第1話 primary1
図書館が唯一の居場所だったんです、と口にすれば、返ってくる反応は大体二分することが出来る。
一つ目は、真面目な学生だったんだねぇ、という好意的な視線。
二つ目は、何か複雑な事情があったんだねぇ、という同情的な視線。
有栖川の父親に家と苗字を貰うまでは、ランドセルを背負って早朝に家を出て、図書館前の公園で菓子パンを齧って、給食の時間が終わると同時に学校を出て真っ直ぐ図書館に向かって、閉館時間まで書架の隙間に座り込んで過ごした。
だから、図書館に馴染みこそあれど、愛着があるのかと問われれば答えは否。
ひとり親だった母親が、店の常連客といい仲になるのはしょっちゅうで、酔って帰ってくるたび違う男を連れて帰るので、4人目以降は名前を訊くこともやめた。
それでも、家に戻って来る間はまだ良かったのだ。
質の悪い男に引っ掛かった彼女が、店の金を持って行方をくらませてから、アパートの前には常に人相の悪い男が張り付くようになった。
小学生の一人息子がいることはすでに知られており、学区が分かれば通っている小学校なんて調べるまでもない。
通学時間帯に待ち伏せされるようになってからは、押入れの中で寝起きして、6時過ぎには家を出るようになった。
子供心にも、あの怖い大人に捕まったら恐ろしい目に遭わされることは理解できた。
下校時刻まで学校にいるわけにもいかず、逃げ場所として選んだのが、区民図書館だった。
自習室を使うにはまだ早すぎる年齢だったので、悪目立ちすることを避けて、人の少ない専門書の書架の前でうずくまって見つかりませんようにと祈り続けた。
そんなことをして、ふた月近く過ごしていたある日、年嵩の司書に声を掛けられたのだ。
『こっちにも沢山本があるのよ』
子供向けの児童書のコーナーは、親子連れが大勢おり、唯一の肉親である母親すら失った自分が入っていいものかわからない。
子供向けに背の低い書架が並んだそこは、窓から降り注ぐ太陽光が眩しいプレイスペースがあり、マットの上で子供たちが思い思いの本を広げている。
登校拒否など、様々な事情で学校に通えない子供たちが図書館に通うのは珍しいことではなく、路のこともそうだと思ったのだろう。
迷う小さな手を優しく引いて、彼女は明るい場所へ連れ出してくれた。
『ここにはいつでも来ていいからね』
ランドセルを抱えて立ち尽くす薄っぺらな背中を優しく撫でて促されて、勇気を出してプレイスペースの輪の中に入れば、年齢よりも小柄だった路はすんなりと子供たちの中に馴染んでしまった。
ここは安全だ、と悟った瞬間だった。
母親が食器棚の抽斗に残して行った生活費が底をつき始めた頃、顔馴染みの司書から相談を受けた有栖川が図書館にやって来た。
ガリガリにやせ細ったちっぽけな路には、当時の有栖川は巨漢のクマのように思えた。
鶏ガラのような細腕が三本でも足りないくらいの逞しい腕が伸びて来た時には、とうとう自分も怖い大人に捕まってしまうんだと震えあがったけれど、日焼けしたその腕からは信じられないくらいの優しい仕草で抱きしめられて、坊主、家に来るか?と言われた瞬間、母親が消えてから初めて涙が零れた。
後で聞いた話によれば、いつも同じ時間帯に一人で図書館にやって来る路を不審に思った司書が、こっそりランドセルの中身を確認して、学校に問い合わせをしてくれたらしい。
いつも午後から急にお腹が痛いと訴えて早退する路を心配して、住まいのアパートを訪ねても無人で、参観日にも懇談会にもやってこない保護者に連絡を取るも音信不通、いつも同じ服装で登校して、何を訊いてもお母さんは仕事ですの一点張りの路に手をこまねいていた担任教師は、路が夜まで図書館に籠っている事を知り、すぐに養護施設に保護依頼を掛けようとした。
それに待ったをかけたのが司書で、知り合いの刑事に相談してみると路の事を請け負ってくれたおかげで、怖い大人に怯える日々は終わりを迎えた。
父親となった有栖川は、それはそれは豪胆な男で、男子は逞しくあれ、と妻と二人がかりでやせ細っていた路に栄養を摂らせた。
足りなかった栄養素が補われればあっという間に身長が伸びて、それと同時に、自分の身体の細胞に興味を抱いた。
有栖川には実子以外にも、引き取った男の子が2人おり、男四人兄妹になった有栖川家は常に賑やかで騒がしかった。
路が人並みの子供らしい生活に慣れ親しんだ頃、妹となる梢が拾われてきて、昔の自分のようにやせ細った彼女を見た瞬間、自分がどれだけ過酷な場所で生きていたのかを思い知らされた。
そして、名前が変わっても、生活が変わっても、やっぱり図書館通いはやめなかった。
自分が生まれ変わるきっかけを貰えた場所であり、路にとって唯一のシェルターが、図書館だったから。
だから、そこでオメガの彼女と出会うなんて、ほんの少しだけロマンティックだな、とまるで妹の梢みたいなことを考えたりもした。
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