第6話 幸運の数字
「レンさん。私、ずっと昔に、あなたにお会いしたことがあるんです。あなたが『紫の大魔術師』の称号を得てから初めての、夏祭りの夜のことです」
「……そうでしたか」
「はい。レンさんは、私から買い取ってくださった夏祭りの飾りを使って、それはそれはたくさんの見事な火の花を咲かせて見せて下さいました」
「火の花……」
そこで、伏せられていたレンさんの目が上がった。
「はい。私、感激してしまって……」
私の脳裏に、あの日の彼の姿が蘇る。
*
降り注いでいた火の花のかけらも散り切ったあと、再び現れた彼が静かに私の周りの結界に手をかざすと、それは溶けるように消えて行った。
彼は私の顔をのぞき込むように小首をかしげ、そのまましばらく固まっていた。私も身動きできずにいると、ふいに、目の前に先ほどのウサギのぬいぐるみが現れて、一生懸命に私の頬をなでる。
そこで、私は初めて、自分が泣いていることに気がついた。
「君にこの子をあげる」
彼の言葉に、私は硬直する。
「好きな数字はなあに」
「……7」
「ふふ、いい数字だ。困った時には、その数字を3回唱えてから、胸の中でこの子に相談してごらん。きっといいことが起こるよ。この子はある意味では僕の一部。そして、君にたくさんの幸運を運ぶように、特別に力をこめたから」
「で、でも……」
そんなものすごいものを、いただいてしまっていいのだろうか。子供ながらに、嬉しさより畏れの気持ちの方が大きかった。
「これは、お礼なんだ。僕から君への。今日僕は、大変な過ちを犯すところだった。君に会うことができて、自分の誤りに気付くことができたんだ」
「……?」
「ふふ、分からなくていいよ。この子は君にしか見えないから、他の人のいないところで数字を唱えるんだよ。――きっと僕たちは、もう会うことはないだろうけれど、どこにいても僕は、君の幸福を祈っている。君も、自分の人生を大事にすることを忘れずに、生き抜いていってほしい」
「……は、い」
「それじゃあね、気をつけてお帰り」
次の瞬間には、紫の男の人は、目の前からいなくなっていた。
*
「それから私は、下働きをしていた都の商家で、本を買い付けに来ていたこの書房の店主夫婦に見込まれて、養女になることになりました。実家は国境近くの貧農でしたから、いくつかの外国語を話すことができたのが、きっかけでした。とても可愛がってもらって学校にも行かせてもらって……。養父母はもう亡くなりましたけれど、遺してくれたこのお店と、身につけた翻訳や代筆のお仕事で、不自由なく暮らせています。私がこんなに恵まれた人生を歩んでこられたのは、レンさんにもらったあの幸運のぬいぐるみのおかげなんです」
私は、レンさんの瞳を見つめる。
「レンさん、今年の夏祭りの夜のレンさんのお姿を見て、なんとなく、分かりました。レンさんがこの街に、私のお店に来られたのは、偶然ではないのですね」
「……そうだね」
「お話になってくださるまで、お待ちするつもりでした。でも、やっぱりこのままでは、いけないんじゃないかと思うんです」
「……そうだね……」
「もしも、何らかの形でレンさんがこの店に導かれたのなら、たぶんこのぬいぐるみ、かつてのあなたの一部が、あなたを呼んだのではないかと思います。これから、ぬいぐるみを呼び出します。よろしいですか」
「……」
レンさんは目を閉じ、深く息をつく。彼は、迷っている。魔術師は、市井で暮らすことは叶わない。私の胸に、甘い痺れが生まれ、じんわりと広がっていく。
「お願いする」
やがて眼を上げたレンさんは、真っ直ぐに私を見つめた。心を決めた瞳をしていた。
私は、胸の中でゆっくり3回、数字を唱える。今日までは、私の幸運の象徴だった数字。でもきっと、明日から私は、この数字を思い出すたび、胸が苦しくなるのだろう。
現れたぬいぐるみを、そっとレンさんの方に差し出す。
「この子の名前は、アルトと、おっしゃっていました」
「アルト……」
呟いた瞬間、レンさんの周囲に、ぶわりと紫の煙のようなものが立ちのぼった。みるみる、彼の伸ばしかけの髪と瞳が、色を取り戻していく。
彼は微かに微笑んで、ゆっくりとぬいぐるみに手を伸ばす。指先が触れた瞬間、ぬいぐるみはくるりと宙返りをして、ぽて、と私の膝に着地した。
ぬいぐるみの腕で、私の頬がなんども、なでられる。
「……泣かないで」
ささやくような、彼の声。
「ありがとう、僕の幸福」
ぬいぐるみごと、彼の腕が私をそっと抱き込んだ。
その瞬間、キーンという耳障りな音が響き、突然部屋の空気に冷気が混じった。
『お目覚めですか、シショー』
ひどく若い、少年じみた声が部屋に響く。
「相変わらず空気を読むということができないのだな、ルティウス。それともわざとなのか」
『そりゃそうですよ』
レンさんの腕が解け、彼はさりげなく私を背に回すように、自分の体を振り向かせた。そこには、ぐにゃりと部屋の空間を歪ませ、真っ黒な大きな穴が開いていた。
『僕たちずいぶん待ったし、もう一分たりとも引き延ばされるのは嫌なんですよ、あんな職責。さっさと戻ってきてくださいよ、シショー』
「もう少し言い方はないのか」
『……王命です、お戻りください』
レンさんはため息をついた。
それからゆっくりと、私を振り返る。
「ファルカ、……本当に、ありがとう。君の幸福を祈っている。これからも」
彼の薄紫の瞳が、ゆっくりと細められる。笑ったつもりのようだった。
「さようなら」
彼が最後にそっと、私の濡れた頬に触れる。
そして、そのまま黒い穴に吸い込まれるように、その姿はするりと消えた。
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