第5話 再び力を得るために
「レンさん」
窓際のいつもの席で、彼はぼんやりと外を眺めていた。私の呼びかけにも、反応はない。
「レンさん」
そっと近寄り軽く腕を叩くと、彼は我に返ったように私を振り向き、パチパチまばたきする。
「……ああ、はい」
「お昼、できました」
「ああうん、ありがとう。すみません、ぼうっとして」
夏祭りの夜以降、彼は物思いに沈むことが多くなった。その理由は、私には何となく、予想がついた。
あの夜、華やかに咲いた火の花が散り終えた瞬間、彼を振り向いた私は息をのんだ。彼の全身から、薄紫の炎のようなものが、うっすらと立ち昇っていたからだ。
それは一瞬の出来事だったけれど、私の胸に嵐を呼ぶには十分だった。
この人の魔力は、失われてはいない。きっと何かの理由で、表に現れていないだけなのだ。それならいつかまた、彼の力は戻るかもしれない。もしかしたら、かつて一人で都を守り切った、この国随一といわれた大魔術師に返り咲くことすら、できるかもしれない。
考えるだけで、胸が高鳴った。
でも、自分の胸を満たすその薔薇色の予感の中に混じる、一滴の黒い
ほとんど周囲には異常を気取られないくらい自然に歩けるようになり、読みたい本をあらかた買い終えてしまった後も、レンさんは書房に通ってきた。窓際の席で、買ってくれた本を一冊一冊、すごい集中力で読み進めていく。この仕事をしていても、彼ほど早く長く読む人は、あまり見たことがなかった。
「お邪魔でなければ、お店をお手伝いしたい」
ある日、彼は、意を決した顔をして私に申し出た。何だかしばらくもじもじしていたのでどうしたのかと思っていたら、と私はおかしくなる。
「ありがたいですけれど、
「いえ、体を動かす訓練なので。お金をもらう程の働きには、ならないでしょうし」
「でも」
しばらく押し問答の末、私が彼に昼食を御馳走する、ということで、話はまとまった。
目の前のレンさんは、ゆっくりとスプーンでスープを口に運んでいる。ひとくち口に含むと、うっすらと微笑む。彼は、いつも丁寧に美味しそうに食べ、その様子は私の胸をあたたかくしてくれる。彼と食べるごはんは、いつでもとびきり美味しい。
彼がいてくれる店内は、一人の時よりもほんの少し明るくて、ほんの少し暖かい。
私は、願ってしまっている。この時間が、田舎町の片隅に住む平凡な男と女として、二人で過ごすこの時が、永遠に続くことを。
でも、それは、あまりに身勝手な願いだ。再び目の前で物思いに沈んだ彼の、伏せられたまつげを見つめる。彼の真の幸福は、ここにはない。それをもたらすのは、今は使うことのできない、彼の力だけなのだろう。
「レンさん」
「はい」
彼の目が上がる。漆黒の瞳。かつて、美しい薄紫に輝いていた瞳。
「レンさんは、力を取り戻したいですか」
「……ああ、それは、もちろん」
彼は、何のためらいもなくうなずいた。私の胸がずきりとする。
「私、そのお手伝いが、できるかもしれません」
「え」
彼の目が
「本当ですか。ご協力、いただけるのですか」
「……はい」
「それはうれしいな。じゃあまず、恐縮ですが、ごはん、少し
「は……」
「そろそろ負荷を上げようと思っていたんです。本だけでは足りないので、申し訳ないが、店に鉄アレイを持ち込んでも良いでしょうか」
「は……はい?」
レンさんはにっこりすると、おもむろに腕まくりをした。そして握り込んだ拳に力を込めて、腕を触りながら哀しそうな顔をする。
「ああ、本当に、なんて貧弱な上腕二頭筋なのだろう」
「あの……え?」
呆然とした私の表情に、そのままの姿勢でレンさんはしばし黙り、それからゆっくりと、しまった、という顔をした。
「筋トレのお話では、なかったですか……」
「きんとれ」
「そうか。この世界にはそんな概念は……なかったですね……」
*
一生の不覚だった。前世の記憶に引きずられる言動はするまいと、相当気を付けていたつもりだったが、前世の筋肉への愛が、現世の思慮を上回ってしまった。
そう、前世の自分は、筋肉がほぼすべてを解決する世界に生きていた。力こそ正義。筋肉に聞けば、おのずと正しい答えは分かる。筋肉だけは、努力を裏切らない。
……また、早口になってしまった。ガタイはいいけど筋肉語りがキモイ、と、自分は合コンでも全然モテなかった。消防士という、わりと女子受けのいい仕事をしていながらだ。
まあそれでもなんやかんや妻子を得て、割と自分の人生に満足して死んだ。定年退職後、思う存分筋肉と語り合った日々は至福だった。
知的な分野の知識に関してはさっぱりだが、自分は異世界で生きた前世で、最も重要なことを学び、この世界に戻って来たのだ。
*
「……ええと、すまない。そうすると、ファルカさんの言う『力』というのは」
「黙っていて、ごめんなさい。私、初めてレンさんがお店にいらした時から、分かっていたんです。あなたが、何者なのか」
「……そうか……」
「……もし、レンさんがここへいらしたのが、ただの偶然ではないのなら、私の話は、何かのお役に立つかもしれません」
レンさんは、一度目を閉じ深く息をつくと、ゆっくりとうなずいた。
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