彼と彼女の、7つのおはなし(仮)

霞(@tera1012)

第1話 ヴィロナ書房

「いらっしゃいませ」


 ひらいた扉の陰から現れた人影に声をかける。その顔が見えた瞬間、どきりとした。

 あまりにも、知っている顔に似ていたからだ。

 本日最初のお客さんであるその人は、私ににこりと微笑むと、黙ってしばらく店内を見回した。やがて、数少ない外国語の本の並ぶ書棚の方へ、ゆっくりと歩み出す。

 歩くたびに、かすかに体が左右にかしぐ。不ぞろいな足音。


 そんなはずはない。でも、もしかしたら。

 私は、慌ててその客から視線を外し、手元の本の手入れに集中するふりをする。彼はゆっくりゆっくりと、狭い店内を巡り、本を抜き出していく。

 外国語の本を1冊。数年動きのなかった、物理学の本を1冊。分厚い歴史書を1冊。世界の食文化、という、カラフルな挿絵のついた可愛い本を1冊(これは私のお気に入りだ。)


 旅行書の書棚で、彼は視線を上にあげた。つと右手が上がる。次の瞬間、眉がかすかに寄せられ、ぐらりと大きめに、その体がかしいだ。


「……! 大丈夫ですか」


 私は思わず、手元の本を放り出して、彼のもとに駆け寄ってしまう。


「本、お持ちします」

「ああ。いや、……ありがとう」


 彼は戸惑ったようにまばたきをしてから、微かに苦い顔をした。


「申し訳ない。本とは、こんなに重いものだったのだな」

 彼のつぶやきに私が一瞬反応できないでいると、彼の顔が微苦笑に変わる。


「いや、つい、声に出てしまった。――おかしなことを、言いました。すみません」

「いえ……」


 私は、彼の手から重なった本を受け取ると、カウンターへと向かう。確かに手の中の本たちは、両の手で抱えてもズシリと重い。


「他にご所望の本はございませんか」

「いや、これで」

 彼はちらりと、積み重なった本に視線をやると、軽く息をついた。


「こちらはすべてお買いあげになりますか」

「……はい」

「あの、もし、戻したいものがあるようでしたら、こちらでお戻しておきますので……」

「……持ち帰るのが、難しそうに、見えますかね」

 彼は再び微苦笑した。その顔に浮かんでいるのは、隠しようもない諦念だった。私の胸がずきりとする。


「あ、の。差し出がましいようですが、お住まいをお知らせいただければ、お届けにあがります」

「いや、そこまでのご迷惑は」

「いえ、この店は、配達も承っておりますので」

 嘘だった。


「配達」

 彼はゆっくりとまばたきをしてから、初めて本当に微笑んだ。無邪気な、花が開くような笑顔だった。

「なるほど。良いシステムですね。街とは便利なところだ」


(――この方は、たぶん本当にあの人だ)


 私が、確信した瞬間だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る