第20話 primary13-1

胸をときめかせる要素があれば、いくらでも人は前向きになれるものだ。


朝起きて、真っ先にすることは、決まって今日は突発的発情トランスヒートが起こりませんようにと祈る事。


そんな毎朝の習慣が、最近では市成に会えますようにと祈ることに代わっている。


自分の体調よりも先に誰かの顔を思い浮かべるなんて、初めての事だ。


不安以外の感情で胸がきゅうっと締め付けられるだなんて知らなかった。


こんなに落ち着かない心境で、みんな学校に行ったり仕事に行ったり日常生活を送れていることが信じられない。


世の中の女の子は本当にタフにできているらしい。


胸をはずませたり、痛めたりしながら、それでも自分の足でみんな歩いて行っているのだ。


書庫から出る時に自分の格好とメイク崩れを確認するようになった。


治験参加を館長に報告して、これからは体調を見ながらフロア仕事も手伝わせて貰いたいとお願いして、無理しないようにと念押しの上で許可を貰ったので、最近は返却本を戻す作業を積極的に行っている。


これまで全面的にフォローしてくれていた同僚たちの負担が少しでも軽くなるなら嬉しいし、フロアに出ていれば、万一市成が来てもすぐに挨拶することが出来る。


仕事と私欲を上手く絡ませる図々しさがちゃんとあったことに気づいて、何だか可笑しかった。


本当にこれまで色んな事に目隠しをして、下ばかり見て生きていたのだと思う。


今日履いている5センチヒールのバレエシューズは柔らかくて歩きやすいもの。


これまでは黒のシンプルなパンプスだったけれど、洋服を買い揃えた時に、どうせならと一緒に新調した。


ピンクベージュは見ているだけで気持ちが穏やかになるし、新しくした洋服との相性も良い。


けれど、5センチヒールだと、市成と会った時にかなり彼を見上げることになる。


180センチ越えの長身の視線を捕まえようと思ったら、最低でも8センチヒールが必要だ。


せめて茜くらい身長があれば5センチヒールでも十分だけど、158センチで止まってしまった背が恨めしい。


こんな時ですら、市成が基準になってしまうのだから、本当に恋とは恐ろしいものだ。


踏み台を持ってくるのは面倒なので、どうにか爪先立ちになって返却本を書架に戻していると、真横から伸びて来た長い腕が、紗子の手にあった本を書架へと押し込んだ。


一瞬市成かと思って期待に膨らんだ胸が、次に聞こえて来た声で一気にしぼんだ。


「今日も元気そうだね」


「~!?あ、ありがとうございます・・・」


治験が始まってから、何度か有栖川が図書館にやって来て、ついでのようにフロアに出ている紗子を捕まえて体調の変化を確認して来た。


問題があれば連絡すると伝えてはいるのだが、自分が治験に招いたことで多少なりとも責任を感じているらしい。


明らかに表情を強張らせた紗子を見下ろして、有栖川が可笑しそうに顔をゆがめた。


最近よく見る彼の表情だ。


「期待した後でげんなりするの、やめて貰っていい?さすがに俺も傷つくよ」


ちっとも傷ついていない表情で言われてもさっぱり良心は痛まない。


「・・・・・・失礼しました。今日はお仕事は?」


ちらりと隣を仰ぎ見て、ああ、そういえば彼も真尋も市成と同じ位背が高いのだと思い出す。


市成に会うまでは、異性の身長なんて気にしたことがなかった。


目線が合わないほうが助かるとさえ思っていたのに。


いまでは彼の目に止まりたくて必死である。


次の返却本を書架に戻しながら、すぐに視線を目の前に戻す。


手を止めてまで話さなくてはならない事柄はなかった。


研究所ラボの研究の賜物なのだろう、新しい抑制剤はトランスタイプのオメガのである紗子の体調を随分良くしてくれた。


おかげでこうしていままで以上に仕事に精を出せている。


「学会の帰り。市成さんじゃなくて悪いね」


ほらまた嫌味が飛んできた。


有栖川をいい人の部類に入れられないのは、彼のこういう余計な一言と態度のせいだ。


「なにも言ってませんけど」


「あの人、今週は地方出張だから図書館には来ないと思うよ」


「・・・・・・そうですか」


紗子の数倍忙しい事業部長補佐という役職の彼の仕事は多岐にわたっており、現在専属秘書を持たない西園寺のアシスタント業務と並行して、第二オメガ療養所コクーンの建設計画の主軸も担っているらしい。


彼が図書館へやって来るのは、視察の同行もしくは館長への挨拶の時くらいなので、次にいつ職場で会えるのかは分からない。


磯上たちの話によれば、蔵書点検のたびに西園寺と市成から差し入れが届いていたらしいので、次の蔵書点検の時には確実に会えるだろうが、それはずっと先の話だ。


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