君を解く

真田 侑子

本編

     0




 この人生は、果てのない道を歩いているようなものだった。

 空は重たく雲が重なり合っていて、前後左右、見渡す限り鬱蒼とした森が広がっている。

 歩む足はまるで汚泥に絡めとられたように重く、息は上がり呼吸は苦しく、己の喘鳴のみが空間にこだまするのだ。

 他人に理解してもらえない苦しみ。

他人を理解出来ない苦しみ。

 相互理解がかなわなければ会話の一つも楽しめないというのに、私は誰にも解られないし、誰のことも解らない。

 いくら理解しようと歩み寄ったところで、こちらに歩み寄ってくれる人はいない。

 苦しいことばかりだった。

 もう嫌だとすべて投げ出してこの生涯を終えてしまいたいと何度も考えた。

 こんなにも苦しいのに、どうして人生を諦めなかったのだろう。

 それはきっと、私を理解して、私が理解出来る人がこの世界のどこかにいるという希望を捨てきれなかったからだ。




     1




 初春の肌寒い空の下を歩く。

吹き付ける冷たい風に抗うようにカーディガンのボタンを閉めて、まだコートが必要だったと私は小さく後悔した。

空は私の心の中を表すかのようにどんよりと曇っている。今にも雨が降りそうだ。私が

そう思考した瞬間、ぽつり、ぽつりと空から雫が降りて地面を濡らしていく。雨粒はどんどん大きくなって、あっという間に地面を真っ黒に染め上げた。

どうりで風が冷たいわけだった。

天気予報も確認せずに外出したことを少しばかり悔やむ。

雨宿りをするために、近くの喫茶店に駆け込んだ。

古めかしく、どこか懐かしくなるようなアンティーク風の内装だ。中に客は一人の男性だけ。よかった。昔から人が多いところはどうにも苦手なのだ。

「いらっしゃいませ」

 店主が私の席までやってきて、お冷と温かいおしぼりを出してくれる。少し濡れてしまったから、温かいおしぼりがよりありがたく感じられる。

 小さな店だ。ぱっと見た感じ十三席しかない。こういった狭い空間は落ち着く。

本当はやや大きめのチェーンの喫茶店を目指して外出したのだけれど、別に仕事が出来ればどこでもよい。気分転換にさえなればなんでもよかったのだ。

 この店に入ったのもなにかの縁だと思うことにして、私はアイスコーヒーを注文する。

 アイスコーヒーが運ばれてくるのを待っていると、こちらに背を向けていたはずのもう一人の客がこちらを見ていることに気が付いた。じっと見てきている。何だと言うのか。

 あまり話しかけたくはないし関わりたくもないが、不愉快なので一言訊ねる。

「なんですか」

 知らない人ゆえに、冷たくなりすぎない程度にそっけなく問うた。すると彼は「そのままだと風邪をひくのでは」といかにも常識人的な問いかけをしてきた。

「確かに」

「濡れたままではよくない」

「そうですね。ただ、拭く物を持っていないので仕方がないんです」

「それなら」

 彼は何やら自分の鞄を漁り始めて、席を立ち私の方へ歩み寄って来る。

 立ち上がってみると、なんだか線の細いしなやかな体つきの男性だということがよくわかった。涼やかな目元の面立ちも相まって、なんだか、どこか女性的な印象を受ける。

 あまりじろじろと見るのもおかしな話なので、すぐに目をそらすも、彼は何かを鞄から取り出してこちらに手渡してくる。

「これを使うといい」

 彼が差し出したのは、一枚のガーゼハンカチだった。

「こんなこともあろうかと、用意しておいたのさ」

「雨に濡れた人がこの喫茶店に雨宿りに入って来ることを想定していたと?」

「ああ、そうだ。だからこれは清潔なハンカチだし、俺がお手洗いで手を洗った後に使う分はもう一枚別に用意してある。気にせず使うといい」

 そこまで言われたら受け取るしか選択肢はなかった。

あまり他人の物は触りたくないのだけれど、ここまで言われたらなかなか断るのも難しい。使ったふりをして返そうか、とも思ったけれど、それも無理そうだ。

彼が私の向かいの席に腰を掛けたからだ。

「マスター、もしよければこちらの女性の席に移動してもいいか」

「マスターに訊く前に私に訊いてくださいよ」

「それもそうだ。いいか?」

「まあ……悪くはないです」

「では、移動するとしよう」

 この人は一体何なのだろう。不思議だ。

もう他人の物だとかそういうのもどうでもよくなって、濡れた顔と前髪を渡されたハンカチで拭くことにした。柔軟剤のいい香りがしたから、さっきこの男が言ったことは嘘ではないのだろう。清潔なハンカチの香りがする。

 不思議と嫌な気持ちにはならなかった。彼が怒涛の勢いで行動してくるから、思考も追いつかなければ不快感を感じる暇もない、ということなのかもしれない。

 コーヒーとお冷とおしぼり、そして己の鞄を移動させたのち、彼はマスターに布巾を貰って自分の座っていた席のテーブルを拭いてからこちらの席に移動してきた。

マスターが何も言わないところを見ると、もしかしたらここの常連客なのかもしれない。

「それはそうと、君はどうして傘も持たずに外を歩いていたんだ」

「いえ、その。まあ、一言で言うと天気予報を見ていなかったからですね」

「外出には計画があったのだろう」

「計画というか……仕事が行き詰まったので、気分転換に外で仕事をしようかと思っていただけです。目的地は他にありました。でも、まあ、ここのお店の雰囲気がなんとなく好きなので、結果的には雨が降ってくれてよかったです」

 彼が問いかけて、私が答える。そんな会話だけ。

 これ、彼は楽しいのだろうか。

 私は元々ついしゃべりすぎてしまう傾向にある。だから、あまり自分からしゃべらないようにして、基本的には会話というものを避けて生きてきたけれど、こうも質問攻めされてしまうとしゃべらざるを得ない。対処のしようがない。

気を付けているけれど、やはり余計なことまでしゃべってしまう。

「君、本当はおしゃべりが好きなんだろう」

「……好きじゃないです」

「よくしゃべるじゃないか」

「そうですね。でも意図してそうしているわけではないし、そうしたいわけでもない。しゃべっていても楽しくない」

「俺とのこの会話も?」

「ええそうです。どうせ他者には解らないし他者のことなんて解らない。つまらない。それなのにしゃべることは生きていく上では必要なことで、気が狂いそう。こんなに気を遣うこともそう無い。しゃべりたくないんです。出来ることなら、一言も」

 私の言葉を受けて彼は顎に手を当て考えた後、ふと笑って言う。

「なにか、嫌な思い出でも?」

 なんなんだ、この人は。

「ええ」

 それから、彼は何も質問してこなくなった。

でも、私の目の前の椅子に座ってゆっくりコーヒーを飲んでいる。

その間私は紺頼の目的であった仕事に取り掛かるも、なぜだかあまり集中できなかった。文字を打っては消し、打っては消し。そうしているうちに、気が付けば一時間も経っていた。

雨が上がり、私たちはそろって会計を済ませて外に出た。

さっきまでは私の心模様を表していたくせに。今は晴れ上がった空が、私を裏切っているように感じた。

 そして私は去り際に、彼に一つだけ問うた。

「どうしてわざわざ席を移動してきたんですか」

 彼は私から質問したことに驚いたようで、少しだけ表情を固めた。

 そして、にこりと笑って答えた。

「新手の軟派かな」

 彼の言葉に、私の中の何かが崩れていく音がした。


     〇


『また明日朝ここに来る』

 昨日出会った彼が言っていた。

また来いということなのだろうけれど、あの人は私のことを暇人だと思っているのだろうか。仕事で外に出たと言ったのに。なにとなく予定を伝えただけ、とは考えにくい。

なぜなら彼は、私に対してナンパを仕掛けてきたつもりだと言うのだから。

今まで生きてきてナンパなんてされたことがないからわからないけれど、世間一般で言うところのナンパ男と彼とではどこか違う気がする。なんというか、彼のやり口やスタンスは一般的ではないように感じるのだ。

不思議で、変で、怪しい人だと思いながらも、私はなぜだか朝から身支度をしていた。

やめておけ、どうせ碌な目に合わないぞ。私の中の危険信号がそう伝えているのに、体は勝手に準備を進めてしまうのだ。

昨日と違ってよく晴れた空の下、私はあの喫茶店に向かって歩いていた。

今日は天気予報もちゃんと確認したし、その上で用心してビニール傘も持った。昨日のようなアクシデントが起こっても、これで大丈夫。

午前八時半、喫茶店の開店時間の三十分後。

気が付けば私は店の中にいて、席についていた。昨日座ったところと同じ。一番日の当たらない、北側にあたる壁際の席だ。

朝に来ると言っていたからこの時間に来たというのに、彼はまだ来ていないようだ。

すると、カラカラと小さく入口ドアの鐘が鳴る。

入口の方に視線を向けると、そこには知らない女性がいた。なんだ、やっぱり来ないのか。なんだか勝手にがっかりしてしまって、私は鞄からパソコンを取り出して、仕事に取り掛かることにした。

「いらっしゃいませ」

 店主が声をかけると、女性が「ああ」と答えたのが耳に入る。やけに低い声だ。それに、女性にしては背も高いような。

そう思い、視線をもう一度女性の方に向けようとしたとき、私の向かい側の椅子に、女性が腰を掛けた。

「え」

 よくよく見てみると、入店してきた女性は、昨日出会ったあの彼だった。

綺麗に薄化粧をして、長い髪はおそらくウィッグかなにかだろう。服装は上品なブラウスにベージュのカーディガン、そして藍色のロングスカート。

正直、私よりもずっと綺麗だ。

そんなことはどうでもいい。でも、なぜ、どうして、彼は女性の格好をしているのだろう。

「驚いたか?」

 声音は昨日と同じ男性のそれのまま。

「まあ……」

 私が答えると、彼は「無理もない」と笑った。

 じろじろと見るのもおかしな話なので、私はとりあえずパソコンの画面に目線を戻すことにした。集中して仕事しよう。

なんだか変に気まずく感じて、私が何も言えずにいると、彼が突然「ありがとう」と言った。

 何に対しての『ありがとう』なのだろう。そう思って視線を上げると、彼はにこりと笑っていた。

「この軟派野郎の意思を汲み取って、今日ここに来てくれたんだろう。ありがとう」

「今日ここに来たのは、なんとなくです」

「そうか。それでも、ありがとう。これで大っぴらに口説けるというものだ。今日の予定を伝えた上で君がここにいるのだから、これはもう俺と君のデートと言っても過言ではないからな」

 過言だ。過言にも程がある。

私が呆れて物も言えずにいると、彼はにこにこと笑って店主にアイスコーヒーを二つ注文した。

「なぜ二つ?」

「俺を待っていたから、まだ注文していなかったんだろう? 俺の分と君の分で二つだ」

「それにしたって、何を飲むかくらい訊いてくださいよ」

「君は決まったものを頼むタイプだと思ったんだが、違ったかい。昨日、注文のときにメニューも見ずにアイスコーヒーを頼んでいたから、そうなのだと思っていたが」

「違いませんけども」

 洞察力の鬼なのだろうか、この人は。

 彼がテーブルの下で長い足を組み替える。私は自分を言い当てられたことがなんだか落ち着かず、右足で軽く貧乏ゆすりをする。

そうしているうちに、アイスコーヒーが二つ運ばれてくる。

日当たりの悪いこの席では、アイスコーヒーの氷が溶けるのが遅くていい。それ目当てで、私は喫茶店などでは一番日当たりの悪い席を選ぶのだ。

濃いものは濃く、薄いものは薄く。飲食物に限らず、白黒はっきりしていてほしい性格なのだ。薄いアイスコーヒーなんて飲みたくない。

そのはっきりしたい性格の私の前に突如現れたこの彼であり彼女である人は、一体何を考えてこんな格好をしているのだろう。

女は女らしく、男は男らしく。白はどこまで行っても白で、黒だって、どこまで行っても黒だというのに。

この人は、そうは考えないタイプなのだろう。

言ってしまえば、私とは真逆に当たる人間。

「随分、訝し気な顔をしているな」

「当たり前です」

「君にとっての当たり前、だな。どうだ。俺のこの格好を見て、どう感じた」

「純粋に、どうして男性なのに女性の格好をしているんだろうと思いました。女性は女性らしく、男性は男性らしくあるべきだと考えているので」

 それを聞いて、彼はにこりと笑った。

「やはりか。いや、君は、やはり神経質で真面目だな。そんな気がして、今日この格好をしていったらどう反応するかなと思ってな。こちらは純粋に好奇心でやってみた。いや、まあ、こういう格好をするのは元々好きなんだがな」

 こういう格好をするのが好きとは、つまり、女装が趣味ということか。私にとっては信じられないことだ。理解が出来ない。

「解らないという顔をしているな。無理もない。俺が君なら驚いて口もふさがらないだろう。君は口を一文字に結んでいるから、利口で冷静だと思うぞ」

「誉め言葉ですか。ありがとうございます」

「なに、思ったことを言ったまでだ。初めて見たときから君は随分と利発そうに見えたが、全くもってその通りらしい」

「ご冗談を」

「冗談なんかじゃないさ」

 彼はそうしてアイスコーヒーに口をつける。その所作にどこか『斜陽』のお母様のような印象を受けた。

 それにしても、よく口の回る人だ。昨日、彼は私に『しゃべるのが好きだろう』ということを言ってきたけれど、彼のほうがよほどおしゃべりの会話好きに見える。

 仕事をしている私に彼が時々質問を投げかけてきて、私はそれに答える。

「趣味は?」

「読書です」

「俺と同じだな。どうりでおしゃべりなわけだ」

「おしゃべりなんかじゃないです」

「俺から見たら十分おしゃべりさ。それで、何の仕事をしているんだ?」

「小説に関わる仕事です」

「そうか、俺もだ。偶然だなあ」

「そんな偶然ありますか。いや、出版業界というだけならあり得ますが。嘘でしょう」

「嘘じゃないさ。好きな作家はいるか?」

「太宰治。あと榮田修二(さかえだしゅうじ)。榮田は太宰への強いリスペクトを感じますね。シュウジなんて名乗るくらいですから」

「そうだな」

「もういいですか」

「いいや、よくない。君を知りたいと思っている。それじゃあ、そうだな。好きな食べ物は?」

「なんでも美味しいと感じますが、特に好きなのは動物の内臓です」

「それだけ聞くと悪趣味に思えるが、その趣味はいいと思う。俺もモツは好きだ。レバーにハツ、焼き鳥なんかは最高の酒の肴だ」

「お酒が好きなんですか」

 そこで私ははっとした。

 なぜ私が質問してしまっているのだ、と。

 彼は昨日出会ったときから今までの間で見たことがないくらいにっこりと、それはそれはわかりやすく笑って見せた。

「ああ、酒は好きだ」

「……そうですか」

「君も好きなんだろう。物書きはよく飲むというのが、俺の経験に基づいた偏見だ」

「あなたはそうなんでしょうけれど、私は別に物書きだなんて一言も言っていないんですが」

「なんだ、違うのか?」

「……違いませんけど」

 私が目をそらして答えると、彼は満足そうにして腕を組み椅子の背もたれに寄り掛かった。

 いつの間にか自分から会話をしに行っていたこと、それに気が付かなかったこと、まんまと彼にしてやられたこと、初めから彼の掌の上で踊らされていたこと、それが恥ずかしく悔やまれること、でもどこかで喜びを感じていること。

様々な思いが入り混じって気を紛らわせたくなり、私は残り三口程度になっていたアイスコーヒーを飲み干した。カラン、と溶け切らなかった氷が軽い音を立てる。

 コーヒーの冷たさが、私の頭を少し冷静にさせてくれた。

 未だ満足そうに笑っている彼に、私は問う。

「あなたの筆名を教えてください」

 そうすると彼は「本名じゃないのか」などと言って笑うが、呼び名に困るし、なんとなく気になったのだ。

本当に彼が物書きだと言うならば、筆名があるはずだ。

この先彼と関わっていくのだとしたら、本名を訊く機会はいくらでもある。でも、筆名をわざわざ訊く機会はそうそうないだろうと思った。だから、先に筆名を訊いた。

「いいじゃないですか、筆名でも本名でも、変わりない」

「それもそうだな」

「あなたのことが少しだけ知りたくなりました」

 私の言葉に、彼は満足そうに笑った。

 そして彼の唇がゆっくりと動く。

「榮田修二」


     〇


 驚愕とはこういうときに使うべき言葉なのだろう。

「……また嘘でしょう」

 職業の話をしたから、好きな作家の話をしたから。だから私をからかって、反応を見て楽しんでいるのだろう。

「嘘じゃあないんだがなあ……というか、俺は君に一度も嘘なんか吐いていない」

 わかっている。この人が私を知りたがっていることも、この人が誠実であることも頭ではわかっているのだ。

しかし、あまりにも出来すぎた話は疑いたくなるのも当然だろう。

「私は騙されません」

「君のことは騙さない」

「どうして」

「俺は君に一目惚れをして、軟派までした身だからな。出来る限り誠実でありたい。いや、誠実でなければならないだろう。人間は、信用できない人間を好くことなど、出来やしないのだから」

 信用出来ない人間を好くことは出来ない。それ自体は、的を射ている意見だけれど。

「じゃあ仮にあなたを榮田さんと呼ぶことにします。それで、あなたが榮田修二だという証拠はどこにあるんですか」

「著書の裏話でもしようか」

「そんなの読み込んでいれば、別の作家であっても、いえ、ファンであっても適当なこと言えますよ」

「それじゃあ、仕事部屋を見せようか」

「榮田修二の仕事部屋なんて見たことがないから判断が出来ません」

「ううん。そもそも、君に惚れて誠実を心掛けている人間が、君のリスペクトしている作家を語るなどという不誠実を犯すとは考えられないと思うんだがなあ……」

 彼は鞄を漁りながら、屁理屈をこねる。

「ああ、あった、あった。紙とペンは持ち歩いておくものだね」

 そして取り出した手帳の一ページに、ボールペンでさらさらと何かを書いていく。慣れた手つきで書き上げたそれを、私の眼前に晒す。

『榮田修二』

 それは、間違いなく『彼』のサインだった。

彼のサイン入りの本を持っているから、わかる。今まで唯一行われたサイン会には行けなかったが、知人に頼んでサインを貰いに行ってもらったので、会わずにサイン入りの本を手に入れたのだ。

 普段は顔を出さない作家なので、まるでわからなかった。そもそも著者の顔になんて興味がないから、素人も思わずインターネット検索などもしたことがなかったから、なにも、彼の容姿を知らなかった。

 だって私は、彼の世界や価値観に惹かれているだけの話なのだから。

「信じてもらえたか?」

 私が小さくうなずくと、彼、もとい榮田はにこりと笑みを浮かべた。

「疑ってすみませんでした。さすがに、偶然出てきた作家のサインの模倣をするなんて変態的な芸を出来る人間はいないでしょうから、信じます」

「わからないぞ。俺が変態的な芸をした可能性もある」

「信じさせたいのか疑わせたいのかどっちですか」

「冗談さ」

 なんとも掴みどころのない人だ。

 そこではっとする。

「というか、今更なんですけど、一つ訊いてもいいですか」

「なんだ」

「なんで女装しているんですか」

 彼はその質問に、可もなく不可もなくと言ったような軽い表情のまま答える。

「綺麗な自分が好きだからだ」

「と言うと」

「綺麗に着飾っているのが好きだから、女性の格好もする。男性の格好でも綺麗な服を着ていたい。しかし、女性の服の方が男性の服よりも純粋に綺麗なデザインのものが豊富だろう。女性的なものイコール美しいとする価値観もこの世にはあるくらいだ。綺麗な自分でいたいから、女性も男性も関係なく着飾っているというだけの話さ」

 ただ着飾りたいというのとは違うのだろう。

彼はきっと、綺麗に着飾って武装した気にでもなっているのだ。化粧までして、綺麗な自分を作り上げて、自分の中の嫌な部分なんかを隠したがっている。

自分というものを他人に見せたくないのだと、そう感じた。

でも、私には『着飾りたい自分』という本性を見せた。武装をしながらも、本当の自分というものをすべて知らせる勢いで、私に『榮田修二』を知らしめた。

それはなぜか。

私に惚れたから。きっと彼はそう言うのだろう。

そうすると、根っこの疑問が浮かんでくる。

「あなた、私のどこに惚れたんですか?」

 私の問いに、榮田は一言で答える。

「知性」

 どきりとした。

 少しおしゃべりだけれど、言葉の端々から見える知性溢れる彼に、そんなことを言われては、少しは胸も高鳴るというものだ。

「一目惚れに知性なんて理由が使えるものですか」

「わかるのさ。性格は顔に出ると言うだろう。あれはその通りだと思っていてな、君の顔をふと一目見たときに、気が付いてしまったのさ。君の知性にね。その気づきは話してすぐに確信に変わったよ。君は知的な人なのだとね」

 この人の言葉の一つ一つが、私を救済に導いてくれているのを感じる。

 今まで誰にも理解を示されなかった私を理解しようと歩み寄ってくれているというだけで、私の心は救われるのだ。

 今までの人生で感じ得なかった感覚。

そして彼は思考する私にこう言い切った。

「きっと、君は俺を好きになる。俺の知性を、好きになる」

「……そんな」

「君と俺は解り合える」

「他人と解り合うなんて、無理です」

 その言葉を彼は笑みで一蹴する。

「いや、解り合えるさ。君と俺ならな。きっと、数日後にでも俺たちの関係性は大きく変わっているはずだ。なんなら、今から変わるかもしれない」

「今から? 何がどうして変わるって言うんです」

 私の投げやりな問いに、彼は足を組み替えて答えた。

「決まっているじゃないか。それは俺が、これから君に求婚するからだ」


     〇


 何を言っているのか理解が出来なかった。

 他人を理解出来ないことについては今更なのだけれど、そういうことではなく。言葉の意味は理解出来ても、なぜそんなことを今このタイミングで言うのかが解らなかった。

「求婚」

「ああそうだ。求婚。俺は君と結婚したい」

 昨日出会ったばかりの人に、求婚される意味が解らない。

なぜ人生において最大のイベントとも言えるほどの、結婚というものをそうすぐに決められるのか。

榮田は私と榮田が理解し合えると言ったけれど、私には、榮田の思考回路が全く理解出来る気がしなかった。

ああ、どうしてこうなっている。

昨日偶然出会った人に一目惚れをされて、その人は私の知性に惚れたとか言っていて、それは面立ちからの判断だけれど理想通りだったらしくて、それで、その人は強い思想の下で女装したまま、私に求婚してきたのだ。

情報過多で頭がパンクしそう。

「考えておいてくれよ。俺との結婚について。また明日朝、この喫茶店で会おう」

 そう言って、榮田は鞄を持つと席を立ち、私の分の会計まで済ませて店を去っていった。

 店主は何も言葉を発することなく、無表情でグラスを磨いている。おそらく常連である彼の奇行や突飛な発想から来る発言には慣れているのかもしれない。

「結婚……」

 この先の人生を彼と一緒に過ごしたところで、解り合える保障なんてどこにも無い。けれど、どうしてか一緒にいてもいいかな、という気になっている自分がいる。

 彼が榮田修二だということを知ったからではない。

 彼が、あまりにも巧みに私を操ってきたからだ。

 他人を操るにはまずその人を理解していなければいけないというのが私の持論だ。だから私は、他人の言動を受け流すことは出来ても、他人を操ることは出来た試しがない。他人のことが理解出来ないから。

 しかし彼は私を操った。

会話の終着点は、彼の思うつぼだった。

それはつまり、少なくとも彼は私を理解しているということで。

 この先、私の少しの努力で彼を理解出来たなら?

私と榮田の間に相互理解が生まれることになるじゃないか。

 理解者を得られるだけでも、人生は大きく変化する。それは間違いない事実だ。

「なしではない、な」

 彼が会計を済ませてくれていたから、私はそのまま鞄を持って店の外に出た。とっくにアイスコーヒーは飲み干していたために、長居するのも申し訳がないと思ったからだ。

思考するだけなら、歩きながらでも帰宅してからでも出来る。

 晴れ空の下、帰路につく。私の心も晴れやかだった。心と空は繋がりでもしているのだろうか。

 わからない。

 けれども、彼の『求婚』が私にとっての良い兆しであることを、この青空が語っていることは間違いないだろう。


     〇


長い長い、終わりの見えない道を歩いている気分だったのに。

どんよりと曇った空の下を歩いている気分だったのに。

人生という長い道のりを歩む中で、足取りが軽くなり始めた気がした。

私は、これから最大の理解者を得るだろう。そして、諦めていた『他者の理解』に対する努力をしていくに違いない。

惚れたのかどうかは知らない。

ただ、彼の――

榮田修二の知性は、愛していると言える。

私は、どうかしているのだろう。




     2




 連日、榮田修二と会っている私は、どうかしているのだろうか。

「ところで、君の筆名はなんと言うんだ」

 この人、名前も知らない上に、自分の本名を知らないような相手に求婚したのか。改めてそれを実感して、なんだか呆れてしまった。

ため息を隠すためにアイスコーヒーに口をつける。

 今日も晴れやかな空模様だ。

それでも、私たちが座る席は一番日の当たらない北側に位置する壁際の席。アイスコーヒーの氷が溶けるのが嫌だから。

「私の筆名なんて聞いたってわからないですよ。きっと。売れない無名作家ですから」

「新人賞をとったから、デビュー出来たんだろう。大丈夫。記憶力はいい方でね。様々な新人賞の受賞者の名前や、彼らの公開された作品には目を通しているから、わかるはずだ。それに、俺は結構な本の虫でね。こうしているときや仕事をしているとき、睡眠をとっているとき以外は読書をしてばかりいる。風呂でも読みたいし、なんなら寝ながら読めたらいいのにと何度願ったことか。だから、きっと君の本も読んでいるはずだ」

 つらつらと理由らしい理由を並べ立てて彼は私にそう説いてくる。

このまま答えないわけにもいかないのだろうし、どうせ丸め込まれて言う羽目になるだろう。

「上川(かみかわ)冨江(とみえ)」

「ははは、随分な名前だなあ」

「絶対笑うと思ったので言いたくなかったんです」

「君の著書を読んだことがあるよ。デビュー作の『蜃気楼のパトロン』だったかな」

「そうですね。読んでいたなんて驚きました」

「驚いたような顔には見えないがなあ。そうか、そうか。俺がシュウジで、君がトミエか。なんだ。玉川で二人、入水でもするか?」

「冗談はよしてくださいよ。死ぬには早いです。せっかく求婚を受け入れようと思って心構えてきたって言うのに、顔を突き合わせて早々、心中の誘いだなんて」

 流れるように伝えることが出来たたつもりだった。

しかし彼は聞き逃さない。聞き逃すわけがなかった。特に、自分にとって都合のいい話に関しては、絶対に聞き逃さないのが榮田修二という男だった。

「そうか、そうか。求婚を受け入れるか」

 彼はにんまりと笑って、満足そうにうなずいた。

「まあ、その……受け入れるというか……いえ、受け入れるんですけど、でも、まずはお付き合いするのが普通なのでしょう」

「それもそうだ」

「と、言いたいところなんですが」

「なんだ」

「私は何でも白黒はっきりさせたい性格なんです。右か左か、百かゼロか」

「と言うと?」

「結婚するかしないかという話になってくるんです」

「ほう。白黒はっきりさせたい君が俺の求婚を受け入れた。つまり、今すぐ結婚しろということでいいのかな」

「そういうことになりますね。結婚を決めたなら今でいい」

「ははは、いいなあ。出会って三日で結婚か。面白いぞ。交際期間を経ずに結婚した芸能人なんかもいたが……これ程までのスピード結婚をする人は、そういないだろう」

「そうですね。でも、焚きつけたのは榮田さんですよ。あまりにも真剣に、解り合えるだなんて言うから、私はその気になってしまったんです」

「ああ、俺の責任だ。それじゃあ、役所に行こうか。いやあ、笑った、笑った。引っ越しだの挙式だの、そういった必要なことは後々やればいい。まずは書類上の『結婚』で互いを縛り合っておこうじゃないか」

 彼はそう言って手つかずだったアイスコーヒーを飲み干して、席を立った。私もそれにつられて席を立つ。そして店を出る。

役所に向かう道中の並木道で、私はとあることに気が付いた。

「ところで榮田さん。私たち、本名をまだ教え合っていませんけれど、婚姻届に名前を書く時点で知ってしまうのでは。それよりは、先に名乗っておいた方が、なんだか健全な気がします。いえ、まあ私が筆名を訊いたのでこんなことになっているのですけれど」

 私の提案に、彼は「確かに」とうなずいてその場で歩を止めた。

 突然の風に、ざああと音を立てて葉桜になった木々が揺れる。

まるで少女漫画の告白のワンシーンのように思えて、一瞬、時が止まったように感じられた。

 彼の唇がゆっくりと動く。

「俺の名前は、榮田夕(ゆう)規(き)。夕方のユウに、規律のキと書いて夕規だ」

「私は、春(はる)。上川春。春夏秋冬のハルです」

 彼の名乗りに、私も答える。

「いい名だな」

 そう言って彼は微笑んで、葉桜の並木道を再び歩み始めた。

 私もその横を歩く。

 この先の人生、彼と並んで歩むことが今決まろうとしている。


     〇


 婚姻届を書く作業はいとも簡単に終わった。

郵便の受け取り拒否をするときの方が面倒くさいと思えるくらい、それは、名前を書くだけに等しいほどの、実にシンプルな作業だった。

 自分が誰かと結婚するなんて天地がひっくり返りでもしないとあり得ないと思っていたけれど、こういうルートもあるのだなと、私は己に変な関心をしていた。

人間はしばしば希望にあざむかれるけれど、しかし、また絶望という概念にもあざむかれることがある。太宰治の言葉だ。

私は絶望にあざむかれてみたいと思った。そういう希望を持ってみてもいいかな、と思ったのだ。

 それにしたって、踏み切ったのは自分自身だけれど、なんというか、変な感じだ。

他人を恋愛の面で好きになったことがないどころか、嫌悪の対象ばかりだった自分が、まさか他人と結婚することを決めるとは。

 そもそも、私は彼のことが好きなのだろうか。

 一人の人間としての彼……彼の知性は愛しているけれど、それでも、これが一般的な愛情かと問われたら、そうだとは答えられないかもしれない。

 それでもいいのだろうか。

 己の感情に疑心を抱いたところで、もう結婚してしまったのだから、どうしようもないけれど。

 まあ、いい。

 私は彼のことが好きなのだろう。そう思っておこう。

きっとこれが私が抱ける愛というもので、どこをどう愛していようと、広義で言うところの愛には変わりないのだから、これでいい。

 恋愛はチャンスではなく、意志だという。

 だから、私は私の意志でこの恋愛を始めようと思う。


     〇


「それにしても、君は忙しない人だな」

 一緒に暮らし始めて三日目の朝。朝食を済ませた彼がホットコーヒーを飲みながら、私に言い放った。

「どこらへんが忙しないと感じますか」

「まず起床が早すぎる。せっかく自由な職業に就いているのに、四時半に起きる奴があるか。まるで年寄りの生活だ」

「目が覚めてしまうので。いいじゃないですか、榮田さんのことは起こさずに過ごしているんですから。それに、早朝に起きて活動すると一日のスイッチが入るような気がするんです。これは昔からのことで、最早私の中のルールなんです」

 私の答えに「そうか」と納得した様子の彼。しかし、疑問点は次々降りかかる。

「朝食の支度や洗濯、掃除などの一つ一つの行動が、なんだかせかせかしているように見える。てきぱきしているとも言えるが、君のそれは落ち着きがないとも形容出来るくらいのレベルだ」

「そんなにですか」

「そんなにだ」

「あれをして、これをして……と、マルチタスクを心掛けているのもよくわかる。しかし、もっとゆっくりやったって罰は当たらないんじゃあないのか。それこそ、君は特段早起きなのだから時間に余裕があるだろう」

「それはそうですけれど、早朝に動き出して榮田さんを起こしたくないので、後々にすべてのことを回すと、ばたついてしまうんです。元々マルチタスクが出来ないタイプなので、まだ慣れていないんです」

 そう答えると、彼はなぜだか満足そうな顔をした。

「なんです」

 私が問うと、彼は少しだけ得意げに「俺のことを思ってのことなんだな」と言った。

 まさか、ここまですべて彼に誘導されていたのだろうか。すべて理由を知った上で、私に『榮田さんのため』というニュアンスの言葉を吐かせるためだけに、この会話に持ち込んだのだろうか。

「いやあ、そうか、そうか。全部俺のためを思ってのことだったのか」

「……そうですね。とりあえず、その顔やめてください」

「すまない。だが、にやけてしまうのも仕方がないだろう? だって、惚れた女に思われているということを本人の口から聞けたのだから」

 やはり私はこの人の掌の上で踊らされていたのだ。会話の先を読むのが上手いとか、そういう次元の話じゃない。

確実に理想の着地点に会話を持っていくために、初めから頭の中で計画を練っているというのが正しい表現だと思う。それも計画を練るのは一瞬なのだから質が悪い。上手い具合に操られてしまう。

この三日間、同じ釜の飯を食べる生活をしてみて解ったことがある。

彼は理解と共感の化け物だ。

共に過ごせば過ごすほど、彼は私を理解し、共感し、そして操って楽しんでいる。こんな風に言ったら彼が悪人のようにも感じられるが、別にそういう意味ではない。

「それじゃあ私からも一つ言いたいことがあるんですけれど」

「なんだ」

「煙草やめてください。もしくは煙の来ないところで吸ってください」

 彼は煙草を吸う。

一仕事終えたときとか、食事のあととか、ことあるごとに煙草を吸っている。喫煙者は食後に吸いたくなるんだとか言うけれど、私みたいな嫌煙家にとっては、せっかくおいしくご飯を食べた後に臭い思いをするのは嫌だし、信じられない。

 そういう人がいてもいいとは思っているけれど、夫婦になったのなら、これくらいの要望を伝える権利くらいはあるはずだ。

「喘息か何かがあるというわけではないし、単純に嫌いなのか。うん、そうだな。わかった。ベランダで吸うようにしよう」

「洗濯物が干されているときはやめてくださいね」

「ううん……換気扇の下ならどうだ」

「そうまでして吸いたいものなんですね。わかりました、譲歩します」

 朝食後の意見交換会のようなものはそうして終わった。上手く二人で生活していくために必要なことだと思う。

 だってもう結婚してしまったのだから。


     〇


 榮田さんと私の仕事部屋は別々だ。

 彼はなぜか一軒家で一人暮らしをしていたので彼の家に私が引っ越す形をとったのだけれど、空き部屋があるからと六畳間を一つ私の仕事部屋としてくれたのだ。

 寝室は同じだけれど、ベッドは別々。並んで寝るわけでもない。性交渉をするわけでもない。

ただ、榮田さんがそれでいいと言うので、私はその言葉に甘えている。

 結婚イコール性交渉が付きものというイメージがあったから、覚悟をしていなかったわけではないけれど、私はそういうことがあまり好きではないのだ。なにかの節目に年数回しておけばいいんじゃないかと思うくらいで。言ってしまえば、義務だから。

 まあ、結婚だ夫婦だと言っても人それぞれ。十人十色。千差万別。

 こういう夫婦がいてもいいんじゃないか、と言ってくれたのは彼の方だった。純粋にありがたかった。

 食後の休憩も家事も一通り終えたので、私は自分の仕事部屋へ向かう。すると、スマートフォンの着信音が廊下に鳴り響いた。

 画面には『担当 佐伯一彦』と映っていた。

「はい、上川です」

 その電話の内容は、私にとっての朗報だった。

「連載決まりましたよ」

 また、本が書ける。

 その喜びに、胸が舞い踊った。

「本当ですか。頑張ります」

 ある程度は好きに書かせてもらえるらしい。私の書いた本が雑誌出版社の編集の目に留まったのだとか。私の書くテイストが気に入ったからぜひとのこと。

 私はまず、書くときは骨組みをうっすら考えた後、すぐにタイトルを決めてしまってから書き始める。次に書きたいものはもう決まっていた。

タイトルは『晴れ空を笑う』。

私の行き場のない思想を物語にしようと考えていたのだ。

仕事部屋に入り椅子に腰かけて、そして彼に仕事が決まった旨のメッセージを送った。仕事中であることを考慮して、直接伝えにはいかなかった。

しかし返事はすぐに返ってきた。メッセージには「おめでとう。今晩お祝いをしよう」と書かれていた。

 メッセージを確認した私は、さっそく執筆に取り掛かることにした。

 作りたてのコーヒーをお供に、机に向かう。気分は晴れ晴れとしていた。

 それからは、ずっと仕事をしていた。お昼ご飯を食べるのも忘れてしまうくらい没頭していた。

そしてふと時計を見ると十七時を回ろうとしていたので、夕飯を作ろうと仕事部屋を出て台所に向かうと、そこにはもう既に人影があった。

「そんな、いいですよ。作りますから」

「お祝いをしようと言っただろう。こう見えても俺は料理が得意でね。好きなんだ。腕に多少の自信がある。任せてもらえないか」

 そう言うのなら、と、その言葉に甘えることにした。私は料理は苦手ではないけれど、好きなわけではないから。ただ、結婚したら女性がやるものだと考えているから、そうしていただけのことであって。

 彼が料理好きなんて、初めて知った。

 まあ、まだ出会って十日足らず。まして同居を始めて三日目なのだから、知らないことの方が多くて当たり前なのだけれど。

「それじゃあ、お願いします」

「任された」

 彼の所作はいちいち優美だ。料理をする姿もしなやかで品があった。こうして伴侶の新しい姿を知ることが出来るのはいいことだ。

 小一時間もすれば、ダイニングテーブルには豪華な料理が並んでいた。ローストチキンにポテトサラダ、パプリカのピクルスにマッシュルームポタージュ、チーズの盛り合わせに、そしてデザートはブリュレ。どれも盛り方まで美しい。

 今、彼はワイングラスの準備をしている。

「赤と白、どちらがいい? それともピンク色の方がいいかな」

「赤がいいです」

「わかった、そうしよう」

 食卓について、私は彼に礼を言う。

「ありがとうございます。わざわざこんなにしてもらって」

「なんてことはない。お祝いをしようと言ったのは俺の方だし、祝うのは当然のことだ」

「私が作るよりも余程綺麗で美味しそうですね」

「君の料理は家庭料理らしさが味なんだ」

「榮田さんの料理は、いわば魅せる料理といったところでしょうか。作っている姿を見ていると、まるでショーでも眺めているような気分になりましたよ」

「照れくさいな。しかし、料理は芸術にもなり得ると思っているから、そう言ってもらえると嬉しいな。さあ、座って」

 彼にエスコートされて椅子に腰をかける。自宅にいるのにまるでレストランにでも来たかのようなもてなし方をされている。

 赤色で満たされたワイングラスを持ち、二人で乾杯をする。

「今日は、言いたいことも言い合えましたね」

「そうだな。ああいうのは必要なことだ」

 打ち解け合えたというか……なんと表現するのが正しいのかわからないけれど、とにかく、なんだか少しだけ、私と彼の距離が縮まったような気がした。

 こうして少しずつ距離を縮めていけるなら、なんとかうまくやっていけそうな気がする。

 最初はどうなるかとどきどきもしていた。勢いで結婚してしまったのだから。

でも、後悔はない。

「君は食べる姿も知的だな」

「どういう意味ですか」

「なに、抱いた印象を口にしたまでだ。品があると言えば伝わりやすいかな」

「それは、榮田さんもですよ。料理をする姿に品がありました。食べる姿も同じです」

 最後の一口。ワインを飲み干して、私の言葉に彼は笑った。

「それじゃあ、俺たちは似た者同士だな」

 そうかもしれない。それならいいな、と思った。

 そうだとしたら、自分を解するように相手を理解出来る可能性があるから。

「そうですね」

 私も最後の一口を飲み干して、彼に微笑みかけた。すると彼は、ワインを注ぎながら少し驚いたような顔をした。

「君の微笑みを初めて見たかもしれない」

「そうでしたっけ」

「あまり笑わないよなあ、君ってやつは。いや、俺の見ていないところで笑っているのかな」

「そんなこともありません。そうですね、あまり、笑っていないかもしれません。でも、嬉しいときや楽しいときは人並みに笑っているつもりです」

「今の微笑みは……嬉しさか」

「ご名答です」

「そうか、そうか。じゃあ、君が楽しく、そして嬉しくなれるよう、俺もこれから尽力していこう」

 そして、彼も私に微笑んだ。

 これから先が少しだけ楽しみに感じられた。

 また、笑みがこぼれそうだった。


     〇


 ドンドン、ドンドン、と、大きな音がした。

寝る前の支度を整えて、寝室に向かおうとしているところだった。

 その音は玄関の方から鳴っているようだった。

私は恐る恐る玄関ドアの前に立つ。それは拳でノックされている音だった。いや、ノックなんてかわいいものじゃない。これは破るほどの勢いでドアを叩いている音だ。

私がドアの前に立つと、ドアをたたく音は、より一層激しくなる。

 こんな夜の時間にそんなことがあるわけがない。でも、あるわけがないからこそ、急にこの現実が恐ろしく感じられて、私は居間にいる榮田さんを呼びに踵を返した。

 居間のドアを開けると、榮田さんはソファで優雅にコーヒーを飲んでいた。

「ん、どうした。寝室に行ったのではなかったのか」

「いえ、あの……なんだか、寝室に向かう途中、玄関からドアを叩く音がしたんです。それで、近づいてみたらどんどん勢いを増して音が大きくなったんです。不審者か何かかもしれないと思うと、怖くて……」

 そう伝えると、彼はコーヒーをテーブルに置いて立ち上がった。

「外を確かめてみよう。もしかしたら、困っている人かもしれないぞ」

「いや、それならこんな一軒家に来ないでしょう。警察にでも行きますよ」

「帰宅する道中で、トイレに行きたくて仕方がなくなったのかもしれない」

「そんな馬鹿な……見に行くのはやめましょう。何かあったら怖い」

 行かないよう言っても彼は止まらなかった。確かめれられれば私の不安は取り除かれるだろうと、ただそれだけを考えているのだろうけれど、あの音を聴いた私にとって、ドアを開けることは恐怖でしかない。

 もし、本当に不審者がいて、それで彼が殴られ足り殺されたりでもしたらどうしたらいい?

そう思うと、さらに不安で不安で仕方がなかった。

未だドアを叩く音は聴こえる。

「ねえ、榮田さん」

「大丈夫」

 優しい声でそう言うと、彼は私の頭を撫でてから玄関のカギに手をかける。二重ロックを外して、ゆっくりとドアノブをひねる。

そして彼が勢いよくドアを開けた瞬間。

その音は、止んだ。

ドアの外を榮田さんが覗き込む。

「……誰もいないな」

 しん、と、夜の闇の静けさが聴こえるだけだ。

「隠れているのかもしれないです。早く、早く閉めて。お願いですから」

「そう焦るな。閉めた。閉めたよ」

「……なんだったんでしょうね」

「気のせいだったのかもしれないな」

 気のせい――彼はそう言うも、決してそうは思えなかった。でも、気にしたところで仕方がない。

彼に「おやすみなさい」を告げて寝室に向かい、私は不安の中眠りについた。


     〇


 翌朝。

 彼を起こさないようそっと寝室のドアを開閉して、居間のカーテンを開けると、空は晴れ晴れとしていた。

 なんだか昨夜の不安が吹き飛ばされるような気がした。

 最近は雨の日がめっきり減った。少し前までは雨の日が続いていたのに。でも、もうすぐして梅雨の時期にもなれば、また雨の日が増えるだろう。

 晴れの日よりも、雨の日の方が好きだ。屋根や傘に当たる規則的な雨音に癒しを得られるから。

 榮田さんはどちらが好きなのだろう。煌々と射し込む強い朝日に目を細めながら、私は彼のことを考えた。

 こうして特定の相手のことだけを考えていると、まるで恋愛に浸っているみたいで少し気持ちが楽だった。未だに、彼そのものを愛していると考えられていなくて、負い目があるのだ。自分を愛してくれる人の愛に素直に応えられない負い目が。

 いつか私も太宰と富栄のように、恋愛に溺れてみたい。

 愛して、愛して、溺れて、愛して。

そして二人で愛に死んでいくのが美しいと思うから。

 そんなことを考えながら私はコーヒーを淹れて休んでから、朝食の準備に取り掛かる。一人で暮らしていた時よりも、朝の時間がゆっくり流れている気がする。

 決まったものを食べるのが楽なので毎朝同じメニューを作るけれど、それでも彼は文句の一つも言わない。

昨日の問いかけは文句ではないので、それを抜かせば、そのほかの私の習慣に口を出してこないのでとても気が楽だ。

 朝食が出来るころには六時を回る。

そうすると彼が起きてきて「いい匂いだな」と微笑んでくれるのだ。

 しかし、今日はまだ起きてこない。寝坊かな。寝起きがいい方ではないと自分で言っていたことを思い出したので起こしに行くことにする。

 すると――

 ドンドン、ドンドン。

 寝室に向かおうと居間を出ると、また、玄関ドアを激しく叩く音がした。私はしばらくその場に立ち尽くす。

 ドンドン、ドンドン、ドンドン。

 なんとも形容出来ない不安に襲われる。階段を駆け上がり、突き当りにある寝室のドアノブに手を伸ばすと、急にドアが開いた。

「さ、榮田さん……」

 ほっとして足の力が抜けたところを、彼が支えてくれる。

「どうしたんだ。急に階段を走ったりなんかして。驚いたぞ」

「また、また不審者が来たんです。ドアを、叩く音が」

「ほう」

 それを聞いた彼は階段をゆっくり下りて、玄関のドアを開けて見せる。その瞬間、ドアを叩く音が止んだ。

「誰もいないぞ」

「そんな……でも、おかしいですよ。だって、今の今まであんなに激しくドアを叩いていたのに、どうやって姿を消したって言うんですか」

 すると、榮田さんは不思議そうな顔をした。

「今の今まで?」

「え?」

「俺には、何も聴こえなかったが。今も、昨晩も。君が聴こえたと言うから玄関の外を確かめただけだ」

 もしかして、あの音が聴こえていたのは私だけだと言うのか。

 彼は神妙な顔をして続ける。

「君が聴いたのは、激しい音だったんだよな」

「そうですね」

「それこそ、居間や寝室にいる俺にも聴こえるだろうくらいの音量だったんだよな」

「そうです」

「幻聴かもしれない。環境の変化で疲れがたまっているのかも。心療内科に行ってみよう。少し心配な状態だ」

 心療内科。これまでの人生で、生きづらさを感じているので何度か通ってみたこと自体はあるけれど、医者の言うことは適当であまりあてにならないし、医者とそりが合わなくて通うのをやめたのだ。

 でも、今回は確かに、環境の激しい変化があった後だし、何か参っているのかもしれない。

自己分析と精神統一でどうにかなればそれでいいけれど、彼もこう勧めてくるのだし、行ってみてもいいかもしれない。

「わかりました。行きます」

 でも、心療内科や精神科というものは、行きたいからと言ってすぐに行けるものでもないのが現実だ。電話で確認して、余程重症でなければ数か月先の予約になり、ようやく受診出来るのだ。ほかの診療科よりも、シビア。

 現代日本の自殺率を鑑みれば納得出来る。

 それほどまでに、参っている人が多いのだろう。

 それから榮田さんが私の横で評判のいい病院を調べて電話をしてくれた。状況を病院に伝えて、なんとか二か月先の予約を取ることが出来た。

 それまでの二か月間、私はおそらく幻だろうノックの音に怯えて過ごさなければならない。

 胸がざわざわと不安を覚える。

 私が、私じゃなくなっていく。




     3




 二か月後。

「統合失調症でしょう」

 医者はあまりにも簡単にそう述べた。

 妙に陽の入る白い診察室で、私は統合失調症の診断を下された。

「そう、ですか」

「はい。ドアをノックするという幻聴に、家の外に不審者がいるという妄想、そして強い不安感。恐らくそうでしょうね」

 横には榮田さんもいる。一人で行くよりも二人の方が不安も少なく済むだろうと言ってくれたのだ。

「統合失調症はね、みんなが持ってるバリアを持っていないんですよ。守ってくれる壁が無い。だから、他人には聴こえない音が聴こえたり、見えたりしてしまう。感覚も強くなる。なにか見えたりは、していませんか?」

 医者は身振り手振りをつけて説明する。バリアがない、という例えは解りやすかった。

「いえ、その……」

「正直に」

「はい。最近、窓の外から誰かが覗いていることがあります。二階の部屋なのに」

「だから最近、よくカーテンを閉めていたのか」

 彼の言葉にうなずいて応える。

 医者は「そうですか」と言って、飲む必要のある薬の説明を始めた。

 一通り説明を受けて処方箋を貰い、薬局で薬を受け取って帰路についた。

彼はずっと話している。診断に少し気分が落ち込んでしまった私を励まそうとしているのだろうか、と思ったが、彼は元々おしゃべりなのだったということを思い出す。

「ショックか?」

 彼が私に問うてくる。

「ええ、まあ……病気なんだと思うと、それだけでもショックです。ただ、何も原因がわからず不安に悩まされるよりは、ずっといいです。投薬という対処法もありますし、治る病気じゃないにしても、上手く付き合っていくことは出来るでしょうから」

「そうだな。まず、そこまで落ち込んでいないようで何よりだ。いつも通りの口の回りだ」

「……またしゃべりすぎました」

「なにもしゃべりすぎてなんかいないさ。さて、ここで今ショックを受けている君に一つ朗報がある」

「……なんですか?」

 一息おいて、彼は言う。

「俺が君を一生支えるよ」

 それって、朗報なのかしら。

 でも、その一言で安心できた。医者が言うには、統合失調症は一生治らない病気で、薬で症状を調整しながら上手く付き合っていくしかないとのことで、帰路につく今の今までずっと不安に感じていた。

「ありがとうございます」

 それから私たちは家に帰って、榮田さんが作ってくれた昼食を一緒に食べた。そうして一緒に食事をして、会話をしているときが一番楽しい時間だと感じる。最近、私はよく笑うようになったと自分でも思う。

 彼と一緒に過ごすようになってから、笑えるようになった。

 彼は日に日に私への理解を深めてくれているし、私もまた、彼のことが解るようになってきた。相互理解。これが、私が求めていたものだった。

 理解し合えるというのは、純粋に嬉しいことだ。

 一生支えると言ってくれる彼の思いに、私も応えたいと思った。

 一か月後。

また私は心療内科にやってきていた。

 医者が言うには、統合失調症の発症は恐らく結婚がトリガーになったのだろうとのことだった。この病気は、結婚や出産、そして自立のタイミングなど、人生が大きく変わるときに発症することが多いと言われているらしい。

 症状は一般的に知られる鬱病とも似ている。意欲低下や管理能力の低下などに加えて、幻覚や幻聴、そして妄想なども主たる症状だ。

私はそのうち、幻覚や幻聴などのわかりやすい症状が特に強く、今のところ意欲低下などは強くは感じられないので、仕事にはさほど支障が出ずにいる。

「症状がどんどん強くなってきているんです。特に幻聴が。ノックの音に加えて、最近は『すみません』だとか『もしもし』だとか、私が家にいることを確認するかのような声まで聴こえるようになりました」

「そうですか。お薬を増やしましょう。処方しているエビリファイというお薬がありますよね。あれがあなたのバリアを作ってくれるお薬です。ですから、そのお薬をもう少しだけ増やして様子を見てみましょう」

 様子を見る――

 完治することがない病気だとは言え、様子を見続けなければならないと言うのは辛いし、『様子見』というのは何より精神が参る言葉だ。

「先生、私は本当に治らないのでしょうか」

 私の問いかけに、医者は淡々と答える。

「治りますよ。正確に言えば完治ではなく寛解ですが。癌なんかでもそうでしょう。予後が良ければ治ったという言葉を使う」

「……再発の可能性はあるけれど、ということですね」

「まあそういうことです。まずは目先の症状の改善を目指して、頑張っていきましょう」

 その日の診察はそれで終わった。

 心療内科の診察というのはどうにも適当な気がしてならない。病院嫌いだからそう思えるのかもしれないけれど、それにしたって、短すぎる診察時間だなと思う。

 もう耐えられないと言うのに。

 私の中の私じゃないものが暴れまわっている。

 そんな気がしてならない。


     〇


「どうして解らないんですか!?」

 最近、なんだか榮田さんは、私の思考を理解してくれない気がする。あんなに解ってくれていたのに、近頃はどうもすれ違うことばかり。

 だから会話が噛み合わなくて、全然楽しいと思えない。

 一度は解ってくれていたから、今のこの解ってくれない状況が、よけいに腹立たしく思えて仕方がないのだ。

 榮田さんは困ったような顔をして、私に向かって弁明を始める。

「解っている。解っているさ。ただ君が、俺が君を解っていないと思い込んでいるだけだ。そう感じたなら申し訳ないが、君は病気で、思い込んでしまったり不安を覚えたりするのは普通のことなんだ。だから……」

「もういいです! なんでも病気、病気って、お医者さんもあなたも」

 私は勢いのまま外に飛び出した。自分が今冷静でないことは解っている。でも、衝動を抑えきれないのだ。

 外に出たって、財布も何も持っていない今、何も出来ることはない。例えばインターネットカフェに入って一晩明かして冷静になるとか、そういうことが一切出来ないのだ。

スマートフォンも置いてきてしまったから、彼に謝ることも出来ない。

 仕方がないのでただ歩いていると、小さな公園を見つける。誰もいない、暗い暗い夜の公園。ブランコに座り、ただ一人ぼうっと過ごす。時計がないからどれくらいの時間が経ったのかもわからない。

 どうして榮田さんは解ってくれなくなったのだろう。彼の言う通り、病気のせいで私がそう思い込んで不安になっているだけなのか。

 そんなことを考えていると、真後ろに人の気配を感じる。

 もしかして榮田さんが見つけに来てくれたのかな。そんな幸せなことを考えたのも束の間、私はあっという間に口を塞がれ高と思うと、手首を掴まれて後ろに回され、ガムテープのようなもので固定された。

 瞬く間、というのはこういうことなのだと思った。

 人攫いか――

 頭は変に冷静だった。さっき、彼と口論している時にこれだけ冷静になれたらどれだけよかっただろう。

「騒ぐなよ」

 もし抵抗したら……

 そう考えると、酷く恐ろしい気持ちになった。

 そのまま私は引きずられて行き、真っ暗な車の中に連れ込まれた。車が急発進し車体が強く揺れる。車内には三人分の声がある。

 私はまわされる(・・・・・)のだろうか。

 今まで強く言い寄ってきた男の人もいたにはいたけれど、こんなに強引な手段に出られたのは初めてだ。

 数十分間車に揺られて、その後、ガタガタと強く揺れる道に出た。外は見えないけれど、恐らく山林の中だろう。タイヤが砂利を踏むような音がはっきりと聴こえる。

 しばらくして車が止まり、彼らの内の一人が私の髪の毛を掴んで外に放り投げるも、手足がガムテープで縛られているから逃げることなんて出来ない。それに、逃げればもっと酷い目に遭うかもしれない。

 最悪、今日ここで私は殺されるだろう。

 一人がビニールシートのようなものを敷き、一人が私の手足のガムテープを外す。そして残る一人が、私に跨って乱暴に衣服を脱がす。それは脱がすと言うよりも、破く、に等しい乱暴な行為だった。

 ビニールシートを敷いていた一人が吸っていた煙草を私の太ももに押し付ける。熱いと言うよりも、痛くて仕方がない。爪の先で強く押されて溶けて行っているみたいな感覚。

 口にガムテープが貼られているから叫ぶことも出来ない。叫んだところで、誰も助けには来ないだろうけれど。それでも、叫ぶことで痛みの放出が出来ないのは辛いことだった。

 それからの記憶は曖昧だ。

 辛く苦しい時間だったことは覚えている。

 目が覚めるとそこは公道のど真ん中で、薄暗い朝方の時間帯だった。

衣服は一切身に纏っていなかったし、陰部は焼けるように熱と痛みを帯びていた。

通りすがった車の一台から人が降りてきて、人が一人私のそばに駆け寄ってきて、どこかに電話をかけている。

どれだけの時間が経ったのかはわからないけれど、救急車がサイレンを鳴らしてやってきて、私は担架に乗せられ車内に運び込まれた。

何も思い出したくない。

きっとこれから、私は病院に運ばれた後、警察に事情聴取されるだろう。でも、夜にあった出来事の一切を、何も思い出したくない。

そんなことを考えながら、私は意識を手放した。

もう何も考えたくはなかったから。

 そして目が覚めると、私はふかふかとは言い難い硬いベッドに横たわっていて、真っ白な天井が目に映った。

 横には、榮田さんの姿があった。


     〇


「どうしているんですか……」

 絞りだすような彼女の問いかけに、俺は「連絡があった」とだけ答えた。

 病院に運び込まれた後少しの間だけ目を覚ました彼女は、俺の電話番号と、夫だと言うことだけを救急隊員に伝えたらしかった。

「こんなことにまでなるなんて、思っていなかった。すまない」

「榮田さんは悪くないですよ」

「いや、俺に責任がある」

「どうしてそう思うんですか」

「俺がすぐに君を追いかけていれば……あるいは、家を飛び出そうとする君の手を掴んで、行かせなければよかった」

後悔先に立たず。それを身を持って知った。

少しの間だけ、病室に静寂が訪れる。すると、部屋に医者と看護師、それに警察官が入ってきたので一礼する。

「まず、目が覚めてよかったです」

 医者が伏し目がちに言う。

 詳細はまだ何も聞かされていなかった。彼女も眠っていたのだから、詳細なんて誰も知らない。しかし、警察官が来ると言うことはそういうことなのだろう。

 誰の目から見ても明らかなことはある。彼女は乱暴されたのだ。

 どこまでのことがあったのかはわからない。

 それを今から、彼女に訊くのだろう――

「榮田春さんですね。私はこういう者です」

 警察手帳を広げて見せる警察官。名前は前川利明というらしい。

「事情をお聞かせ願いたいのですが……」

 様々な書類を机に並べ、前川は至極事務的な対応で書類をさばいていった。あくまで事務的に、冨江の心になどなんの配慮もなく、話を身勝手に進めていった。

 それが仕事だからと言ってしまえばそれまでだ。しかし、だからと言って、こんなにも残酷なことがあっていいものか。

 昨晩、家を出てから何があったのか。

 俺も横で聴いていたが、ところどころ、冨江にもわからない……と言うよりも、思い出せない点があるようだった。

 無理もない。相当酷い目に遭ったのは誰の目にも明らかだ。心に大きな傷を負ったことは間違いないのだ。心が、記憶を拒んでいるのだろう。

「春さんが眠っている間に調べさせて貰いましたが、証拠……精液は検出されませんでした。それと、爪の間も調べましたが、特に犯人の皮膚なども出てこなかったので、仮に犯人が初犯でなかったとしても、DNAによる特定は不可能です」

 前川の口からは、残酷な言葉しか出てこない。

 その後、前川が帰ると医者から説明があった。

 体にいくつもの根性焼きと思しき火傷痕が見られること、性器が裂けていたため処置をしたこと、酷い経験をしたために、恐らくPTSDを発症する可能性が高いこと。

この世界はなんて残酷なんだと嘆きたくて仕方がなかった。

「念のため、もう一日入院して様子を見て退院しましょう。退院後は、診療情報提供もしますので、かかりつけの精神科にもかかってください」

 そうして俺は家に帰されて、翌日、予定通り退院となった冨江を迎えに行くのだった。

 車で迎えに行くことにした。今、公共交通機関に冨江を乗せるわけにはいかないと思ったためだ。

 病院に着いて病室まで冨江を迎えに行くと、憔悴しきった表情の冨江が、着替えを済ませてベッドに腰かけていた。着替えは看護師に手伝ってもらったのだろうか。とてもじゃないが、一人で何でも出来ていたこれまでの彼女とは似ても似つかない様子だ。

 食事も摂れなかったという彼女を支えながら、病棟を出て車に乗せると、彼女はぽつりと一言呟いた。

「ごめんなさい」

 この謝罪は、俺に向けられたものではないと、すぐに解った。

 きっと、彼女に乱暴をした奴らに対して謝り続けたあの夜を思い出したのだろう。

「もう奴らはいない。謝る必要はない」

 車を発進させる。

 彼女は、しゃべらなくなった。


     〇


 帰宅して手を洗いに行った彼女が、しばらく戻ってこないことに気が付いた。様子を見に行くと、洗面台の鏡を必死に磨いていた。

「どうしたんだ」

「汚いので」

「それはすまなかった。掃除を怠っていた」

 汚れはないはずなのに。おかしいな、と不思議に思いながらも、俺は度々鏡を磨く彼女を放ったらかしにしていた。

 なにかあるとは思った。しかし俺は医者じゃない。だから、彼女の身に、心に、今何が起きているのか全く解らなかったのだ。

 夜中、突然泣き叫んで起きる彼女を、俺は見ていることしか出来なかった。

 もう少し家でゆっくりしてから、と考えていたが、やはりすぐに精神科に連れて行くことにした。

 車に乗せると、彼女は泣いていた。

「どこに連れて行くの」

 連れ去られた時を思い出しているのかもしれない。

「病院だよ。俺は、君の夫で、君に乱暴なんてしない。安心してくれ」

「病院……」

 うつろな目をした彼女は、それからまた、しゃべらなくなった。

 かかりつけの病院に着き、俺も同席して診察室に入る。

 医者は変わりなく訊ねてくる。すべての受け答えを俺が行う。

「トラウマがひどいようですね。それに、きっと鏡を磨く行為は強迫性障害でしょうね。そういった患者さんもいらっしゃいます。汚いものが嫌になったり、映った自分の姿を綺麗にしたくなって、それで磨くんですよ。鏡が鏡として機能しなくなるほどにね」

「そうですか……トラウマにはどう対処していけばいいんでしょうか」

「まず、元凶となったものから遠ざけるのも手でしょうね。ゆっくり慣らしていくんです。例えば今回のケースで言うと、火傷の原因になった煙草を見せない、とか」

「わかりました」

「しかし……」

「はい」

 医者が一息ついて、言う。

「男性恐怖症の気があるのは、どうしたものですかね。今も怯えているように見える。日常生活に相当支障が出るでしょう。ご主人と二人の時は何ともないのですか」

 思い返せば、少し怯えたような表情は消えていなかった。

「いえ、私のことも、怖いのでしょうね」

「やはりそうですか」

「ええ。なんとか彼女の恐怖が軽減されるよう努めます」

 診察が終わり、帰宅する。

 彼女の様子はずっとおかしなままだ。

彼女のために出来ることは何か、考えに考えた。

まず、俺に出来ることとしては、彼女が起きている時に目の前で煙草を吸わないこと。つまり、喫煙していいのは眠っている間だけ。

それと、女装で過ごすこと。出来る限り男性の格好の姿を彼女には見せない。そうすれば、多少は男性への恐怖も軽減されるだろう。元々は綺麗な恰好をするのが好きで、自分を飾りたくて始めた女装が、こんなところで功を成すだろうとは思いもよらなかった。

全ては愛する彼女のために。

俺の持てる全てを、彼女のために。

 疲れて眠ってしまった彼女の寝顔を眺めて、愛おしさを覚える。

 次に彼女が目を覚ました時、俺は女性の格好をしているだろう。この先、彼女の恐怖が消えゆくまで、ずっと女装をし続ける。これからは自分のためではなく、彼女のために女装をする。

 気を消耗してしまった彼女を、この先ずっと、一生かけて支えて行こう。

 そう、心に決めた。




     4




 あれから一年の時が経過した。

 彼女の容態は改善していないどころか、酷くなっている気さえする。

 一年間、俺は彼女の目に入るところでは絶対に喫煙をせず、煙草の匂いさえ消して、彼女の男性に対する恐怖心を少しでも和らげるために女性の格好をして過ごしてきた。

 しかし、それでも、何も状況は変わらなかった。

 あらゆる所作、振る舞い、そして口調でさえ女性のものにしてきた。俺は女性なのだと思わせようとさえした。それでも、俺が男性であることは知っているから、本質的なところを見て、彼女は男性としての俺への恐怖心を消すことは出来ないようだった。

 プライベートがこんな状況でも、仕事には熱心に打ち込んだ。カネがなければ、彼女を病院に行かせることも出来ないから。

 少しでも美味しいものを食べさせて、少しでも興味のあることをして、心に余裕を持てるようになってほしかった。

 でも、駄目だった。

 彼女には何も響かないし、何も欲することはなかった。そして彼女は、自分を汚いものだと思い込んで、ただ鏡を拒み続けた。もう家中の鏡という鏡は彼女が磨きすぎたことにより、摩擦で曇って何も映らないほどになっていた。

 鏡だけならいい。彼女は、自分自身が汚い存在なのだと感じているので、頻繁に風呂に入っては自分の体をも擦り続けた。おかげで、彼女の体は見えるところだけでも真っ赤になるほど酷く乾燥していた。

 自分では出来ないため、せめて見えるところだけでもと俺が手足にベビーオイルを塗ってやると、その度に彼女は怯えた。

 男性、と言うよりも、他人、が怖いのではないかと感じる。

 元々人嫌いのようなところがあったのだから、無理もないかと思う。それにしても、見ていられない程の怯えようで……

 もう、どうしたらいいかわからない。

 そうして、時は流れていく。

一年。……また一年と。じわじわと、着実に。

「榮田さん、もう、いいですよ」

「なにが、いいんだ」

「女性の格好、しなくてもいいです。大丈夫。きっと大丈夫ですから。もう、あなただけは怖くない」

 時間をかけることで、彼女は俺にだけは慣れてくれるようになったが、他の人間にはめっきり、だった。やがて俺は家の中でも男性の格好をすることが出来るようにはなったが、彼女のヒト恐怖症は一向によくはならなかった。

 彼女は全くと言っていい程外に出られなくなったし、時には通院ですら難しい日もあった。

 しかし、真夜中は人がいないので、俺が着いて行くことでなんとか外の空気を浴びることが出来ている状況だった。夜中の散歩も、初めは行けなかった。当然だ。夜中にあの出来事は起こったのだから。けれど、今、唯一信頼出来る俺がいるという安心感からか、徐々に長い時間散歩出来るようになっていった。

これはリハビリだった。

働くこと――物語を書くことすら出来なくなってしまった彼女が、社会復帰するための、リハビリ。

 一歩ずつ、着実に、彼女は歩み始めていた。

 そんな時、事件は起こってしまった。

 彼女が眠っている間、俺がベランダで喫煙している、午前三時のことだった。

「あ……」

 いつもは眠っている彼女が起きてきて、俺を探していたのだ。

 すぐに火は消した。

でも、遅かった。

 彼女はどこかへ走って行って、俺はすぐにその後を追いかけた。

「来ないで!」

 キッチンに立つ彼女は、包丁を握っていた。その手は俺ではなく、自分に向けていた。

 ああ、やってしまった。

「もう、いい。もういい。信頼出来ない。嘘を吐いてた」

「違う。いや、違わない。だが嘘を吐くつもりではなかった。君が怖がると思って、一日に一度だけ、ああして外で喫煙はしていた。それでも、君の恐怖がなくなったら、全てを明かそうと考えていた。俺が悪い。謝る。すまない」

「いい。いいから。もう死ぬ。死ぬから」

「その包丁を置いてくれ」

「出来ない」

 彼女はそうして、瞬く間に己の手首に包丁を押し当てて、勢いよくスライドさせた。

「やめろ!」

 俺の声は届かなかった。遅かった。

 彼女の手首からは大量の血が流れている。急いでタオルを持ってきてその場にうずくまる彼女の手首を止血し、スマートフォンで救急車を呼ぶ。

 どうして。どうして?

 いや。全部俺のミスだ。

 俺が彼女に各仕事なんかするから、こうなったのだ。

 彼女は俺の腕の中で、涙を流してこう言った。

「私……死にたい。死にたいんです」

 彼女が『死にたい』と口にしたのは、この数年で初めてのことだった。決して口にしなかったその言葉を、俺が、この手で引き出してしまったのだ。

 罪悪感、なんてものでは済まない。

「死なせるものか。死なせない。君は、俺が一生支えていくんだ」

「じゃあ、なんで、嘘」

「すまなかった。もう、このほかに君に隠していることは一つもないと誓う。信じてくれ。せっかく勝ち取った信頼をこの手で壊した俺が言えた義理ではないが……誓うから。君を支えたい覚悟は、本物なんだ」

「覚悟が、本物なら、どうして」

「すまない、すまない……本当に、俺が悪かった。君を裏切った」

 正直なところ、俺も憔悴しきっているのだろうな。と、そう思う。彼女の生活の介助をしながら、家事も仕事もこなしてきたのだ。でも、疲れているとは言いたくなかったし、そう思いたくもなかった。

 一日に一度だけ、真夜中に自分の時間として煙草を吸う時間を設けたのは、きっと、自分を守るためだったのだろうと思う。でも、それも彼女にとっては言い訳に過ぎないことであって。

 彼女を一生支えると決めたのであれば、そんなことはしてはならなかったのだ。

 なぜ、どうして、こんな過ちを犯してしまったのだろう。

 そのうちに救急車のサイレンが聴こえてきて、俺も同乗して彼女は病院に運ばれた。数針縫うくらいで済んだのは幸いだったが、包丁程度の厚みと切れ味の刃物で手首をこんなに切り付けてしまった彼女は、本当に死ぬ勢いだったのだろうと思う。

 処置を終え、そのままタクシーで帰宅するも、彼女は泣きっぱなしで話すことは出来ない。

 本当は医者に「精神科に入院してはいかがですか」と提案されたが、断った。人が怖くて仕方がない彼女に入院なんて耐えられるはずもないと思ったためだ。

 彼女には俺しかいないのだ。

 愛されているかどうかは、さておき。

 ああ、でも。

「君は富栄に憧れているんだったな」

 泣きつかれて眠ってしまった彼女の額を撫でて、俺の心に一つのビジョンが浮かぶ。

 一人で死なれてしまうくらいなら、いっそ、二人で死ぬ道もあるのではないか。彼女が憧れる富栄のようにしてやれるのではないか。

 川の上流で二人で入水するさまを思い浮かべた。

 それも悪くない、と思った。

 ふと、彼女が目を覚ます。

 涙の乾いた跡が彼女の目尻を汚している。

 彼女は、ぽつりとつ呟いた。

「私、ずっと富栄になりたいと思ってた」

「ああ、知っている」

「愛した人と死ぬことを夢見てた。でもそれは叶わない。私は他人を愛せないから」

「……俺のことも?」

「そう。結局あなたのことも理解出来なかったし、あなたの知性を愛していただけ。私にひとは愛せない。私は、富栄にはなれない」

 酷く悲しそうな弱弱しい声音に、俺まで涙を流しそうになる。

 そして、決めた。

「俺を愛したふりをしろ。そうすれば、お前は富栄になれる」

 春と二人で死ぬことを、決めた。

 それを理解した彼女は少しだけ微笑む。

「そうすれば、本当の愛を知れるのかな」

 少しだけ悩む。

 しかし、解っている。

 彼女はきっと、疑似的にでも富栄になれたらそれで満足出来るのだと。

「知れるさ、きっと」

外は大雨警報。

ざあざあ、ごおごおと雨風の音が聴こえる。窓ガラスも音を立てて揺れている。

土砂降りの中、俺と春はひとつの紐だけを持って、手を繋ぎ外に出た。


      〇


 川沿いを歩いて、川上を目指す。

 春と一緒にいて、俺たちは出会った時以来、一度もデートらしいデートをしたことがなかったな、などとこれまでを振り返る。

 それにも関わらず、これから、太宰と富栄が死んだように、川の上流で入水して二人、死ぬのだ。

 一つ違うのは、俺と春が夫婦であること。

 それでも、真実の愛と死に場所を求めていることは、かの二人と何ら変わらない。

 何も後悔はない。

 春と一緒にいた期間は、楽しいことだけではなかったが、それでも、俺は春と一緒に暮らせて、夫婦になれてよかったと感じている。

 愛する人がほかの人のもとに行ってしまわない。それだけで安心出来た。

 雨に濡れた彼女が、誰も寄せ付けないような眼差しで周囲を睨めつけているのが印象的だった。本人にそんなつもりはないのだろうが、彼女は酷く威圧的だった。だからこそ気になった。どんなことがあって、そんな目になったのだろうかと。

 その時点では単なる好奇心のはずだった。

 ハンカチを渡して彼女と会話しようとした時、彼女が一瞬、ふと笑ったのが綺麗で、俺は瞬く間に彼女に惚れてしまったのだ。自分が笑ったことには気づいていないみたいだったが……

俺は醜い程に必死だった。彼女をどう振り向かせようかと。

 川の上流に辿り着いた。

 ざあざあ降りの中、俺と春は見つめ合っていた。

「それじゃあ、手首を繋ごうか」

 持ち出してきた紐で俺と春の手首を結ぶ。

 すると、春が紐を解いて言う。

「だめですよ、それじゃあ」

「駄目?」

「絶対に解けない結び方があるんです。こうして……」

 しっかりと結ばれた手首を見て、にこりと笑う彼女の笑顔は、あの時とはずいぶん違って見えた。

 あの時よりも、今までのどんな時よりも、今の彼女の笑顔は美しかった。

 俺たちは一度だけ、最初で最後ののキスをした。

「……これで、私は富栄になれるのかな」

「なれるさ」

そして、手を繋いで勢いを増している川に飛び込んだ。

沈みゆく身体。どんどん流されてゆき、息が出来ず苦しくて、土砂に当たれば痛い。

それでも、妙な高揚感と幸福感で俺の心は満たされていた。

手が離れても、手首を紐で括ってあるから、春と離れることはない。

ああ、これが太宰と富栄の感じた心か。

俺はそのまま、意識を手放した。


     〇


 榮田さんと一緒に川に飛び込んだ。

私は、最期に富栄になれた。

愛に生きて愛に死んだ、あの彼女になれた。

こう思えるだろうことを榮田さんは知っていた。

だから、二人で死ぬことを選んでくれた。

私が私じゃなくなっていく。

私は富栄として死ねるのだ。

そう思えば、何も苦しいことはなかった。

ここには幸福しかない。

ありがとう。


     〇


「おおい、こっちだ。いた。いたぞ」

 確かに意識を手放したはずだった。

 俺の意識は今、何よりも鮮明である自信があった。

 目を覚ますとそこは川沿いの、恐らく中流のあたりだった。周囲には人だかりが出来ていて、通報を受けてやってきたであろう消防団員が、俺を見つけて駆け寄って来る。

「あんた、なんでこんなこと。死のうとしたのか」

 駆け寄ってきた消防団員が俺に問うてくる。

 でも、そんなことはどうでもよかった。

「春……」

 隣を見ても、手首の紐の先に春の姿はない。

「春?」

 紐の先には、何もない。

「女と死のうとしたのかい」

「……そうだ。どこに、春は、どこにいる」

 俺の言葉に、消防団員は苦そうな顔をして答えた。

「下流で見つかったよ。遺体として。なんだ。あんた、現代の太宰治にでもなるつもりだったのか」

 雷に打たれたみたいに、体が強張った。そして、思考は冴えわたる。


『絶対に解けない結び方があるんです』


 彼女は俺に、嘘を吐いた。

 それは俺が嘘を吐いたことへの仕返しでも何でもない。

きっと、彼女は俺には生きていて欲しかったのだ。

「解けないって、言ったのに」

 そんな願いに後から気が付いて、俺は、なんて大馬鹿者なのだろう。

 してやられたのだ。

 俺の春に対する理解よりも、春の、俺に対する理解の方が余程深かったというわけだ。

 俺は、今、悔しくてたまらなかった。

「俺の方が解っていると思っていたのに」

 もう、生き続けたくなんてない。

 春を失った今、俺に生きる意味などない。

 でも、一つだけ。一つだけ、やらなければいけないことがある。

 君を書くこと。

 君と俺を、書くこと。

 それだけはやらなくてはならない。俺が最期に成すべきことは、それだ。


      〇


 病院から帰って、俺は一人、部屋に籠った。

 今ほど頭が冴えている瞬間はないと思った。今なら、なんでも書けるような気がしていた。

 およそ七十二時間、俺は書き続けた。

 これが、俺の最期の著書。

 書き上げたものを全て印刷し、紐で閉じた。これで、だれかがこれを見つけてくれる。

今度こそ失敗しないように。

梁に紐を括りつけて、俺は、椅子の上に立った。

 心を決めて、椅子を蹴る。

 すぐに首が折れるような鈍い音がした。

 息も苦しい。涎が垂れて、俺は、意識を失った。


     〇


 後日、榮田修二が死んだという報道でニュースは一日だけ賑わった。

 自宅の前は記者に溢れている。

 そこで、彼の編集担当者である多嶋敦は彼の家を訪れていた。

 彼は、榮田修二の机の上に、一つの原稿が置いてあるのを見つけた。


“君を解く”


 この原稿を読んだ彼は、すぐさま会社に話を通して出版手続きを進めた。

 榮田修二の最期の著書という売り文句で、彼と“君”は世に知られることとなった。


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君を解く 真田 侑子 @amami_ch

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