やはりそれもただの退屈で
「で、面接いつなん?」
「明日だよ。お節介だなあ、ほんと」
二百人くらいが入る大きな教室の角の方の席で苛立ちを隠すことなくまきにぶつけた。早く講義が始まってほしい。普段のまきはゲームと漫画が好きな普通の大学生だし、話も合う。だけど、今はうざったい。顔面を殴り飛ばしてやりたいほどだ。教室で小説を読む僕を見つけて絡んできたときは血管が間違いなく浮き上がっていただろう。
「お節介って、るかのことを思って言ってるんだよ」
「それはどうも」
スマートフォンの電源を左手でつける。十時三十五分。講義が始まるまであと十分か。
「そっちはどうなの? 彼女とは」
「別に普通だよ。なんでるかにわざわざ報告しないといけないんだ?」
「あっそ」
まきには悪気が一切ない。思ったことを口にしている、自分自身の正しさを信じている。まあ、正直言って一番嫌いなタイプだ。成り行きで仲良くなった。この時間は、まきという存在は、僕の人生において無駄なものでしかない。
大学一年の冬休み。テストも終わり二か月ほどの休みの中で、僕は精神を病んだ。一日中家にいることは多々あったが、飯も全く食わなくなったことで母親が僕を病院に引きずっていった。病気だとは診断されなかったけれど、二か月ほど、ちょうど冬休みの間は全部自分との対話に費やした。時々死にたいという考えがよぎる程度だったが、一度だけ、その衝動が爆発した。頭を抱え、泣きわめきながら、自殺するしかないのかという絶望を抱き、死にたくないから死のうとした。その衝動を抑えられたのは、きっとただの偶然だったと思う。母親はその日買い物に出かけていた。母親がもし、仕事に行っていたなら、僕は死んでいたような気がする。
隣にまきがいるせいで、読書もまともにできない。小説の文字と僕の意識がうまく混ざらない。
「あ、そうだ。これはるかにも話しておきたかったんだ」
スマホの電源ボタンを押す。十時四十分。
「なに」
「俺のばあちゃんの話なんだけどさ」
ああ、これは間違いなく長くなる話だ。まきは自分語りをよくする。こうやって少し離れた場所から話を始めて、だから俺はさ、と自分語りにつなげてくる。大体週に一回くらいのペースだ。
「もう八十過ぎててさ、じいちゃんの方はもう死んじゃったんだ」
まきはもう、喪失というものを体験しているのか。少しだけ、まきの見方が変わったかもしれない。おそらく、もうまきとは関わりたくないと本気で思い、行動に移すくらいには、こいつのことを嫌いになると思う。
教室には先生が入ってきて、黒板の前でパソコンのコードを伸ばしながら何かしている。横目でまきはその様子を見たが、そのまま話を続けた。
「でさ、俺仕方ないと思ってたんだよ。人が死ぬなんて当たり前のことだしさ、まあ、じいちゃんも悲しいけど仕方ないよなって」
「うん」
まきは教室の光が当たって白く照る机を、なんだか悲しそうな目で眺めながら独り言のように言う。
仕方ない、か。確かにその通りだ。反論の余地もない。でも僕は、仕方ないと受け入れた瞬間に、人間として、それ以前に生物として、圧倒的に失ってはならない何かを失うような気がするのだ。仕方ない、とは、心の安寧を保つためのある種の特効薬のようなものだと思う。心の安寧を求める理由は心の安寧がないからだろうが、そもそもそれはなぜ必要なのだろうか。
仕方ない、仕方ない。そんな言葉を、母親が再三口にしていた時期があったな。そういえば。
「でもさっ」
バッ、と勢いよく僕の方を向いて、先ほどとは打って変わってきらきらと生気の宿った目を見せつけてくる。
一瞬目が合い、僕はすぐに目をそらした。
「ばあちゃんはさ、満足です。楽しかった。て言うんだよ。いつ死んでもいいよって。じいちゃんは、まだ死にたくない死にたくないって言う人だったから。すげえなって」
違う。どっちも違う。
タタタタタタタタタタタタタタタタタタ。
「俺もさ、ばあちゃんくらいの年になったら、そう言えたらいいなって思ったよ。今は全然、死ぬとかそんなイメージ沸かないけどさ、頑張らないとだよな。るかもさ、だらけてばっかいないで頑張れよ。バイトもやめるなよ」僕の肩に手を置き、少し力を入れてグッと指先を肩に押し込んだ。
「そーだな。頑張らないとな」
なぜだかどっと疲れた。肘を立て顔の前に来た手の甲を地面に向け、顎をのせる。
まきは突然顔も知らない女子に殴られたような顔をしていた。そのまま動かない。気持ち悪い。
「何?」
「珍しいな。るかがまともに俺の話に返事するの」
「つまんない話ばっかするからだろ」
「照れんなよ」
「はあ?」
「だって、るかがここまで口悪く話すのは俺だけだもんな」
「チッ」
前の席に座る黒い髪を背中まで伸ばした女子が驚いた表情で振り向いてきた。罰が悪くなって中途半端に顔をそらす。まきは腹の方に顔を向けてプルプル震えていた。
貧乏ゆすりが激しくなり、机を人差し指の爪の先でとんとんと叩く。
「ま、でもさ。結婚しない人が増えるのもわかる気がするよな。世の中結局金だし。その使い道は、まずは自分だ。自分の人生自分が主役だ、誰だって自分に使いたい。一度きりの人生満足して終わりたい。自由に生きたい。結婚生活はつらいだけってよく聞くしなあ」
「それとこれとは別だろ。人生なんて広いものを考えながら生きてる奴なんて、ほんの一握りだ。自由じゃなくなるっていう理由は確かに大きいだろうけど、そこに人生は絡んでない。もっと小さな、幅を持たない自我だ」
さっき振り向いてきた女子に話を聞かれていそうで、細々とした声で口早に言った。
「そうかなあ」
まきは、なんだか不満そうな顔だ。だがその表情は続かず、何事もなかったように口を開いた。
「未来には、不安もあるし、正直怖いけどさ、頑張って生きねえと。死んだときに、満足できるように」
ああ、これが言いたかったんだな。まきの自分語りには、おそらくまきが最初から決めているであろう終わり方がある。まきは話を運ぶのがあまりうまくないから、大抵こんなようによくわからないところで、漫画の主人公が言いそうな言葉を吐く。それが、まきの自分語りの終わり方だ。
それにしても。死んだときに満足できるように、か。
何故人は、死ぬことよりも生きることを恐れるのだろうか。歪曲された世界。見るべきものを見失い、見当違いのものに過信を向ける。僕は、永遠に生きていたいと、心の底から思うのに。
「まきは、あと十秒で死ぬとしたら、何をする?」
「十秒? なんもできないじゃん。そうなったら、潔く目でも瞑って死ぬよ」
「じゃ、帰るわ」
「は? 講義は?」
「バイトの面接今日だった」
ガタッと大袈裟に椅子を引き、乱暴にリュックサックを肩に掛けながら教室を出た。後ろから「頑張れよー」とのんきな声が聞こえた気がしたが、もちろん無視だ。
廊下を歩きながら、バイトの面接の時間をもう一度確認する。本当は講義を受けてから向かっても余裕で間に合う時間だ。面接は明日、とまきに答えたのは特に意味もない嘘、どうして嘘をついたかなんて自分でもわからない。
面接までの時間をどう使おう。一度家に帰るか。大学から自宅までは自転車で三十分くらいだ。大学の地下にある駐輪場から白いフレームのクロスバイクを出して帰路に就く。
国道に沿って真っすぐクロスバイクを漕ぎながら、面接の内容について考える。少し真面目に受け答えをしないと、と多少の焦りがあった。流石にもうまきのお節介にうんざりしてきた頃だ。アルバイトをして、僕は何がしたいのだろうか。大学生は皆、服を買ったり遊んだり、学費なんかも自分で稼いでいる人だっている。対して僕はどうだろう。金がなくて困ることなどほとんどない。腹がすくくらいだ。実家暮らしだし、稼がなければ生きられないという状況でもない。懸念があるとすれば世間体だけだが、世間体なんてものになんの意味があるのだろう。
以前、自宅に母親の友人である久木山さんが来たことがある。久木山さんは家にいた僕に対して「アルバイトでもしてるのかなあ」と不安そうに、何かを窺うように尋ねてきた。僕は、「いいえ」と答え「最近辞めて今探しています」と最後に付け加えた。安心したような久木山さんを見て、無性に腹が立った。今でも鮮明にその感情は思い起こされる。それから久木山さんは僕の部屋から離れ廊下を少し進んだリビングにあるダイニングテーブルの一角に腰を下ろした。母親と久木山さんはコーヒーを飲みながら、お互い離婚した者同士で話が合うのか数時間話し続けていた。新しくできた彼氏の話、前の夫の悪口、こういった会話を聞いて失望してしまう僕は間違っているのだろうか。
思考が斜めに逸れているうちに、自宅についてしまった。家の前に鍵をかけた自転車を置いて、玄関の扉を開く。一直線に伸びる廊下を歩き、リビングの電気をつけた。家には誰もいない。僕がまだ幼稚園や小学校低学年の時、母は僕や一つ上の姉に無関心だった。それどころかよく迷惑がられ、手を出されることも儘にあった。僕らの存在は、父と母が歩いた道に残る足跡程度だったと思う。それなのに、母は離婚してからはずっと僕らのために働きっぱなしだ。高校の進路相談の時も積極的に相談にも乗ってくれたし、僕の意見を第一に考えてくれた。
姉は数年前に私立の大学を卒業して家を出た。僕は自宅から私立の大学に通っている。片親で子ども二人を私立の大学に通わせられるなど、もう奇跡だろう。
リビングの明かりを消して、僕の部屋のベットに飛び込む。面接まではまだ数時間ある。そっと、瞼を閉じた。
頭はガンガンと痛み、口の中は乾燥していて不快な味がする。目が覚めたのは面接の三十分前だった。洗面所で髪形を軽く整え、服装もそれなりのものに着替える。スーツはやりすぎなような気がするので白いシャツを着る程度だ。洗面所の鏡越しに自分を眺める。リビングのすぐ近くに洗面所があるため、洗面所の鏡はリビングの景色を映す。薄暗い空間が広がっていて、その空間に誰もいないことに、少し安心している自分がいた。
「はい、ではこれで面接は終了です。採用の場合は明日の内にお電話させて頂きますのでよろしくお願いします」
僕が応募した書店の店長は四十代くらいに見える男性だ。腰の低い人だったので面接でのやり取りは気楽だった。最後に明日電話に出れる日時を聞かれ、僕は書店を後にした。
薄暗くなった空の下でクロスバイクを思いっきり漕ぐ。少し冷えた風が肌をなでて気持ちがよかった。鼻から大きく空気を吸うと冷たい空気に包まれた薄い草木の匂いがする。心地よい時間はいつだって、不快な時間の後に来る。
自宅の扉を引くとガチャッという音する。この音を聞くことはあれど、聞かせることはほとんどない。家の中は外の暗さも相まって真っ暗闇だった。壁をペタペタ触りながら、廊下の電気のスイッチを探す。カチッ、という音がして視界が開けた。
もちろん家には誰もいない。キッチンやリビングの電気もつけて、冷蔵庫の中を見る。少し小腹が空いた。というかもう夕飯の時間だ。
冷凍庫の中から冷凍のうどんを取り出して、それを電子レンジの中に入れる。温まったうどんを水道の水でほぐして、めんつゆをかけて、卵の卵黄の部分だけをのせて、少し海苔を散らせる。これが意外とおいしい。
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