第一章「和」国大乱

第一節「星空」

 目を覚まし、最初に飛び込んできたのは星空だった。


 それも、普段見ているようなまばらな、か弱い光の星ではない。無数の星が力強く瞬いており、帯状になって視界いっぱいに広がっている。こんな雄大な星空を見たのは、地元の片田舎にいたとき以来だ。


 ふと、辺りを見回すと、綺麗に草丈の揃っている、一面の草原が広がっていた。建物や人工物のようなものは、見渡す限りは存在していないようだ。


 ――いや、一体、ここはどこだ? 俺は、どういう経緯で、ここに? 


 ……ダメだ。頭に霧がかかったように、思考がまとまらない。不明確で不明瞭。『考える』ということは自分にとってあまりに当然の行為で、それに苦労したことなど無かったので、猛烈な不安感が俺を襲った。俺はこのまま、どうなってしまうのかと。


 それでも俺は、なんとかそんな頭に鞭打ち、海馬を奮い立たせて、直近の記憶を探る。


 確か、俺は電車に乗っていて――いや、違う。


『俺は』、ではなく。『俺たちは』、という方が正確だ。俺は、とある人物と、旅行の目的地に赴くために、指定席付の特急電車に揺られて車窓を眺めていた。それも、楽しくおしゃべりをしながら。


 そのとある人物こそ、俺の人生の伴侶。最近、正式に籍を入れた最愛の妻であり、つまりその旅行とは、『新婚旅行』のことだったのだが――


 ――そうだ! 確かその電車は、事故に遭って……! 彼女は? 彼女は無事なのか!?


「結!!」


 俺は飛び起き、妻の名前を叫ぶ。彼女がいないのではないかという恐怖で、一瞬、気がふれそうになったが……、


 幸い、そんな俺の不安は的中せず、結は俺の隣で横たわり、すやすやと眠っていた。いつものショートヘアに、いつもの健やかな寝顔。何なら暢気に、よだれを垂らしているほどだ。


 それも、当たり前のように、無傷。目に見える範囲に、損傷や裂傷などは見られない。念には念を入れ、一応体中をまさぐったりもしてみたが、おかしそうなところはない。くすぐったそうに、身をよじるだけだ。


 しかしそうなると、あの事故は、俺の単なる夢だったのか? 電車事故に遭って、無傷だなんて奇跡があるわけがない。だがだとすると、今のこの状況は、一体全体何だというのか。


 ……ひとまず、考える前に、結を起こそう。一人で考えすぎるのは、俺の良くない癖だと、口を酸っぱくして言われていることだし。この状況でこのまま寝かせておくよりかは、彼女の話も聞いてみたい。


 そう思い俺は、彼女の肩を強く揺さぶり、声をかけた。美容院で揃えられた前髪が、さらりと揺れる。


「おい。結、起きろ」

「……ん~、あと、ごふん……」


 これだ。彼女はあまりに寝起きが弱く、起こすのに骨が折れる。さっき体を検査したときも、全く目を覚ます気配が無かったことから、その深刻さが伺えるだろう。


「いや、そんな悠長なこと、言ってる場合じゃないんだって」

「ん~、何、そんなにしつこく……。ちゅーしてほしいの?」

「ちゅーはいつでもして欲しいけど、そうじゃない。とにかく起きろ。せめて目を開けてくれ」

「分かったよ、もう……、うわ、星めっちゃ綺麗!」

「それは俺も思った」


 じゃなくて。


「俺たちって、電車に乗ってたよな、新婚旅行のために。でも、俺の記憶が確かなら、電車が、その……、事故に、遭ったと思うんだけど」

「事故? 事故って――はっ! そうだ。そういえば私、事故に遭って、ものすごい怪我をした気が……!」


 俺が問題の核心に触れると、彼女は幾ばくか逡巡していたが、やはり、俺と同じ記憶があるらしい。勢いよく起き上がり、先ほどまでまどろんで、とろんとしていた目が、見開かれて活性化している。


「はじめちゃんは、大丈夫なの!? どこにもおかしいところない!!?」

「いや、大丈夫だけどさ……。はじめ。『肇』、だよな。俺の名前って」

「え、うん、そうだけど。どうしたの? 本当に頭大丈夫?」

「おい、その言い方だと、まるで俺が馬鹿みたいになるだろ」


 というか、よだれをいつまでも垂らしているお前の方が、よっぽどバカっぽい。


「そうじゃなくて。さっきから、なんだか頭が上手く働かないんだ。ぼやっとしてるっていうか」


 俺は彼女のよだれを拭いながら、そう答える。だから、まだ完全には、頭の中の曖昧さが消えていないのだ。さきほどよりは、幾分かマシになってきたけど、それでもまだ、完璧じゃない。パーフェクトじゃない。


「でも、話してるうちに、だんだんとはっきりしてきた。そのまま、俺のことについて、話し続けてみてくれないか?」

「う、うん――分かった。じゃあ言うよ」


 結は少し不安げに、しかしいつもの元気な声で、俺の素性を語り始めた。


「あなたの名前は、御縁肇みえにしはじめ。24歳の社会人で、12月22日生まれの射手座。身長は確か、175センチで、血液型はA型、右利きだよね。あと、お姉さんがいる」

「ああ、そうだな」

「えーっと、趣味は読書とか、映画鑑賞とか……、とにかく、陰険なほどインドア派だよね。運動、嫌いすぎるし」

「陰険は余計だ」

「それに、友達もいなくて、ファッションセンスが無くて」

「ただの悪口になってきてるぞ!」


 ていうか、友達くらいいるし! そりゃ、交友関係が莫大な結に比べたら、雀の涙ほどかもしれないけどさあ!!


 と、俺が憤慨していると、しかし彼女は、いたずらに笑って、


「……でも、かっこよくて、優しくて、私のことを誰よりも愛してくれる、世界一の旦那様、だよね?」


 と言った感じで、不意打ちを入れてきた。彼女の主観が入っている――というか、ほとんど彼女の主観で構成されているお世辞とはいえ、真っ直ぐに褒められるのは、どうにも歯がゆく、本当に苦手だ。「……お、おう」みたいな、歯切れの悪い反応しか取れないのが、彼女の思うつぼで、これまた恥ずかしい。


「おほん、まあ十分目が覚めたから。もう大丈夫だぞ」

「えー。私のことは、言ってくれないの?」

「いや、お前はもう、ばっちり冴えてるだろ」


 あんだけ俺の欠点をあげつらっていたくせに。


「それでも、言ってほしいの」

「……分かったよ。お前の名前は、御縁結みえにしゆい。25歳の社会人で、俺と同級生。6月22日生まれの蟹座。身長は160センチで、体重は」

「それ以上言ったら、摘み取るよ?」

「何を!?」


 というか、女の人って、何故こうも体重を気にするんだ。いや、赤の他人なら、気にしても仕方がないのかもしれないが、こちとら夫婦なのである。正確な数値を知らずとも、おおよその予想はつくものだろう。何を今更、というのが俺の本音だ。


「……まあ、体重は伏せるとして。血液型はB型の、左利きの一人っ子。で、中学はバスケ部、高校は、剣道部だっけ? 大学でも、いっぱいサークル入ってたし。ほんと、うんざりするほどのアウトドア派だ」

「うんざりは余計でしょ」

「結婚する前の苗字は、にのまえ。初めに聞いたときは、心底羨ましいと思ったよ」

「ああ。『御縁肇』だと画数が多いから、書く時間が長いってやつね」


 そう。この『御縁』という苗字、それに『肇』という名前を合わせると、合計で41画もあるのだ。それに対して彼女は1画。紛れもない一直線。何をそれくらい、と思われるかもしれないが、この差が十年、二十年と積み重なったときに、損する時間の差が膨大なのは明白だろう。


「でも、私だって名前を言っただけじゃどんな漢字か理解してくれないから、それを説明する時間を考えたら、同じくらいの不公平さなんじゃない? ほんと、一々大変なんだから。にのまえだけに!」

「それ何回も聞いたわ」


 一々持ちギャグみたいに言うな。一だけに。


「あとは、何かあるかな。胸がクソでけえってのと……」

「うん。それはもっと余計だね!」

「何を、最重要事項だろう。そもそも胸ってのは」

「あー、はいはい。その講釈いらないから。続けて」

「うーん、あとは、だからその……」

「ん? 何々?」


 結は俺が口ごもるのを見ると、口元をニヤッとさせ、目を輝かせながら俺の顔を覗き込んでくる。


 くそ、こいつ、俺がいつになく褒めようとしてるのを察してやがる。全く、交際を始めてから6年ほど経つというのに、こういうことだけは慣れる気配がない。もっと大人らしく、毅然に振舞いたいという願望はあるのだが。


 それでも、一度出かかった言葉を呑み込むこともできず、俺はそのままこう続けた。


「だから……。お前は、俺の大切な、たった一人の可愛いお嫁さんだよ」

「ぶっ、うははっ! 顔赤~い!!」

「うるせえ!!」


 ああ、やらなければよかった、こんな柄にもないことを! 非日常的な空間に酔ってしまったのだろうか、後悔先に立たずという奴だ。


「ふふ。でも、嬉しかったよ。ありがとねっ」

「うわっ!」


 結は笑いを堪えられないままそう言うと、俺めがけて勢いよくタックルを繰り出してきた。いや、彼女からすれば抱擁のつもりなのだろうが、何分力が強く、その威力はタックルと遜色がない。重機か、こいつ。


 その勢いのまま、二人で草むらに倒れる。結果的に最初のように、空を見上げて寝転ぶ姿勢になった。頭を打ったのか、後頭部がじんじんと痛い。


「いきなり危ないことすんな!」

「えへへ」

「可愛く笑っても誤魔化せないぞ……。悪質すぎるだろ」


 いや、というか、自分のプロフィールの確認に、えらく時間がかかってしまった。


 俺たち、これでいいのか? 俺たちは今、大変なことに巻き込まれてるんじゃないのか? こんな、いつも通りのテンションで、本当にいいのだろうか……。


 と、そんな風に、不安に思う一方で。


 隣に寝転ぶ結の顔を見ると、しかし安心を覚えるのも、また事実だった。


 だから俺たちは、しばらく何も考えず、せっかくの星空を眺めることにした。結果として、最初からほとんど何も進展していない。悠長以外の何物でもない展開だったが、まあ、それもご愛嬌ということで。


 芝生のさらさらとした感触に、涼しい夜風が心地良い。


 夜空に煌々と輝く星々が、銀の指輪に反射していた。

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