての独占欲みたいなものはすでになくなっていたから。なくなったというよりは、諦めた、心が折れた、と言った方が正しいかもしれない。何か明確な出来事があったわけでもない。例えば、ドラム型洗濯機の扉を閉めて大きな音が鳴った時に母の迷惑そうな顔が洗面所の鏡に映った、とか。そんな些細な瞬間に、ポキッ、と生まれたころから作り上げてきた依存のようなものが折れたんだと思う。離婚した当時から大学生に至るまでは、怒りにも似た感情があった。なのに今は、納得しているし、尊重している。
リビングのカーペットに座りながら母が見るテレビ番組を無言で眺めていたが、ピンポーン、という夜中に聞くには鬱陶しい音が聞こえたので自分の部屋に戻った。
ベッドに入り、電気の消えた部屋の中で目を瞑る。薄っすらと母と健斗さんの会話が聞こえてきた。僕は、優先順位というものは存在しないと思っている。少なくとも人間の心の中には。一位がたくさんあるのだから決められるものじゃない。どちらかを優先すれば、一方を失う。そこには葛藤があって、だからこそ人はわけのわからない結論に落ち着くことが儘にある。葛藤が一ミリもないからこそ、母のようになるのだろう。もしかしたら逆なのかもしれないが、そんなものは知らない。
大学生にもなって、依存が折れて、それでも女々しい思考がよぎることがある。抗えないそういう場所に僕らは立っているから仕方がないのだけれど、だからこそ葛藤が起きるのだ。残酷なまでに純粋なものが、僕らの根底には深く深く根付いている。過剰なお節介も、露骨な無関心も、どちらも嫌いだ。わからなくなる。自分を優先しても、他者を優先しても、間違いにしか思えない。
そういえば、水落さんに島に行くといったがその島がどういった場所なのかも聞いていなかったな。まだ夏休みまでは数か月あるからそう急く内容でもないが今度聞いておいた方がいいだろうか。というか、水落さんの下の名前も聞いていないな。
暑い。
べたべたとまとわりつく湿気が僕の意識をつかんで離さない。思考が右往左往する中で段々と苛立ちが募ってくる。さっさと眠ってしまいたいのに意識は深く根を張ったままだ。
ぴこん、とスマートフォンが光った。ぐるっと寝返りを打ち手を伸ばす。またあの鬱陶しいまきかと思ったが、メッセージを送ってきたのは水落さんだった。連絡先は帰り道の途中で交換していた。
「水落結衣です。よろしくお願いします」
メッセージだと敬語なのな。こちらこそ、と簡単な返信をして電源を落とす。
真っ暗な部屋も、目が慣れてきていろんなものが見えるようになっていた。経験上、こうなったらあと一時間は眠りに落ちることができない。
気づけば母と健斗さんの会話は聞こえてなくなっていた。二人とも眠ったのだろうか。
カーテンの繊維の隙間から段々と白いような肌色のような光のちりが入り込んでくるのを、くらくらする頭を押さえながら眺めた。溶けるように、頭痛を抱きながら眠りについた。
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