第3話 ぐちゃぐちゃの備忘録

「つっ……」

「! 大丈夫ですか」

「ええ、すみません。お茶が熱いことを忘れていて……」

「まあ、ふふ」


 カウンターから駆けつけた私に、彼はきまり悪そうに微笑んだ。


「すみません、お仕事の邪魔をしてしまった」

「いいんです。ふうふうって息を吹きかけるといいですよ。それから、口元でカップをゆっくりかたむけて、少しずつ吸い込むように飲むんです」

「……そうでした」


 彼は若干おぼつかない手つきで私が言ったとおりに紅茶を一口飲み、ゆっくりと微笑んだ。


「これは、とても良い香りです」

「紅茶という飲み物です。熱いお湯で淹れるほど美味しくなるので、つい熱いままお出ししてしまって。ごめんなさい」

「いえそんな。お手間ばかりかけて、甘えるばかりで……」


 彼は大事そうにカップを両手で包む。


 結局、彼が買ってくれた本を、私が「配達」することはなかった。歩く練習もかねて一冊ずつ店に取りに来るから、取りおいてもらえないかと頼まれたのだ。

 それから、週に2回ほど、お天気の悪くない日、彼は歩いてこの店にやって来る。

 少しずつだが、彼の動作が滑らかになっていくのが目に見えて分かり、私の心も軽くなっていた。


 彼の不思議な言動は、「大魔術師」という世俗と切り離されて生きて来た立場のせいなのかと思っていたのだが、どうも違っていたようだ。話しにくそうなので詳しくは聞いていないが、今の彼は、かなりの部分の記憶を失っているらしい。

 頓珍漢な言動をするたびに、彼は恥ずかしそうに身を縮めるのだけれど、私としては、幼子のようでとてもかわいらしい。


 それにしてもどうして、都から遠く離れたこの街で、たった一人で暮らしているのだろう。分からないことだらけだ。でも、彼の回復のお手伝いができるなら、これほど嬉しいことはない。いつ切れてしまうか分からない細い細いつながりだけれど、私は今のこの時間を大事にしたかった。


 今日は思い切って、お茶を提案してみた。私の書房には、店内の本を試し読みしながらくつろいていただけるスペースが一席だけあって、主には友人のアイダ、ごくたまにお客さんが使ってくれている。

 彼は嬉しそうに誘いに乗ってくれた。



 ぱらり、ぱらり。規則的にめくられるページの音。

 時々はっと思い出したように、紅茶を手に取りふうふうして飲む。

 窓際の、柔らかい光に包まれたその横顔は、思わず見惚れてしまうほど美しい。





 言語を忘れていなかったのは僥倖だった。

 地理、歴史、力のことわり。抜け落ちた記憶は膨大だが、文字さえ読めれば、何とか学びなおすことができる。おそらく二度と、魔術を使うことは叶わないだろうが、残されている能力で新しく生き直すことはできるのだ。

 そう思えるようになったのは、この書房と彼女のおかげだった。


 自分は膨大な魔力を持って生まれて来たらしい。生まれたのは、代々魔術師を輩出する血統の家だ。環境に恵まれ、おそらく自らもそれなりに努力し、魔術師としては最高位の階級、「大魔術師」にまで上り詰めていた。

 事故は、手負いの竜の討伐で起こった。最期に竜の吐き出した魔力に満ちた炎を目にした瞬間、相殺は間に合わない、周囲の兵士たちを傷つけずに逸らすこともできないと、ひどく冷静に思ったことだけは覚えている。

 それから自分は、1か月もの間眠り続けていたのだという。周囲が施してくれた回復の魔術は、自分には効果がなかった。目が覚めた時、自分はこの世界の記憶のほとんどを失っていた。


 実は自分には、眠り続けた1か月の間に経験した、全く別の世界、別の生涯の記憶がある。しかしこのことは、今後も誰にも話すことはないだろう。とにかく、その別の世界での生涯が閉じる時、どうしても戻らなくてはいけないという強烈な思いだけがあった。そしてその一念のみで、自分はこの世界に戻って来たのだ。

 しかし、この世界で目が覚めた時には、自分をそこまで突き動かしたものが何だったのかは、全く分からなくなっていた。


 手掛かりは、黒い革表紙の1冊のノートだけだ。

 それは大魔術師として生きていた自分の、唯一の完全な私物だった。そのノートを開いた時、自分は絶望した。ノートには文字や記号がぐちゃぐちゃと踊りまわり、意味を成す文章は一つもなかった。自分がかけた、覗き見防止の魔術の仕掛けに違いなかった。


 ただ一つ、ノートの中で読み取れたものがある。

 それが、この書房の住所だった。

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