第2話 ぬいぐるみと魔術師
「え、あなたってホント、噂話みたいなもの、全然知らないのね」
紅茶のカップをかちゃりとソーサーに置くと、エイダは呆れたように片眉を上げた。
「最近、国中その話でもちきりじゃない。紫の大魔術師様が、この前の討伐で大けがなさって、とうとう引退なさったって」
「……引退」
「命も危ないくらいのお怪我だったらしいわよ。幸い一命はとりとめたけど、一線からは身を退かれたらしいわ。お姿も変わられたらしいのだけれど、どんな姿になられたのかは、さすがに
竜になったとか、いやカエルだ、トカゲだとか。馬鹿馬鹿しいわ。
エイダは、ふん、と鼻で笑い、再びカップに口をつける。彼女は、この町随一の裕福な商家の一人娘だ。いつも最先端のおしゃれなドレスを着て、上流階級の奥様がたとも交流があるらしい。都の流行りものや王族の皆様の噂話のあれこれなど、とにかく、情報通なのだ。
こうしてちょくちょく書房をのぞきに来ては、世事に疎い私にいろいろと話を聞かせてくれる。さっぱりとしておおらかな彼女の気性は、私にはとても心地よい。そして、同じ学校に通っていた時分から、彼女も私を気に入ってくれていた。
彼女に聞けば、あの人の身に起こったことが分かるかもしれないと思ったが、ドンピシャだった。
「お姿が、変わられた……」
脳裏に、昨日のあの人の、肩の上で切りそろえられた黒髪姿が浮かぶ。
かつて幼い私の前に一度だけ姿を見せた時、彼は、薄紫のそれは美しい長い髪を、背中に豊かに波打たせていた。
*
「ここにいては、危ないですよ」
路地裏にうずくまり縮こまっていた私に、その美しい人はそう言った。私は返事もできずに、ひざを抱えて震えていた。
その人は私に手を伸ばしかけて止め、微かに顔をかたむけると、すうと目を細める。とたんに、上目遣いに彼を窺っていた私の目の前に、ふわふわの白い何かが現れた。それは空中でくるりと回ると、ぽて、と地面に足をつける。
ふわふわの白いかたまり――ウサギのぬいぐるみは、ゆっくりとお辞儀をすると、甲高い声で話し出した。
「こんにちは!」
私はびっくり仰天して、怖い大人から逃げ出すことも忘れ、ウサギを見つめる。
「……こんにちは」
「僕はアルト。君のお名前は?」
「……私は、ファルカ」
「ファルカ。こんなところで、どうしたの。今日は夏祭りで、このあたりには火の花が咲くんだ。かけらにさわってしまったら、危ないよ。おうちに、お帰りよ」
「……帰れ、ないの」
「どうして?」
「お祭りの飾りを全部売るまでは、帰っちゃ、いけないの」
私の傍らには、雑な造りの造花の飾り物が山のように売れ残っていた。私は農村から都の商家に働きに出されたばかりの子供で、こんなとき、どうしたらいいのか全く分からなかった。
「……のこりは僕が、買ってあげよう」
ぬいぐるみの後ろに立っていた、先ほどの紫の髪の人が言う。とても柔らかくて、きれいな響きの声だった。
「おいで」
その人がつ、と指を動かすと、私とぬいぐるみ、飾りの山は突然ふわりと浮き上がる。
「きゃ」
気がつくと、私は大通りの真ん中に突っ立っていた。周りを、透明な薄紫色の半球が囲っている。上着にずしりと重みを感じ、ポケットを見ると、いつの間にか、そこにはぎっしりとあふれんばかりの銅貨が詰まっていた。
「その中でじっとしておいで」
紫の男の人はそう言い置くと、ふわりと浮き上がってどんどんと空へのぼっていく。彼の後ろをふわふわと、私の夏祭りの飾りたちが、ついていった。
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