それはなんてことはないただの退屈で

 金曜日の二限。一週間の最後の講義は、家族社会学という講義だった。特に興味もないが、単位のために取った授業だ。他の学生も大半がそうなのか、まばらに埋まる長机の上でパソコンで資料を見るふりをしながらスマートフォンをいじっている。僕も例外ではなくて、この講義とは全く関係のないゼミの面倒なレポート課題を進めていた。


 僕が受けている家族社会学の講師は女性でおそらく四、五十歳と言ったところだろうか。短髪で、老けているとも思わないが、若いかと聞かれると首をひねってしまうような見た目をしている。名字は東、下の名前は知らない。どうやら最近、母親が亡くなったようだ。やけに声高らかに語るものだから嫌でも耳に入ってくる。耳に被せた透明な障壁を無理やりこじ開けてくる。


「人はみんな死んでしまうわけですよ、私のお母さんは寝たきりのまんま静かに息を引き取りましたが、私もねえ、癌だったりで痛くて苦しみながら死んでいくのは嫌だなあなんて思うわけですよ。こてっと、一瞬のうちに死にたいなあなんて思うんですがそうもいかないわけで、」


 うんたらかんたら、と長々話を続けている。東、ここでは先生と呼ぼうか。東先生の喋り方には独特のリズムがあって、そのリズムがどうも気に入らない。話している内容に関係なく楽しいことを話されているような感覚に陥るのだ。まるで母親が死んだことを喜んでいるかのようにさえ感じられる。僕がそう感じているだけであって、声色には怒気のようなものがほんの少し滲んでいるから本気で楽しいとか嬉しいとかそんなことは思っていないのだろう。それでも、気に触るものは気に触る。貧乏ゆすりが激しくなった。


 タンタンタンタンタン。タタタタタタタタタタタタ。


 短針と長針が十二の上で重なった頃、講義が終わった。本来ならこの講義は十二時十五分までなのだけれど、大体いつもこのくらいの時間で終わる。


 ちょうど昼食の時間だ。でもバイトをしていないから金がない。両親はなんだかんだ優しいからきっと言えば昼食代はくれると思う。飯の味がなくなるからもらわない。空腹の方がまだ幾分か味がする。


 図書室に入り、集中して作業ができるように仕切りがある席に座った。四角形の机で対角線に沿って仕切りがある。ピザの一切れの中で、僕はパソコンを開きさっきの講義中に進めていたゼミのレポート課題の続きをする。どんなにだらけてもあと一時間もあれば終わるだろう。昼食は家に帰ってから適当に食べることにする。そもそも金がない。


 ぐう。ぐりゅりゅ。


 腹が鳴った。






 一週間が経ち、また家族社会学の講義が始まった。元々興味など微塵もなかったが、なんだかんだこの講義が一番楽しみにしている講義かもしれない。この講義を聞いていると、自分がどこまでも奈落に落ちていくような気がして心が眠くなってくるのだ。表情筋が垂れてきて、目は半開きになる。この状態が、一番疲れない。


「日本では現在、三分の一の方が離婚しているんですね。私も結構な数の友人に聞いてみてほんとに驚いたんですが、私は今の夫と生まれ変わってもまた一緒にいられたらいいなと思うんですよ。死ぬまで楽しいだろうし、死んだ後も楽しいだろうし、また新しい生がもらえるならそこでも一緒にいたいなあなんて思うんですね。でもね、そんなこと言う人はほとんどいないんですよ。百人くらいに聞いたんですが私と同じ意見を言う人は一割くらいでしたね。他の人は、今の人生ではずっと暮らしていてもいいけど、次は他の人がいいなとか。もっとひどい人だと、一緒に住むのは良いけど顔は見せないでほしいとか、本当にひどい意見もあって、消えてくれとか、災害とかで死んでほしいなんて言う人もいるんですねえ」


 声の抑揚がはっきりしていて、やはりリズムが気に障る。高く、良く通る声が、楽しそうだ。胸のあたりが重くなって地面に引っ張られる。息は普通にできるのに、息苦しい。バクバクと動悸がする。胸が突き破られるんじゃないかと不安になるほどに、心臓が強く胸を内から叩く。背中まで痛み出してきた。前だけでなく後ろにも心臓は鼓動を突き刺す。


 例に漏れず、僕の両親は離婚している。父の不倫らしい。直接そう言われたことはないけれど、離婚した後本当に偶然父が見知らぬ赤ちゃんを抱いているのを見たことがあった。多分女の子だと思う。父と母が離婚したのは小学生の頃で、もうずいぶんと前のことだ。


 ――行こ。


 小学校から帰ってくるとすぐに母がそう言った。そのままわけもわからず母の実家に行き、そこで事情を知ることになる。何時間も泣いた。小学生の頃は夜八時には寝ているような子どもだったにもかかわらず、その日は夜中の十一時まで起きていた。寝れなかった、目がすごく冴えていて、目を瞑っても意識が落ちていかない。たくさん泣いたから。今でも時々思い出しては、夜に一人で泣いていることを、きっと誰も知らない。


 どんな気持ちだったのだろう、とそんなことを考えるようになったのは最近だ。父と母は離婚した。結婚というものは人生においてとても大きなイベントだと思う。その選択を、これまでのすべてを否定して、どんな気持ちだったのだろう。父とは、それから何年も会うことはなかった。自分の子どもと会えない、というのはどんな感情だろう。見知らぬ赤ちゃんを抱いていたということからなんとなく察することはできるが、ならばどっちなのだろうか。子どもが恋しかったのか、それとも、僕はいらなくてもあの子はいる、なのか。よく考えるまでもなく、その一方はあってないようなものなのだけれど、僕はそこで思考を止めていた。今更どうでもいいが、どちらにしたって父の気持ちはわかる。父は今五十歳を過ぎたころだと思う。うん。やっぱり、わかる。


 こんなことを考えている間も心臓は構ってくれと言わんばかりに音を鳴らす。わけのわからない動悸が止まない。配られたレジュメに、黄色の蛍光ペンで線を引いた。手が震えて、波線になってしまったが結果オーライ。


「では今日はここまでにしときましょうか」


 退屈だなあ。そう思う。


 体はこんなにも忙しいのに、見える景色は無機質だ。全部が全部透明なようで、何かしらの色に染まっている。決めつけて、踊ってる。疑う必要のないものを疑い、疑うべきものを見過ごす。優しさというものがどこにあるのか教えてほしい。


 大学三年生、今年で二十一歳。インターンシップ、就職活動の準備。人生の終わりは、もうすぐだった。


 机に広げていたプリントたちをファイルに挟んで、教室を出る。まだ家に帰る気分ではなかったので、階段を上り五階にある図書室へ向かった。僕が通う大学はビル型の大学で、横ではなく縦に広い大学だ。移動がなにより面倒だ、ふくらはぎに乳酸が溜まっていくのがわかる。キュウっと足が萎むような感覚によってじわじわと赤いような熱が広がった。


 図書室の入り口には駅の改札のようなものが置かれていて、そこに学生証をかざして「ぴっ」という音とともに図書室へ入る。僕は漫画が好きなのだけれど、この図書室には漫画が一冊も置いていない。それどころか娯楽小説も数えるほど。あるのは専門書ばかりだ。これが他の大学だとどうなるのかは知らないけれど、僕はなんだかそれだけでこの空間から排斥されているように感じる。レポートの課題や持ってきた小説を読むのには最適な場所だが、心を守っている卵の殻のようなものが段々とぽろぽろと剥がれ落ちていく。上流から流れてくる石みたいに丸っこくなる。吐き気を催すほどの気持ち悪さがのどの奥にどろどろと溜まっていって、耐えられなくなる。図書館を出てすぐのところにあるトイレの個室の中でえずく。うえぇ、のどの奥がキリキリしてきて傷みだすまでひたすらえずく。あとから入ってきた知らない人が個室の薄い扉を隔てて「大丈夫ですか?」なんて聞いてくるけど、そんなことは無視して満足するまでえずく。垂れてきた唾液をパーカーの袖で拭った。パーカーの袖の色が濃くなった。


 トイレを出て五階からの景色を眺める。ガラス張りのビルなので基本的に廊下に出れば外の景色が見えた。所狭しと並ぶ建物、その間を通る道路。何にも、面白くない。


 ――バサッ。


 実際に音は聞こえなかったが、その音があまりにもピッタリにはまるものだから、自然と心の中でその音が鳴ってしまった。


 燦燦と照りつく太陽の下で、ガラスのような羽が揺れた。


 


 自然から生まれたものにしては少し不自然な粗さと精巧さが同居しており、これは人が作り出したものだと直感でわかった。実写映画に突然紛れ込んだCGのような異質さがある。ガラス細工のように見えるが、ガラス細工にしては羽の動きがなめらかすぎた。薄い紙をぺらぺらと揺らしているように見える。カラスを形作る鉛筆で書いたような線だけが見えて、その中は透明だ。でも、その鳥がカラスだということはすぐにわかった。なぜだかはわからない。単にカラスであってほしいというだけかもしれない。カラスの細い枝のような足には、紫色のミサンガのようなものが引っ掛けられている。人間が身につけるくらいの大きさで、フラフープのように上手いこと動きながらその足を掴んで離さない。


 透明なカラスは、ジッと数十秒、その透明なくちばしで僕の目をくり抜くかの如く睨みつけ、太陽に向かって飛んで行った。


「バイトをしよう」


 なぜだか、そう思った。


 ジーンズの右ポケットからスマートフォンを取り出し、右手の親指で操作する。とりあえず書店の求人を探した。書店の求人がなければ、バイトはしない。書店なら、まあしてもいいだろう。僕は本が好きだ。漫画も小説も。自己啓発本や投資の本は大嫌いだ。まあそれでも、僕が働く空間に僕の好きなものがあるというのなら意味はあるだろうと思う。逆に、僕の好きなものがない空間に、僕自身がいる価値はないだろう。それにきっと耐えられない。そんなものは、大学だけで十分だ。


 自宅から自転車で十五分くらいの場所にある書店の求人を見つけた。電話をかけ、履歴書を店舗まで郵送しろとの指示があったので、履歴書用の写真を撮りに行く。自宅近くのスーパーの前にポツンと一つだけ証明写真を撮る機械があるのでそこで不細工な自分の写真を撮った。


 プルルルル。


 ジーンズの右ポケットに入ったスマートフォンが振動した。同じ学部の友人のまきからの電話だ。坂巻という苗字だからそう呼んでいる。


「もしもし」

「るか?」

「そ」

「バイト決まった?」

「本屋のバイトにとりあえず応募した。今、履歴書用の写真撮ったとこ」

「おー、良かった良かった」


 まきはわざとらしく驚いたような声を出して、そんなことを言う。まきは僕に対してバイトをしろとことあるごとに言ってくるのだ。余計なお世話だし正直鬱陶しいのだが、まあ大学生にもなって部活もバイトもしていないというのは多少浮いてしまう存在だというのもわかる。そういうことをものすごく気にするのだ、まきは。


「前のカフェみたいなことするなよ」


「はいはい」


 大学に入学したばかりの頃、突然話しかけてきたまきに、僕はカフェのバイトの面接での話をした。大したものでもない、ただカフェの店長に面接で「カフェのバイトは飲食店よりも楽なイメージはありますか?」という質問に対して「あー」と大袈裟に笑みを浮かべながら「あります」と言ったというだけの話だ。実際に高校生の時にしていた飲食店のバイトが大変だったからカフェのバイトを選んだのも事実だし。結局落ちたけど。


 何気なく話しただけだったが、まきは明らかな怒気をはらんだ声で「は?」と言った。「それはお前が悪い」「お店に失礼だ」「その店長は傷ついただろうな、誇りをもって仕事をしていたのに」まくしたてるように続けた。こいつとは仲良くなれなさそうだと思ったが、気づけば大学三年になってもこうして電話で話している。


「じゃ、頑張れよ」


 プチ、と返事も返さずに通話を切った。機械から出てきた不細工な顔が写った写真をぺらぺら鳴らしながら家に帰る。これを履歴書に貼って、郵送すればとりあえずはオーケーだ。あとは書店からの連絡を待って面接に向かうだけ。



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